BY KURIKO SATO
『ジェーンとシャルロット』
シャルロット・ゲンズブールが語る母ジェーン・バーキンへの熱い想い
『ジェーンとシャルロット』を観たなら、きっと誰もがこの母子に意外な秘密があったことに驚くことだろう。それぞれ父親が異なるジェーン・バーキンの3人の娘(姉ケイト・バリー、妹ルー・ドワイヨン)の中で、フランス人が愛して止まない国民的なミュージシャンのセルジュ・ゲンズブールを父に持ち、十代で女優としての才能を発揮して成功を収めた次女のシャルロット・ゲンズブールは、端からからみれば「目に入れても痛くない自慢の娘」に見える。
だが実は長いこと、ジェーンにとってシャルロットはミステリアスな娘で、「自分は母として必要とされていない」と感じていた。一方シャルロットも、自分は姉妹のなかでもっとも母親に愛されていないと思い続けていたと語る。お互いの遠慮や慎みも手伝って、解けることのなかったすれ違いの感情が、シャルロットが監督したこのドキュメンタリーのなかで率直に語られ、両者が近づく感動的なプロセスが記録されているのだ。
不幸な巡りあわせか、ジェーン・バーキンは本作の日本公開を直前にした、7月16日に他界した。このインタビューは、2021年のカンヌ国際映画祭で本作が披露された折に行われた。母を伴ってレッドカーペットを歩いたシャルロットは、4年に及んだ制作期間を振り返りながら、その胸中を打ち明けてくれた。
「母のドキュメンタリーを撮ろうと思ったのは、とても自分本位な理由からだった。母に近づきたい、母のことをもっと理解したい、そのための口実だった。親密な関係をみんなに披露したいなどと思ったわけではまったくなかった。ただ、面と向かって話をするのはお互いの性格が邪魔をする、何かきっかけを必要とした。それに姉のケイトが死んだとき(註:2013年12月に自宅の窓から転落死)、わたしはニューヨークに自分の家族とともに引っ越して6年滞在し、ずっと母と離れていた」
「以前、母のインタビューを読んで驚いたことがある。彼女は、『シャルロットは父(セルジュ)のことだけを気にかけていて、わたしは母親として必要とされていないように感じていた』と語っていた。たしかにわたしが父を亡くしたのはまだ19歳のときで、両親が別れた後、わたしは父といることが多かったから、突然大きな存在を失ってとても苦しんだ。だから父のことを沢山喋っていたのはたしか。でも母を軽んじていたわけではない。だから自分の気持ちを彼女に言う必要があったし、訊きたいことも沢山あった」
「企画の当初は、まだ映画の全体像も決まっていなくて、手探り状態だった。それで母について知りたい質問を考えて、リストにした。それが4年前。でも質問攻めにすることは母を恐れさせたのだと思う。日本でのツアーに同行して、旅館でカメラを回しながら質問を始めると、母は『続けたくない、やめましょう』と言った。それで企画はストップした。でも2年ほど経って、母がニューヨークに来る機会があったとき、わたしは撮影したフッテージを見せた。何がいけなかったのか、知りたかったから。で、映像を観た母は結果的に気に入って、『続けましょう』と言ってくれた」
──彼女にとってあなたはミステリアスな存在だったそうですが、あなたも彼女に同じことを感じていましたか。
「いいえ。母はつねにオープンで誠実な人だから。わたしだけではなく、一般の人に対してもそうだと思う。いつも彼女自身であり、率直だった。一方わたしはとてもシャイで、羞恥心があって。自分を見せないようなシールドを必要とした。一般の人にとってだけではなく、家族に対しても。母に気後れしていたことと、誤解もあった。というのも、母はケイトと妹のルー(註:映画監督ジャック・ドワイヨンの娘)とはとても親密だったから、わたしだけどうして違うのだろうと感じていた。姉妹に対するジェラシーではないけれど、何がいけないのだろうとずっと考えていた。
この映画は個人的な探求から始まって、最後は母に対するラブストーリーになったと思う。少なくともわたしにとっては、彼女を見つめ、母親として、女性として、アーティストとして理解することだった。そして彼女を美しく描きたかった。いろいろ考えあぐねて、最終的に自分でカメラを手に取り、母にはノーメイクで、素のままで写って欲しいと思った。おばあちゃんとして家族を気にかけるようなところや、自分が見ている母のリアルなポートレイト、わたしなりの愛情を表現したものにしたかった。つねに誠実だった彼女にふさわしい、正直な作品にしたかったから」
──あなたとジェーンが一緒に、パリのセルジュ・ゲンズブールの自宅を訪れるシーンは感動的です。今まで機会がなかったということに、とても驚きました。
「わたしはずっと母は訪れたくないだろうと思っていたし、母もわたしに遠慮をして頼むことがなかったのだと思う。でも6年ぶりにニューヨークからパリに戻ったとき、わたしはとても鬱になった。そのとき知り合いにこう言われた。『母親のドキュメンタリーを作って、父の家を一般に開放すれば、君の人生はもっと軽くなるだろう』と。そのとき、たしかに自分もそれを必要としていると思った(註:現在セルジュ・ゲンズブールの元自宅を美術館にする計画が進行中)。それに父と母のものを、とてもパーソナルなやり方でみんなとシェアできるのは素晴らしいことだと思えた」
ドキュメンタリーの定型を避け、即興的にふたりの対話を取り込んだ本作には、何度も感動的な瞬間が訪れる。だがもっとも胸を打つのは終盤、ふたりがケイトの映ったホームビデオを観ながら会話をする場面だろう。ケイトが亡くなって以来、一度も彼女の映像を観たことがなかったジェーンが、映像を観始めるものの、「やはり観たくない」とシャルロットに告白し、母としての自分の悔恨を明かす。
「わたしは父が亡くなったときは長らく彼のものを見ることができなかったし、彼の音楽も聴くことができなかったけれど、ケイトのときは不思議と家族アルバムを見たくなった。でも母を傷つけないように細心の注意を払っていたつもり。母はとても芯が強い一方で、脆さもある。母としてつねに子どものことを考え、支えていたけれど、ケイトを失ったときのショックは途方もなく、他に注意を払うことができなかったのだと思う。わたしはそんな母を置いて、自分の家族とニューヨークに行ってしまったことに罪悪感を持っている。だからそのこともちゃんと伝えたかった」
「今日、母の映画を作って、もっと早く気安い関係になれたら良かったと思う一方、この時間はやはり必要だったのだということも感じている。この映画を作っているうちに気づいたことは、これはわたしと母の物語であると同時に、母としての自分と子供たちの関係にも影響しているということ。まったく個人的な感情、わたしの家族についてのストーリーではあるけれど、観た人が普遍的な親子の関係、自分の母親のことなどを考えてくれたら、とても嬉しい」
ジェーンが亡くなってしまった今、本作を観ると一層、子どもが母親に生前伝えることができた奇跡のようなラブレターに思える。ラストシーンで、ブルターニュの浜辺でジェーンとシャルロットが抱き合う後ろ姿に、母と子の普遍的な愛情が立ち上る。
女3人の熾烈な三角関係!
エマ・ストーン『女王陛下のお気に入り』を語る
エマ・ストーンが多才な女優であることは、誰もが認めるところだろう。世界中でヒットした『ラ・ラ・ランド』で、演技のみならず歌と踊りの才も披露し、昨年のアカデミー賞主演女優賞を受賞したことは記憶に新しい。その後も『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』など話題作が続く、ハリウッドを代表する若手売れっ子女優だ。だがそれでも、次回作で純英国調のコスチューム劇に挑戦するというニュースを聞いたときは意外に思えた。
その新作は、ギリシア出身で『ロブスター』『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』など問題作を発表し続ける映画界の異端児、ヨルゴス・ランティモス監督がメガホンを握る『女王陛下のお気に入り』。18世紀初頭、イギリスがフランスと戦争を重ねる時代を舞台に、時のアン女王(オリヴィア・コールマン)と、彼女の幼なじみで秘密裏の恋人でもあり、陰で政治を操るサラ(レイチェル・ワイズ)、そしてふたりの中に割って入る没落貴族のアビゲイルが織りなす三角関係が濃厚に描かれる。もともとランティモス監督のファンだったというストーンは、監督との出会いを振り返ってこう語る。
「初めて会ったのは、この作品の制作の2年ほど前だった。当時はまだ『聖なる鹿殺し〜』はできていなかったけれど、私は『ドッグティース』と『ロブスター』が大好きだったの。こんなに尋常ではないものを作る監督がいるなんて、と驚いたのよ(笑)。でも彼に会ってとてもナイス・ガイだったので、さらに驚いたわ。ヨルゴスのような人がああいう映画を作るなんて、すごく不思議な感じがした。彼の視点はとてもユニークよ。しかも彼は(声音を真似て)『この役にアメリカ人を起用するとは考えてはいなかったけど、まあそれもいいんじゃないか』って、すごくイージーな感じだった(笑)。もちろんオーディションは受けたけれど」
こうして、ストーンの徹底的な役作りが始まった。周囲がほとんど英国人俳優のなか、彼女はまずコーチについて英国式のアクセントを学んだ。「アクセントのことを自分で気にしなくなるぐらいになりたかったの。現場ではいつも聞き耳をたて、いろいろなことを観察もしていた。チャレンジだったけれど、結果的にはそういう環境はアビゲイルと共通していたし、よかったと思っている。彼女も慣れない宮廷の中で、いつも周りを観察しているから。もっとも、彼女の場合はそこからののし上がり方がすさまじいけれど(笑)」
ストーンが演じるアビゲイルは、サラのお情けで宮廷の下働きに雇われる。だが同僚たちからは手ひどい嫌がらせを受け、いつかこんな境遇におさらばしたいと、むくむくと野心を膨らませる。有象無象の策略が渦巻くなか、彼女は機転を利かせて女王に近づき寵愛を受け、やがてサラの地位を脅かすほどになる。ストーンは自身の役柄をこう分析する。
「アビゲイルはサバイバーよ。彼女がこうむってきたさまざまなことから生き延びて、新たな地位を手にいれる。決して性格がいいとは言えないけれど(笑)、頭が切れて人を操作するのにも長けている。でも私は彼女をジャッジしたくはなかったし、彼女の行為を正当化するつもりもなかった。ただ演じる上で、どうして彼女はこうなったのかという自分なりの解釈を持っただけ。たぶん映画を観た人は私同様、彼女のやり方には共感できなくても、感情的にはどこかで部分的に共感するのではないかしら。同じような立場に立たされたら、自分もそうするかもしれない、というふうに」
ストーンにとってはまた、初めてのコスチューム劇であることもハードルが高かった。「本当に息ができないぐらいコルセットが苦しかったわ! でもそれは一方で、役作りの助けにもなった。ふだんとは異なる思考を得るためにね。そして彼女の地位が上がっていくに連れ、コスチュームも立派になっていくの」
素顔のストーンは陽気でユーモアに満ちた、天性のポジティブ思考の人という印象がある。取材の受け答えも、ときにランティモス監督の声音を真似たりしながら、表情豊かに語ってくれる。
「この物語はまったく異なる女性3人を核にした、とても珍しい脚本よ。しかも3人それぞれが欠点を持ち、とても複雑で、コミカルな味もある。一見特殊な世界だけど、複雑な現実のリアリティを反映していて、だからこそとても面白い。女優同士、ライバル意識はなかったかって? あったと言いたいところだけど(笑)、実際はその反対。こういう話だからこそ逆に、俳優たちの団結が大切だったの。わたしたち3人は、打ち解けて信頼し合えるように、ヨルゴスと一緒にセットに入る前に3週間、リハーサルをした。そのおかげで、どんなことにも一緒に立ち向かえるようなチームワークが生まれた。私にとってはとても貴重な経験よ」
最近30歳を迎えたストーンにとって、本作はまさに20代最後の記念すべき作品になったようだ。だが、30歳になった感想を尋ねると、こんな答えが返ってきた。「30歳になって嬉しい! どうしてって、20代は自分が何者であるかということを模索するうちに、足早に過ぎていった感じがするから。キャリアに関してはとてもラッキーだったと思うけれど、息をつく間もないぐらい忙しかった。30代になったらもう少し落ち着いたペースで、じっくりと好きな仕事に集中できるような気がするの」
果たしてその前途洋々な30代に彼女がどんな軌跡を残すのか、それもまた、われわれの楽しみのひとつである。
『ローズメイカー 奇跡のバラ』
主演・大女優のカトリーヌ・フロに迫る
カトリーヌ・フロと聞いて、すぐにその代表作が浮かぶ方は、フランス映画通と言えるかもしれない。フランス女優のなかでは、もうひとりのカトリーヌ(・ドヌーヴ)や、同世代のイザベル・ユペールに比べると、彼女は下積みが長く脇役を演じることが多かったからだ。だが本国では庶民的な人気を誇る大女優。映画から演劇まで、その出演作は毎回、話題にのぼる。
女性シェフの先駆けとなるような、フランス官邸の女性料理人に扮した『大統領の料理人』(2012年)は、日本でもヒットを記録した。『偉大なるマルグリット』(2015年)では、自分が音痴であることに気付かない、歌うことが大好きな貴族のマダムに扮し、フランスのアカデミー賞と言われるセザール賞の主演女優賞に輝いた。近年では、ドヌーヴと共演した『ルージュの手紙』(2017年)が記憶に新しい。スター然としたオーラではなく、親しみやすくチャーミングな魅力の彼女が幅広い層に支持されるのも頷ける。
新作『ローズメイカー 奇跡のバラ』のピエール・ピノー監督にとっては、そんな彼女こそがヒロイン、エヴにぴったりだったと言う。
「僕にとって、彼女はどこかフランス的なエスプリを体現する人なのです。彼女の佇まい、喋り方、そして人間味。さらにコミカルな演技からシリアスなドラマまで自在に演じられる、幅広い演技力も魅力でした。この物語にはちょっと荒唐無稽なところがありますから、真実味を持って演じられる彼女のような女優が必要でした」
世界に名高いフランスのローズメイカー、ドリュ社の全面協力を得て撮影された本作は、父親のバラ園を受け継ぎ、その天賦の才で新種のバラを開発し成功を収めながらも、いまは破産寸前にある主人公が人生を立て直す物語だ。社員を雇う余力もないなか、苦肉の策で職業訓練所から来た3人の素人の手を借りることで、思いもよらない転機が訪れる。本作の魅力をフロはこう語る。
「これは感情の交流を描いた美しい物語です。ひとりでは八方塞がりでも、人と連帯することで道が開ける。この物語の場合は赤の他人が集まって、結果的にそれぞれにとって未来への希望が見えてくる。そこに心を動かされました」
両親に捨てられたフレッドは、エヴのもとで自分に特別な嗅覚が備わっていることに気づき、新たな一歩を踏み出す。かたやバラに人生を捧げ、父なき後は天涯孤独に自分の世界に籠っていたエヴは、フレッドにより再び人を信頼する心を取り戻す。
「エヴは母親にはなれなかったけれど、フレッドを通して母性にめざめる。それによって彼女自身の閉ざされた心の扉が開くのです」
本作にはまた、大企業対、職人技にこだわる個人企業という現代社会に顕著なテーマも含まれている。エヴのバラ園は、大量生産の巨大企業によって次第に居場所を追われ、借金が嵩んでいくのだ。
「残念ながらそれは、今の世の中の風潮ですね。大企業がつねに大量生産によりもっと安く、もっと売ることを目指すなかで、エヴのような職人気質の人々は商売がやりづらくなっている。でも彼女にとって、バラは単なる商品ではありません。人生であり、ポエジーです。エヴは不可能な闘いに挑む戦士なのです。抵抗することをあきらめない。そんな彼女のキャラクターにも、とても共感します」
カトリーヌ・フロのキャリアを振り返れば、彼女もまたある意味で戦士だったことがわかる。映画界では遅咲きの感があるフロだが、早くから演劇に目覚め、19歳で友人たちと自身の劇団を立ち上げる。フランスの名門、コメディ・フランセーズ(パリの国立劇場)の入団試験を受けるものの、不合格になったことがきっかけだった。ちなみにこのとき、最後まで競って入団したのはイザベル・アジャーニだ。
「権威あるところに所属することを望んでいた両親は、失望しました。とくに父はわたしに対して批判的で厳しかったので、とても辛かった。でも却ってやる気が起きました。それでわたしは両親のもとを早くに離れて劇団を始めた。もともと内向的で控え目だったのですが、演劇を通して自分を開放することに喜びを覚えたのです」
彼女の努力はやがてゆっくりと実を結ぶ。演劇仲間の縁で知り合ったアラン・レネの監督作、『アメリカの伯父さん』(1980)で映画デビュー。1985年、『C階段』が高く評価され、1996年、セドリック・クラピッシュの『家族の気分』でセザール賞助演女優賞を受賞し、広くその実力が認められる。
現在もスクリーンから舞台まで、自在に活躍を続ける彼女だが、俳優の醍醐味について尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「この仕事で好きなところは、演技を通してさまざまなことを学べる点です。この映画ではバラのことはもちろん、その交配についても学びました。バラの交配のシーンを演じるために、ドリュ社のドリュ夫人が直々に手ほどきをしてくれました。彼女の仕事は美の探求。信じられないくらいに繊細な世界であると知って感動しました。
わたしの職業は<フリ>をすることです。本当は良く知らないのに即席で覚えて、さも専門家のように振る舞う(笑)。でもそのたびに好奇心を刺激され、まるで旅をするように異なる領域を訪れることができるのは、とても恵まれたことだと思います」
我々、観客の好奇心も満たしてくれる彼女の旅は、これからも続いて行く。