カルティエのアイコンとともに受け継がれるさまざまな愛の形。作家・辻 仁成が、「LOVE」、「ジュスト アン クル」、「サントス ドゥ カルティエ」をめぐる連作ストーリーを書き下ろす

BY HITONARI TSUJI

The Story for 'JUSTE UN CLOU'
「サンジェルマン・デ・プレ物語、2」

 パリ左岸のこのカルティエ(地区)で生まれ育った。日曜日に家族とサンジェルマン・デ・プレ教会のミサに通うのが幼い頃からの習慣であった。写真家の父、文筆家の母、そして、歳の離れた姉の四人家族。家は教会から少し離れたオデオン地区のギャラリー街にあった。信心深い父は教会の撮影を使命としていた。毎週、ミサに集まる人々の写真を好んで撮影し、個展を開いたこともある。それは変哲のない、モノクロの写真で、でも、多分、二十年以上、撮影し続けてきた教会に集う人々の純朴な姿であった。

 堅苦しいミサの時間が苦手だったぼくは、その写真に刻まれた歴史や光が重たくてしょうがなかった。ところがある日、小学生の頃のことだが、一人の少女をそこで目撃してから、その退屈だったミサが途端に素晴らしい、意味ある場へと変わることになる。そして、その子も、ある日、ぼくの存在に気がついてくれた。

 ミサが待ち遠しくなった。誰よりも早く着替えて、家族を急かすこともあった。ぼくと少女の距離は歳月とともに、少しずつ、縮まっていったが、親しくなる機会は訪れなかった。そうこうしているうちに、ある時、ふっとその子が消えた。理由はわからない。転居したのかもしれなかった。それから、不在の長い年月が流れることになる。

 諦めきれなかったけれど、いないのだからどうすることもできない。信心深くないぼくだったが、もう一度、会わせてほしい、と必死で祈り続けた。冬になり、夏がやってきて、また冬が訪れ、歳月が流れた。

 ある日、大学が早く終わり、バスで帰宅途中、サンジェルマン・デ・プレ教会前の交差点で、カフェの最前列のテラス席に、成長したその人を見つけた。不意の出来事でぼくはパニックになった。「降ろして!」と叫んだが、バスは走り出してしまった。驚く乗客を押し分け、ぼくは次のバス停で飛び降りた。一区間、ぼくは必死で走った。目をこすり、それが彼女かどうかを何度も確かめた。あの横顔、子供の頃の面影があった。その人は、サンジェルマン・デ・プレ教会の尖塔を見上げていた。ぼくは取り繕うと、前に進み出て、ミサで一番見かけていた、と声をかけた。もっと気の利いた言葉を手向けるべきだったが、その時のぼくには精一杯の一言であった。しかし、それがきっかけとなり、ぼくらは親しくなった。
「なぜ、君はいつもこの席に座って、教会を見ているの?」
ある時、質問してみた。
「ママを思い出しているのよ」
「ママはどこに?」
「天国」

 数年前に彼女の母親は父親と彼女を残して他界した。そのことをずっと認めることが出来ないのだ、と彼女は語った。教会の壁に映し出される昔の自分たちの影法師を追いかけているようだった。

画像2: HAW‐LIN SERVICES © CARTIER

HAW‐LIN SERVICES © CARTIER

 ぼくらは待ち合わせ、お互いの不在の期間を手繰り寄せるようになる。肌身離さず着けているブレスレットが彼女の母親の形見であることも知った。でも、このままじゃ、いけない……。

 ぼくは彼女に現実と未来を与えないといけない、と決意した。そして、ある日、サンジェルマン・デ・プレ教会前のカフェのいつもの席で、結婚を申し込むことになる。言葉を交わしてから、3年の歳月が流れていた。

「なに?」
「これは君がこれから着けるべき新しいブレスレットだよ。この丸まった釘は大胆さを表している。君のお母さんとお父さんが交換したブレスレットと同時代に考案されたものだ」 
 ぼくはそのブレスレットを彼女の母親の形見の隣にはめた。もちろん、ぼくの腕にも同じものが装着されている。二つ並んだブレスレットは響きあい、永遠を奏で始めた。彼女の口元に、柔らかい笑みが宿った。

「ありがとう」
 彼女はそう呟くと、二つのブレスレットをもう一方の手で上から摑んだ。そして、もう一つ、彼女に渡さないとならない贈り物があった。

 ぼくはカバンの中から額縁に入った一枚の写真を取り出した。それはぼくの父が十数年前にこのカフェの前から撮影したサンジェルマン・デ・プレ教会の写真であった。そこには、教会から出てきた大勢の人々が写されていた。ぼんやりと眺めていた彼女が不意に、あっ、と驚き、息をのみ込んだ。

 そうだ。その写真の中には、在りし日の彼女の母親、微笑む父親、そして、幸福そうな彼女自身が写っていたのだから……。しかも、その後ろに、彼女を追いかけて、まさに教会から飛び出してきたばかりの、小学生のぼくまでもが……。
「何千枚という父が撮影した写真の中から探し出したんだ。ここに永遠の愛がある」

>> The Story for 'SANTOS'
>>「サンジェルマン・デ・プレ物語、最終回」

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.