朝鮮戦争で荒廃した歴史を持つ韓国。かつては、この国からラグジュアリーファッションが生まれることはないと思われていた。デザイナーのウー・ヨンミは、それが間違っていたことを証明した

BY HAHNA YOON, PHOTOGRAPHS BY JUN MICHAEL PARK, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

画像: 韓国でもっとも成功したファッションデザイナーのひとり、ウー・ヨンミ。ソウルにある自身の会社にて

韓国でもっとも成功したファッションデザイナーのひとり、ウー・ヨンミ。ソウルにある自身の会社にて

 『イカゲーム』(2021)のイ・ジョンジェ、『パラサイト 半地下の家族』(2019)のチェ・ウシク、Kポップ旋風を巻き起こしたBTSといったスターたちがこぞって着ているのが、ウー・ヨンミの服だ。この韓国出身のファッションデザイナーが国際デビューを果たした2002年当時は、戦火に引き裂かれた歴史を持つ朝鮮半島の国から、ハイエンドファッションが生まれると思っていた人はほとんどいなかった。

 人は彼女のことをマダム・ウーと呼ぶ。ウーは間違いなく韓国でもっとも成功したデザイナーのひとりだ。彼女が最高経営責任者を務めるソリッド社では、2つの人気ブランドを展開している。それが「ソリッド オム」(Solid Homme)と「ウーヨンミ」(Wooyoungmi)だ。2011年には、韓国人として初めてフランス服飾連盟の会員になった。「ウーヨンミ」のアイテムは、今やパリのル・ボン・マルシェやロンドンのセルフリッジズといった高級百貨店、ハイエンドファッションを扱うECサイトのエッセンスなどで取り扱われ、その主力商品になっている。

 ウーはこの20年ほど、パリへ行ったり来たりして暮らしながら、韓国カルチャーブームが巨大なうねりとなって盛り上がるのを最前線で見つめてきた。この現象には彼女自身も貢献しているし、キャリアを通してずっとこのブームから恩恵を得てきたと、彼女は語る。

 1959年に生まれたウーは、朝鮮戦争後の急速な経済成長の時代にソウルで育った。「国のモットーは、『よく働き、よく生きよ』でした」と彼女は話す。「ファッションに気を使うことは、まるで社会悪のようなもの。男性にとっては特にそうでした」

 そんな時代だったが、ウーは型破りな家庭でアートに親しみながら育った。彼女と4人のきょうだいは、美術教師をしていた母が作るユニークな服を着て育てられたので、学校では目立っていた。父親は建築家として不定期に働いており、アメリカ軍の兵士と親しくつき合い、レアアイテムを集めては着飾ることに熱中した。ウーの記憶では、なかでも彼が強く惹かれたのはバウハウスの家具やヨーロッパのファッション雑誌、それにクリント・イーストウッドが着ていたような長いレザーコートだった。

「当時、95%の男性はみんな似たような格好をしていました」と彼女は話す。「世の父親たちはスーツや制服を着て、オフィスや工場へと通っていました。でも私の父は、情熱の80%をおしゃれに向けていましたね」。彼女は最終的にメンズウェアデザイナーへの道を志すことになり、アートや建築からインスピレーションを得ることも多いが、これには父親の影響もあると考えている。

「正直に言って、自分の家のインテリアも、着させられていた服も、当時はすべてが恥ずかしかった。でも今になって振り返ってみると、わたしの父はすごくクリエイティブで格好いい人だったと思いますね」と彼女。

 そんなふうに育ったウーだったが、ファッションデザイナーになろうと思ったことは一度もなかった。それは、「当時の韓国には『ファッションデザイナー』という単語が存在していなかった」からだと彼女は説明する。その後、ウーはロースクールの入学試験に落ちる。彼女はこれを「運命だった」と言い表している。

画像: マダム・ウーことウー・ヨンミ。彼女が最高経営責任者を務めるソリッド社は、2つの成功したブランドを展開している。そのうちのひとつ「ウーヨンミ」のアイテムは、今やル・ボン・マルシェやセルフリッジズといった高級百貨店、ECサイトのエッセンスなどで取り扱われ、その主力商品になっている

マダム・ウーことウー・ヨンミ。彼女が最高経営責任者を務めるソリッド社は、2つの成功したブランドを展開している。そのうちのひとつ「ウーヨンミ」のアイテムは、今やル・ボン・マルシェやセルフリッジズといった高級百貨店、ECサイトのエッセンスなどで取り扱われ、その主力商品になっている

大阪、そして世界へ

 ウーは成均館大学ファッションコースに進学。在学中は、「才能がある気がしたのは一瞬だけ」だったと語る。だがそれも、1983年に大阪国際ファッション・フェスティバルのコンテストに招待されるまでの話だ。そこで彼女は大きな野望を抱き始めることになる。

 エッセンス韓国版コンテンツ編集長のヒュンジ・ナムは、当時ファッションに関しては、日本と韓国はまったく違う状況だったと話す。「1980年代末には、山本耀司や三宅一生といったデザイナーの作品によって、日本のファッションはすでに海外にも知られ始めていました」と彼女。「でも韓国には、国内においても海外に向けても、国を挙げてファッションをサポートするような力がなかった。だからほとんどのデザイナーは、たとえどんなに才能があろうとも、国内外で作品を発表する機会が得られなかったのです」

 この大阪への旅は、ウーにとって生まれて初めての海外経験だった。この地で、ファッションの歴史豊かな国から来た人々に囲まれた彼女は、コンテスト出場者としてだけでなく、ひとりの韓国人として怖気づいた。ヨーロッパ、香港、シンガポールなどから集まった参加者たちは、みな何名かのグループで来ていたと彼女は振り返る――その中で彼女は、たったひとりの韓国人だった。コンテスト前日は夜を徹して作品を仕上げ、韓服(韓国の民族衣装)をミニマルに解釈した作品ができ上がったときには、手にした針が震えていたほどだ。その作品が最優秀賞を獲得し、彼女は思わず気を失いそうになった。

「韓国ではこういったコンテストがあることすら知られていなかったし、そこで韓国人が優勝するなんて誰も思っていなかった。でもこれがきっかけで、私もファッションの世界で大きなことができるかもしれないと思うようになったのです」と彼女は話す。

 国内のいくつかのファッション系コングロマリットを渡り歩いたのち、ウーは自らのビジネスを立ち上げることにした。1998年、妹のチャンヒとともに、ソウル市内に小さなブティックをオープン。「妹は、私が『自分には無理だ』と思うときも、常に『あなたならできる』と言ってくれる人でした」とウー。チャンヒは2015年に死去。生涯に渡るビジネスパートナーとしてウーを支えた。

 ふたりは、自分たちのメンズウェアブランドを「ソリッド オム」と名付けた。コンセプトは、「自分たちが理想とする男性のための服」。「ごく真っ当で、たいていの女の子が結婚したいと思うような素敵な人。そんな男性をイメージしました」とウーは話す。そうして生まれたのが、端正でミニマルなルックの数々。当時よく「メトロセクシャル」と呼ばれていたタイプの服装だった。

画像: ウーヨンミ2021年秋コレクションのジャケット。BTSのジミンが撮影で着用し、ウェブサイトでは完売した

ウーヨンミ2021年秋コレクションのジャケット。BTSのジミンが撮影で着用し、ウェブサイトでは完売した

「ソリッド オム」は、絶好のタイミングで市場に出たとウーは語る。ちょうど1988年のソウルオリンピックの直前だったのだ。首都には海外からの旅行客やオリンピック出場者があふれ、韓国の住民も他国の人たちの着こなしに興味を抱くようになり、さまざまなスタイルを受け入れていった時期だった。

「ソリッド オム」は、トレンドを牽引する2つのグループから特に注目された。ひとつは当時オレンジ族と呼ばれた、裕福なティーンエイジャーや20歳そこそこの若者たちのグループ。その多くはソウルの江南区出身で、海外旅行の経験があり、欧米のファッションに興味を抱いていた。

 もうひとつのグループは、韓国音楽界に最初に登場したバラード歌手たち。イ・ムンセ、イ・スンチョル、ユンサンといった、主に女性ファンに支持されていたアーティストたちだ。こうして「ソリッド オム」は、口コミとセレブリティの着用により広まっていった。

「私が知る限り、『ソリッド オム』と『ウーヨンミ』は、常に韓国の男性セレブの御用達ブランドでした」と話すのは、スタイリストのジャンナ・ファン。イ・ジョンジェ、エリック・ナム、ソン・ガンといったスターを顧客に持つ彼女はこう語る。「メンズウェアブランドにとって、『ソリッド オム』や『ウーヨンミ』のように、落ち着きがありつつも美しいスタイルを確立するのは簡単なことではありません。彼女の服はわずかにオーバーサイズ。これは最近のトレンドでもありますが、でも全体としてはすばらしくフィットするのです。これはメンズの着こなしにおいて、もっとも大切なことです」

 今では多くの韓国人セレブリティがファッション撮影のために海外へ行き、韓国風の着こなしが人々の話題に上ることも増えた。「最近はすばらしい韓国発のブランドもたくさんありますが、『ソリッド オム』と『ウーヨンミ』は、ただの韓国ブランドではありません」と、ファンは話す。ウーは「たまたま韓国出身だっただけの、偉大な国際的デザイナー」なのだ。

画像: ソウルにある本社には、ウーの手がけたアーカイブ作品が並ぶ

ソウルにある本社には、ウーの手がけたアーカイブ作品が並ぶ

「フランスでクロワッサンを売る」ために

「ソリッド オム」で成功を収めてから14年が経ち、ウーは韓国で売れているだけでは満足できなくなった。彼女が作りたかったのは、より洗練されて高感度な大人、傷つくことを恐れない大人に向けたラグジュアリーブランドだった。そして友人や知人の心配をよそに、世界のファッションの中心地、パリで勝負をしたいと考えた。

「みんなから正気じゃないと言われました」とウー。「最初は韓国人だから無理だと言われ、その後は女だから余計に無理だと言われましたね」

 ヨーロッパの人々にアピールしたいのなら、韓国らしさをもっと前面に出して、見るからにアジア風のアイテムを作ったほうがいいという助言も受けた。「ヨーロッパテイストのファッションで勝負するのは、パリでクロワッサンを売ろうとするようなものだと言われました」とウーは言う。

「韓国人らしさを生かして成功したいなら、パリでトック(韓国風の餅)を売るべきなのでしょう」と彼女。「まだその土地にないものを作るべきだというわけです。でも、どうすればよかったのでしょう? たとえるなら私はパリで、あえてクロワッサンで勝負したかったのです」

 フランスのファッション界は、彼女に対して実に閉鎖的だった。パリ・ファッションウィークでの「ウーヨンミ」のショーのスケジュールは、何度も変更された――招待状を郵送した後からも変更するはめになった。彼女が雇ったモデルたちが、他のブランドに引き抜かれてしまったりもした。ショーは結局、日曜の午前10時半に開催された。ファッションウィークでも最大規模のパーティがあった翌朝で、ショーを見に来たゲストの数は150人にも満たなかった。もし『ル・フィガロ』紙に好意的なレビューが載っていなかったら、もうすっかり諦めていたかもしれないと彼女は話す。

 ウーはフランス服飾連盟の正会員になろうと心に誓った。パリ・ファッションウィークでブランドの未来を守るためには、それが唯一の方法だと思ったからだ。しかしそこに至るまでの道のりは困難だった。

 2009年まで、ウーのチームはパリにオフィスを持っていなかった。だからあらゆるもの――ハサミも針も、糸までも――を韓国から持参し、ホテルの部屋で作業していた。韓国人デザイナーに賭けてみる気のないショールームからは、何度も出展を拒否された。なかでも屈辱的だったのは、あるショールームでのミーティングの際のこと。そこのオーナーたちは、彼女が理解できないとでも思っているのか、フランス語でこんなことを話していた――「韓国? それってどこにあるか知ってる? 今じゃ韓国人もおしゃれをするのかね?」と。

「ミーティングが終わるまでは我慢して、それから泣きに泣きました」と彼女は話す。「でも自分で決めたことなので、そこで展示会をしました。それがうまく行ってから、私のほうから契約を解消したのです」

画像1: 注目のデザイナー、ウー・ヨンミ
韓国メンズファッションの母は
韓流ブームの波に乗る

輝きを増す韓国のメンズファッション

 この10年で、韓国のファッション界、なかでもメンズファッションの取り上げられ方は大きく変化した。

 韓国のラグジュアリー市場は急拡大し、市場調査を専門とするユーロモニター社によると、今や世界第7位の規模に。メンズスキンケア商品の売り上げ単体でも、2011年から2017年の間に44%も増加。そしてもちろん、韓国の男性はますます時間とお金をファッションに費やすようになっているので、世界が彼らを目にする機会も増えた。

「ひとつひとつの出来事が順番に起こったのではありません。すべての要因がそれぞれに影響しあっていたのです」とウー。そしてこうつけ加えた。「私自身も、その要因のひとつです」

「ウーヨンミ」は現在、アジア、ヨーロッパ、北米、オーストラリアに44店舗を展開。ジュエリー、アクセサリー、ウィメンズウェアにまで事業を拡大している。昨年には、サムスンとコラボレーションした限定版スマートウォッチなどのモバイル製品を発表。韓国金融監督院のデータによると、ソリッド社の2020年の収益は548億ウォン(当時のレートで4,600万ドル)で、2年前と比べて20%増加している。

「『ウーヨンミ』は、海外での韓国ファッションの認知度を高めました」と、エッセンス韓国のナムは話す。「韓国人デザイナーもパリ・ファッションウィークの常連になれるし、高級百貨店で韓国ブランドを取り扱ってもらうこともできる。そう証明しました」

 そしてナムはこうつけ加えた、ウーは「未来のデザイナーたちのために、道を切り開いたのです」と。

*この記事は2022年8月3日にニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたものです。

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