カール・ラガーフェルド(1933年ー2019年)、そしてミウッチャ・プラダ(1949年ー)。20世紀後半から現在までのファッションを築いた巨星に肉薄した、貴重なインタビュー。

BY ANDREW O'HAGAN, PORTRAIT BY JEAN-BAPTISTE MONDINO, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

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カール・ラガーフェルド、
比類なき鬼才の頭の中にあるもの

【2016年10月公開記事】

BY ANDREW O'HAGAN, PORTRAIT BY JEAN-BAPTISTE MONDINO, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

画像: カール・ラガーフェルド

カール・ラガーフェルド

 ファッションの歴史は、渇望の歴史だ。生まれつきスタイリッシュな人間などひとりもいない。誰もが少しは人の記憶に残るような特別な存在でいたい。自分ではない、別の誰かになりたい者もいる。いや、それよりむしろ、私たちの多くは、こうでありたい、と心の中でひそかに描いている自分像になりたいのである。

 文学や絵画や音楽と並んで、ファッションがその時代の社会の神髄を探求する道のひとつになって約100年がたつ。プルーストはその瞬間をとらえ、『失われた時を求めて』の中でこう表現している。ゲルマント公爵夫人のドレスは、「変えようと思えば自由に変えられるような、たまたま施された装飾ではない。天候や、または、一日のうち、ある一定の時間にしか見られない太陽の日差しのような、天から与えられた詩的な現実なのだ」。

 パリのサンジェルマン大通りからちょっと入った場所にあるカール・ラガーフェルドのアパルトマンで彼を待ちながら、私はこのプルーストの一節を思い出そうとしていた。午後1時をちょっと回ったところだったが、この部屋には時間を超越したような何かがある。ラガーフェルドは、この部屋で昼食をとるのが好きなのだ。窓にはブラインドがかかり、インテリアは灰色の陰影と鋭角的なアールデコ風の雰囲気に満ちている。ガラスは曇りひとつないまでに磨かれ、部屋には灯されているキャンドルの香りが漂う。テーブルの上にはそそり立つように置かれているジェフ・クーンズの彫刻があり、その横には1924年に公開された映画『人でなしの女』のポスターの元になった美しいドローイングがある。

 部屋の中でなんといってもいちばん目立つのが、大量の本だ。天井までの高さのタワーのような本棚に横に寝かせた形で本が積まれている。(古代ギリシャの三大悲劇詩人のひとり)エウリピデスの『エレクトラ』、(フランスの劇作家)サミュエル・ベケットの手紙。『A Companion to Arthurian Literature』、そして(ギリシャの詩人、コンスタンディノス・)カヴァフィスの詩。さらに『Alice Faye : A Life Beyond the Silver Screen』。「経験がないってことが、私の問題なんだ」。ラガーフェルドが部屋に入ってきた。握手をし、私が「プルースト」という言葉を最初に口にするやいなや、彼はいきなり、ほとばしるようにエネルギー全開で話しはじめた。

「自分で覚えている限りは、私には過去はない。ほかの人にはあるのかもしれないが。個人的には、記憶することにエネルギーを使わないんだ。プルーストの言葉は好きだが、彼が書いた内容は好きじゃない。意地悪な言い方をしてしまえば、あれだよ、コンシェルジュの息子が社交界の人間たちをじっと見ているってだけの話だ。だが、そんな社交界の中から生き残った女性もいるんだ。銀行家の妻だったマダム・ポージュだ。この夫妻はプラザアテネ・ホテルの前に巨大なタウンハウスを所有していた。ちょうど今LVMHが建っている場所にね。彼女は社交界のほかの人間たちがこの世を去った後も、延々と生きていたんだ。彼女はあまり洗練されていなかったので、人々にこう言われていた。 『彼女は、彼女自身が属していなかった社交界という世界を覚えている最後のひとりだ』とね。名前は伏せておくが、あるクチュールのデザイナーなどは、以前私にこう言ったんだ。『プルーストが好きだ。だって、プルーストの作品のいちばんいい部分は、フランソワーズ・サガンがどうやって書くか彼に教えたんだからね』と」(サガンのペンネームはプルーストの『失われた時を求めて』の登場人物から取っている)

 多分、ラガーフェルドはイヴ・サンローランのことを示唆しているんだと思う。彼はちょっと沈黙してからこう言った。
「デザイナーが白テンの真っ白な毛皮に自らの身を包む瞬間というのがあってね。つまり、プルーストを実際に読んでるか、読んでいないのに、さも読んだかのように振る舞うってことだ」

 こんな感じで私たちの会話は始まった。カール・ラガーフェルドが愛しているのは、今この瞬間だけだ。仕事は大好きだし、シャネルのために年間8つのコレクションを製作しながら、フェンディやその他の企業の仕事もこなしている。くだけた表現を使えば、彼は競馬場で優勝を目指して走る競走馬のようだ。きれいに身づくろいされているだけでなく、障害を次々跳び越え、コーナーを力いっぱいに走り抜けていく。ファッション界のほとんどの人間と違い、彼は質問が好きだ。質問されると前のめりになって答え、次の瞬間には後ろに下がって考える。だが、過去の業績に満足して新しい挑戦をやめてしまうことは決してない。未知への驚きや興奮を、彼以上に心の底から深く感じている人間にこれまで会ったことがないかもしれないな、と私は思う。

 言い換えれば、彼は自らが考えつく限りのあらゆる方法で、自身の伝説を生きているのだ。感情を見せないことが当たり前になっているこの世界で、彼は本能を研ぎ澄ませ、何か素晴らしいものを創るのだというビジョンを持ち続ける勇気をもっている。また、彼は、自分のことをあまり深刻に考えすぎないという知性も持ち合わせている。すぐ笑うし、アイコンとして奉られている自分の地位をパロディにしてしまう。私たちにとって本当に幸運なことに、彼は虚栄心を貪(むさぼ)るのではなく、自分に収入をもたらすファッション界のことを実際によく考えている。ラガーフェルドは彼自身が手がけた最高の発明である「彼自身」という作品を完全にコントロールし、把握しているわけだ。信じられないかもしれないが、彼はこの業界で何十年とやってきてもまだ、世界が未知にあふれた場所だと発見する才能としなやかな感性をもっている。未知なるものを発見することに、全身全霊で没頭しているのだ。ラガーフェルドにとって面白くないものなど存在しない。あるとすれば、死ぐらいだろうか。

「生き残るということは、あなたにとってどんな意味がありますか?」
「そうだな……私は戦場のような場にいる人間だ」
「戦うのが好きなんですか?」
「好きだね」と彼は言う。
「だが、親しい友人と戦うのは嫌だ」

 彼は自分の過去を振り返って、その業績を数えたりもしない。「ある日、人生は終わる。気にしないよ。私の母はよく『神様は誰にもひとりずついて、すべての宗教はお店なんだよ』と言ってたな」。母親は常に読書をしていた、と彼は言う。「母がソファに座って本を読んでいて、周りの人間にあれしろ、これしろ、と命令していたのを覚えている。私が子ども時代を過ごしたのは田舎で、私は学校に入る前から本を読み始めた。スケッチをすることと、本を読むこと、それ以外のことは何もない生活だった」

 昼食をつつき、ダイエット・コーラをちびちびと飲む。そんなラガーフェルドを見ながら、私は彼に昔気質のところがあるとすれば、それは彼の話し方だけかもしれないなと思った。彼の話し方は、最高だ。彼の内面と外面の両方が同時にぴったり合っているのがわかる。彼が頭の中で思考をたぐりよせながら、そこから得た学びや知恵を表現する、その調和が素晴らしいのだ。誰もが思考を能動的な行動として捉えているわけではない。だが、彼はまぎれもなくそう捉えている。

 彼がひとつの話題から別の話題にどう移っていくのか、例を示そう。私が19世紀について彼に尋ねると、彼はこう言うだけだ。「私たちは甘やかされている。今はドライクリーニングがある。当時はなかった」

 そして彼はスコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームについて話し出す。(「両親が私に送ってくれた箱に入っていた本の中に、彼の本があるのをちょうど見つけたところなんだ」)そして、すぐにドイツ人作家のギュンター・グラス(代表作に『ブリキの太鼓』。1999年ノーベル文学賞受賞・2015年4月没)について語り出すのだ。

 この段階で、私は、ラガーフェルドが意見や感情を露(あら)わに表現する様子が、見ていて実に面白いことに気づいた。私は、以前、ニューヨーク市立図書館でグラスとともに公開トークをしたことがあると彼に伝えた。グラスはその頃ちょうど回顧録を出版したばかりで、その本では、グラスがナチ党の武装親衛隊の若い隊員として過ごした日々が明かされていた。

「彼は告白するのが遅すぎた」とラガーフェルドは迷うことなく言った。「それまでさんざん読者に倫理道徳を押しつけるような作品を書いてきたくせに、そんな過去があったなんて。グラスは最もつまらない説教臭い作家だ。しかも噓っぱちの政治信条がすべてを台なしにした。(西ドイツ時代の首相で、ワルシャワのユダヤ人犠牲者慰霊記念碑前にひざまずいた象徴的な行動をとったことで有名な)ヴィリー・ブラントは賢かったな。グラスに公職の地位をやらなかったから。そして、もっと最悪なのが、グラスの描いたスケッチだよ!」

 ここでラガーフェルドは、絶対認めないとばかりに、とてつもなく大きなうなり声を上げた。「ひどいなんてもんじゃない! まるで1950年代のドイツの美術学校の中の下のレベルの学生が描いたみたいじゃないか!」

 その後は噂話に移った。彼の友人で、『InterviewMagazine』の元編集長でスタイル・ジャーナリストだった故イングリッド・シシー(通称“天才”)の言葉を引用しながら。そして、彼は言った。ファッションが仕事になると知らなかった頃、なりたかったのは漫画家だったと。

 彼は人々が彼らの持病について話すのを聞くのが大嫌いだ。(彼いわく「私は医者じゃないんだ!」)彼は精神分析医は創造性の敵だと思っている。

「分析?」と彼は言う。
「何のために? 正常に戻るために? まともになんてなりたくない」
「だからあなたは無声映画が好きなんでしょうね」と私は言った。
「だってトーキング・キュア(癒やしとしての語り。精神分析の祖フロイトらにより確立された方法)は好きではないでしょう?」
「そのとおり」と彼。

「無声映画が発明されたことは、私にとって有声映画が発明されたことより、ずっと重要なことなんだ。私にとって、無声映画は画像なんだよ。イラストレーションみたいに。学生だった頃、『カリガリ博士』を観たのを覚えてる。その後3週間眠れなかった。コンラート・ファイトが演じた奇妙な“眠り男”がうちのベランダにやってきて、映画と同じような方法で私を殺すかもしれないと思ったから。この映画の撮影風景の写真を持ってるよ。それにドイツ語版のこの映画の公開時のポスターで唯一現存している一枚も持ってる。大金払って買ったんだ」

 1954年に国際羊毛事務局の賞を受賞して以降(ピエール・バルマンとユベール・ド・ジバンシィを含む審査団によりこの賞が決められた)、ラガーフェルドは自らの人生の選択を自らの采配で決めてきた。彼はファッションの学校で学んだことは一度もないが、早くからジャン・パトゥのクチュールメゾンのためにデザインしていた。だが、ラガーフェルドはクチュールによってその名を知られるようになったのではない。

 むしろ、ほかの誰にも真似のできない腕をもつデザイナーとして、つまり、すぐに着られる高級既製服のキングとして名を轟かせてきたのだ。それも、有名ファッション・ハウスが既製服を主戦場にするずっと前から。頭脳を自分で鍛え、威信を自ら作り出し、クロエで働いていた頃には彼の名はパリのファッション界ではすでに知られるようになっていた。彼は1970年代という時代の繊細さを全身で吸収し、自身のデザインに本質的な煌めきとポップ・アートのわかりやすさを吹き込んだ。時の文化を多弁に語る究極の存在として、ラガーフェルドは名声を築き上げる。常に興奮とスリルに満ちた状態に自分を置き、フリーランスとしての人格を忘れない。自身がデザイナーとして代表するブランドのラベルをはるかに超えて、彼自身という存在を力強く打ち出してきた。

 過去60年間にわたり、業績を積み重ねてきた今、彼はデザイナーというよりも、偉大な映画監督のように見える。彼は自分のスタジオを所有しようとしたことは一度もない。ただひたすら他人には真似できない、独自の卓越した個性をデザインに吹き込みたかったのだ。それが彼の仕事の中身だ。細部にわたり気を配る映画監督のような眼力をもち、彼が紡ぐ物語とミステリアスな魅力で、ほかのデザイナーとは別格の存在になった。82歳にして、優秀なファッションデザイナーが到達しうる最高峰の姿を私たちに見せてくれている。

「映画監督では誰が好きですか?」
「エリッヒ・フォン・シュトロハイムの作品が大好きだ。なかでもいちばん好きなのは『愚かなる妻』だ」
「好きな女優は?」
「マレーネ・デートリッヒとは彼女の晩年に知り合った」とラガーフェルドは言う。
「彼女をヘルムート・ニュートンに紹介したのは私だ。ニュートンは昔デートリッヒの写真でマスターベーションしていたんだと私に語ったよ」

 ラガーフェルドは無声映画のことをもっと話したがった。
「アンディ・ウォーホルと映画を撮ったポール・モリセイと以前話をしたんだが、彼は無声映画が大好きだと言っていた。でも彼はヨーロッパの無声映画については何も知らなかった。イタリアやスウェーデン、デンマークの作品も知らなかったんだ。私はグーグルのような頭脳を持っているってわけさ」
「あなたはウォーホルの映画、『ラムール』に出ていませんでしたか?」
「ああ、そうそう」と彼は言った。
「あれは映画史上、最も子どもじみた撮影現場だったな」
「女優についての話に戻りますけど、あなたは女優たちのことをいつも気にかけていますよね?」
「そうすべきだからね。私の仕事の上でも」

 ラガーフェルドは女性が大好きだが、女性を偏愛したり、ミューズを探し求めたりは決してしなかった。彼は知性あふれるデザイナーであり、女性に対しても、体型や外見よりも、人間としての生きざまを尊敬し称賛するタイプなのだ。女性たちへの彼の愛情は移り気なところもあるが、彼はともに想像力を無限に広げることのできる人間が好きなのだ。たとえばイネス・ド・ラ・フレサンジュや(ファッション・コンサルタントの)アマンダ・ハーレックのように。彼は強靱さと知性を味方につけたことで、固定観念を拒否する女性たちの心情を斟酌(しんしゃく)できる人間になったのだ。

 私は彼に、今、彼が理想とする完璧な女性像を尋ねた。彼は躊躇(ちゅうちょ)せずこう言った。
「ジュリアン・ムーアだ」
「なぜ?」
「わからない。ただ彼女は素晴らしいと思う。彼女の人生すべてが、彼女の生き方が素晴らしい。それと(女優の)ジェシカ・チャステイン、彼女も素敵だ。若い世代の中では、クリステン・スチュワートが大好きだ。彼女は才能がある。怖そうに見えるけど、彼女は実際は誰よりもやさしくてい
い人だよ」

 彼が母親のことを語る口調からも、ラガーフェルドは強い女性たちと接することに昔から慣れているのだとわかる。彼の周囲に今もいるのはそういう強い女性たちだ。
「フェミニズムはあなたにとって大切なものですか?」
「子どもの頃、男たちを過大評価するなと教わったんだ」と彼は言う。
「私の母はフェミニズムの歴史に興味があった。そして私は子どもの頃、ユダヤ系ドイツ人のフェミニストでベルリン在住の作家だったヘートヴィヒ・ドームの話を聞いたことがある。1870年代のドイツでは女性の権利は3つのKだけしかなかった。台所、教会、子どもの単語の頭文字を取った3Kだ。ドームの孫娘のカティアはのちに作家のトーマス・マンと結婚したんだ。誰も覚えちゃいないがね。みんな英国の婦人参政権論者のことは覚えているけど、いちばん最初に女性の権利を訴えたのはヘートヴィヒ・ドームだったんだ」

 ラガーフェルドは私が想像していた以上にドイツのことをたくさん話した。ドイツとはずっと前に決別した彼だったが、それでも彼の中にずっと残っているものがある。

 彼の父、オットーは米国所有だったドイツ乳製品メーカーのグリュックスクリーのCEOを務め、それ以降、一家の暮らしは非常に裕福になった。ドイツ北部のハンザ同盟都市の世界のバート・ブラムシュテットでカールは育った。今の彼が誰で、どんな存在になったかを考えると、あまりにも遠く離れた場所に感じられるが、逆にはるか彼方な土地だからこそ、彼の過去の中のドイツが透けて見えるのだ。故郷の価値観がいまだに彼をつかんで離さないのを私は感じた。彼の職業人生こそが過去への見事な拒絶ではないかと言う人もいるだろう。だが、拒絶しているということは、過去を認識しているということだ。人は嫌でたまらないものに深いつながりをもつこともあり得るのだ。ともあれ、彼のクリエイティビティは、今、それ自体がひとつの王国だ。そして彼はその創造性をシャネルに貸し出しているわけだ。

 白いジャケットを着た執事が私たちに昼食を給仕してくれた。メインは絶妙な味で滑るような舌ざわりの魚の燻製の切り身と、アスパラガス、そして細かく刻まれたにんじんだ。「この食事、健康的な農場みたいじゃないか?」と彼は言った。「そうですね」と私。「ここに座ってるだけで体重が6㎏以上減りましたよ」。彼はすかさず笑い、執事がダイエット・コーラの入ったピッチャーを持ってきた。彼の会話のテンポは速い。まるで言わなければいけないことを言い逃してしまうのを心配するかのようなスピードだ。

「リューベックにあるセントメリーズ教会をご存じですよね?」と聞いてみた。
「もちろん」と彼は答えた。
「私の父の会社の工場がリューベックから5マイル(約8キロメートル)も行かないところにあったんだ」
 旧世界について話し始めると彼の瞳は輝いた。「1942年にあの教会が連合国の爆撃によって攻撃されたときに」と私は言った。
「築数百年の歴史のあった教会の塔の鐘が半分溶けて地面に落ちたんです。その崩れ落ちた鐘は今でもまだそのままの形で教会の塔の床の上に残っています。そしてその鐘を囲むように教会が建て直されました。この鐘はトーマス・マンが彼の子ども時代に毎朝その音を聴いていた鐘なんです」
「そうだ。それは過去だ」とラガーフェルドは言う。
「だが私たちの記憶に深く残っている過去だ。それは別格だよ。歴史自体は面白いものではない。面白いのは世間にそれほど知られていない興味深いエピソードだ」

 ラガーフェルドは49歳でシャネルのヘッドデザイナーになった。彼は完璧に適任に見えた。そして彼のあとに台頭してきた多くのデザイナーたち、つまりトム・フォードやリカルド・ティッシらは、古いブランドにどうやって新しい命を吹き込むかを彼からおおいに学んだのだ。ラガーフェルド帝国は今日ある形になるまで絶えず成長してきた。ほかとはまったく違う独自の世界を構築する秘密は、彼によれば、伝統というものを現代に合う形に変えていく作業をしながら、まったく新しいものの匂いをかぎ分けられるように、ほかの誰よりも一生懸命に働くことだという。

「ファッションは、瞬間瞬間に訪れる現実の中の目に見えない部分を、実際に目に見える形にする試みだ」。彼はメトロポリタン美術館で2005年に開催されたシャネルの画期的なショーのカタログにそう記している。煙草も吸わず、酒も飲まず、ドラッグもやらない。そんな彼は自分自身を「ファッション・マシン」と呼ぶ。常に前に進んでいくために、デザインを生産する人間のことだ。

 ラガーフェルドの外見は、何かそれ自体で完結しているものという感じだ。白いシャツの堅苦しい襟、指の部分がない手袋。暗い色のジャケットとパンツ。数々の指輪、濃い色の眼鏡とポニーテールに結った髪の毛。私が彼に会ったときは、彼の顔には明るい色のファンデーションがまるでマスクのように塗られており、髪の毛にはパウダーがかかっていた。彼の唇は肉感的で、まるでオスカー・ワイルドのような唇だ。彼の瞳の輝きを見ることができるのは、話し手の繰り出すジョークが彼の明晰な頭脳に迎え入れられ、彼がサングラスをちょっと下げて、彼の目を見る許可を与えてくれたときだけだ。

 ラガーフェルドはラグジュアリーの小宇宙のようだ。彼は、書籍を除いて、自分の周りのものにあまりこだわらない。だが、彼自身については気を配り、手入れをする。彼はできうる限り最高の世界観を表現し、常に自己改良を目指すという自身の哲学を自らに課したいのだ。

「アメリカの詩人、ウォレス・スティーブンスは以前に『金銭は詩の一種だ』と書いています。これに賛成しますか?」
「イエスでもありノーでもある」と彼は言った。
「君はどう思う?」
「何とも言えないですね」

 彼は、私たちの後ろにある大きな彫刻を一瞬じっと見つめた。パリのマレ地区のとある壁の内側に200年間隠されていた作者不明の彫刻だった。「いいかね」と彼は話し始めた。「素晴らしい芸術作品の数々は、ほとんど金をかけずに創作されている。近頃では、金持ちの人間は美術品を買う前にその作品の価値が上がるまで待つ。なぜだと思う? 彼らはたとえその作品が素晴らしくても、安い値段で買ったものを自分の家に飾るのを必ずしも喜ばないからだ。だが私はウォーホルとバスキアの作品を何点か持っていたが、人にあげてしまった。時の流れにさらされてもなお価値が残る作品だとは思えなかったからだ」

 謙虚さというものは、嫉妬と同様、そうとはわからないように見せるほうがいい。だが、ラガーフェルドはもっともっといい仕事をしたいと、性急なほど熱く求めている。ふと視線を上げると、米国の画家の(ジェームズ・マクニール・)ホイッスラーについて書いてある本が目についた。私は誰かが語ったホイッスラーについての意見を覚えている。それは「彼の問題は、まるで自分に才能がまったくないかのようにふるまっていることだ」というものだった。

 ラガーフェルドの態度はまったく正反対だ。彼は真に天賦の才能を与えられた者がもつ、ごく自然な自己への疑いをもっている。さらにその自己への不信を、アクセントの効いた個性としてこちらに差し向けてくる魅惑的な力も持ち合わせているのだ。だから自然に、私はつい彼の自己不信や疑いを取り除こうとしてしまい、気がつくと、彼がいかにも聞いてほしいと願っているような種類の質問をしてしまっているのだった。

「誰もがみんなあなたの顔を知っていますよね」と私は言った。
「それはあなたにとって奇妙に感じることですか?」
「でも普通に生活している中では、自分の顔のことなんて、私は考えていないよ」
「私はいつでも常に私の顔のことを考えてますが」
「だけどそれは君がハンサムだからだろう」
「それほどでもありませんよ」
「私の母はよく言ってたな。『おまえの鼻はじゃがいもみたいだ』って。だから鼻の穴にかけるカーテンを特注しなきゃと思うよ! 母はこうも言っ たな。『あんたは私に似てるけど、私よりも見た目がよくない』って」

 仕事に関しては彼はこう言う。
「私はいつも自分はもっと上手にできるはずだと思っているんだ。自分が欲しいものの前にはガラスの壁が立ちはだかっていて、それを打ち破って手にすることができないでいる感覚をいつも味わっているよ」
「自己に満足してしまうことは、ある意味、死のようなものですから」
「そうだ。私はいろんなことに満足しているが、私自身には満足していない」

「あなたのお父さんは優秀なビジネスマンでしたね」
「そうだ。だが、彼は別の惑星から来たような人だった」とラガーフェルドは言った。
「父は私とあまりにも違いすぎて、彼に何かを質問することすら、考えもつかなかったよ。父の母がすごく意地悪な人だったのは知っている。彼らは不思議な人たちだ。わかるだろ。彼らはプロテスタントからカトリックに改宗したんだ。最悪のパターンだよ」
「どうしてですか?」
「彼らはヒステリックで、ちょっとのことでも大騒ぎするんだ」

 世界的に偉大な話術の達人たちの多くは独り暮らしをしている。(イギリスの劇作家・俳優・演出家)ノエル・カワードは独りで暮らしていたし、(アイルランドの作家で『ガリバー旅行記』の作者)ジョナサン・スウィフトや(フランスの作家、哲学者)シモーヌ・ド・ボーヴォワールもそうだった。さらにオスカー・ワイルドはタイトストリートにあった自宅で過ごすより多くの時間をホテルの部屋で過ごしていた。ラガーフェルドは仕事を、自らの力で前進していくためのエンジンだと捉えている。彼は決して孤独ではないと言う。忙しすぎるし、それに彼の美しい猫、シュペットがいる。仕事に惚れ抜くことができる人間は存在するのだ。彼は「愛」という言葉を避けるのを好むが、ある人々にとっては、仕事こそが素晴らしい発見と日常からの逃避の瞬間をもたらすのだ。彼の美しくも昔気質な話し方で、私たちの話題はさまざまなトピックに飛んだが、そんな中、一瞬の沈黙が訪れた。

「あなたは幸せですか?」と私は尋ねた。
「人が自分自身にその質問を投げかけるとき、人は決して幸福ではないんだよ」と彼は言った。
「だから、私は自分にそう尋ねない。つまり、私は幸せに違いない。これまでラッキーだったと思うよ。私は学校もまともに出ていない。何も学んでこなかった。すべては即興なんだ。それでもそこそこやってこられた。幸福ってものは人生から自動的に与えられるものではないんだ」

 想像しているぶんには明るいが、実際行ってみると暗い都市がある。雨のソウルは美しくなかった。春なのに漢江の青色はきれいに澄んだ青ではなく、まるで圧力をかけられた血管みたいな色だった。私が到着した日、空は泣いていた。

 韓国の人々はまるで災害がさし迫っているのが日常の一部であるかのように慌てて運転する。どうしてこういう場所でラグジュアリー製品が飛ぶように売れるのか、不思議に思う人もいるだろう。だが、美しいものが生活を元気づけてくれると信じれば、それも理解できる。

 街の建築を見てみれば、ソウルには独自の文化が息づいていると感じさせてくれるような建物も少しはある。だが、最近は多くが企業の名前の入った光り輝く高層タワーのような建物だ(K-BizやSimpacなど)。また、ケンタッキー・フライドチキンの店舗もある。道ですれ違った婦人はこれ以上ないというほど完璧なピンク色の傘を差していた。また、ドミノ・ピザの店のウィンドーガラスに寄りかかっていた男性は、かつて少年たちがいつかこんな革のジャケットを買いたいと子どものの頃からずっと憧れ続けていたような、まさにそんな革ジャケットを着ていた。

 新羅ホテルの3階に行くと、ラガーフェルドが宴会場の端にある机の奥に座っているのが見えた。グラスに注がれたダイエット・コーラがすでに置かれてあり、その横には削られて先がとがった鉛筆が何本か入ったペン立てがある。そしてディプティックのキャンドルが、カールが座っている角に香りつきの小さな光輪を描いていた。彼の前にはモデルが立っている。身につけているのはレイヤーのついた黒のロングドレスで、ドレスは白い花模様の刺しゅうで覆われていた。

「ウエストの位置が高くなってるのがわかるはずだ」と彼は言って、今度は肩をすくめてみせた。まるですべては単に個人的に夢中になっていることに過ぎないんだ、とでも言うように。

「お菓子をどうぞ」と彼は言い、皿にのった見るからにまずそうな一口サイズの食べ物をすすめてきた。食べてみるとまったく味がしなかった。そして彼はまた作業に戻った。吟味し、評価し、意見を述べて、優秀な仕事ぶりを見せる。

 ラガーフェルドはシャネルのクルーズ・ショーのためにソウルに飛んできた。基本的には、彼はアクセサリーを確認する作業をしていたのだが、そのやり方が、思わず笑ってしまうほどスタイリッシュで完璧な精密さを伴っているのだ。まるでヘルベルト・フォン・カラヤンがリハーサルで、ベートーヴェンの交響曲第5番のバイオリンセクションを指揮するときのような動きなのだ。

「ヴィルジニー」と彼はフランス語で言った。
「このバーミューダパンツ、納得できる感じ? 黒とインディゴはどう?」

 彼はモデルたちに白いカメリアのブローチをもっと上のほうにつけてみるようにと提案した。候補に挙げられていたいくつかのハンドバッグを却下し、ベルトにはオッケーを出した。彼はちょっと躊躇してから、モデルに歩いてみるように頼み、今度は黒い手袋を加えるようにと指示を出した。さらに「これはエンパイア・ウエストラインより高く。韓国風に」とつけ加えた。「歴史に出てきたそのままだ」

 彼はモデルたちの眉毛を倍にすることを考えついた。つまり眉毛をふたつ描くのだ。そして別のモデルたちには眉毛をほとんど描かない。「これはちょっと思いついたアイデアなんだ」とラガーフェルド。「どうして思いついたかって? そんなこと考えたことないね」

 すべてのボタンとドレスの刺しゅうはシャネル傘下の職人技を提供する企業が製作したのだと彼は言う。「歩きながらちょっとドレスに動きを出してみて」と彼は若いモデルに言った。「動くときにドレスのレイヤーがどうなるか見たいんだ」

 彼は後ろを振り返り、今度はヘアピースの使い方を説明し、全員の注目がそちらに移った。「髪の毛を帽子みたいにしたいんだ」と言う。そしてまたモデルたちに向かって言った。「手はポケットに入れてほしいな。いい? そう、そんな感じ。いいね。めちゃくちゃクールだ」

 ラガーフェルドは彼の存在理由でもある、スタイリングに没頭していた。そして最近では同じぐらいの楽しみを写真を撮ることで味わっている。広告写真のすべてを自分で撮影し、出版部門を管理し、いつでもスタイリングしながら、常に何がいいか選択し、いつでもより新しいものを考え、シャッターを押して瞬間のイメージを切り取るのだ。彼は金儲けをする必要に迫られているわけでもなく、今さら誰かを喜ばせなければいけないわけでもない。彼自身を喜ばせること以外は。

 そして、はたから見るとそれがいちばん大変なことのように見える。ラガーフェルドが「どうでもいい」と言うことは決してあり得ないのだ。彼がすることは、すべて、これまで存在しなかったものを形にするという彼の必要性から発しているからだ。その徹底的なこだわりこそが、彼の燃料であり、この世に生きる必然性なのだ。彼は徹底的にこだわる、ゆえに彼は存在する。カール・ラガーフェルドという存在には偶然などひとつもないはずだ。彼が抑制している感情すら彼のゲームの駒なのだ。どうあれ、彼のゲームはすこぶるうまくいっている。シャネルの年間総売り上げは50億ドルに達している。

 新羅ホテルの3階ではカメラのシャッターの音がひっきりなしに響いていた。ラガーフェルドは音響スタイリストのミシェル・ゴベールを見上げ、「これに流す音楽を聴いてみよう」と言った。

 数秒のうちにA.G. クックの曲「WhatI Mean」の音が部屋いっぱいに広がった。重いベースギターの音と、シンセサイザーを多用した音だ。音がリピートされるセクションで小さな声が聞こえる。まるで2匹のシマリスがオーガズムに達しているような音だな、と誰かがつぶやいた。カールは机を手でトントンと叩きながら、振り向いた。

「この街はあまり美しいとは言えないですよね?」
 彼はうなずいた。
「灰色一色の街だ。でもここにはエネルギーがある。ずっと前から韓国に来てみたかった。でもそれにはここに来る仕事が必要だった。私は観光客ではないから」

 彼は立ち上がり、仕事を通して公の時間をともに過ごす業界人たちに挨拶をした。フランスの雑誌『Elle』のフランソワーズ=マリー・サントゥッチ、『Le Figaro』紙のゴッドフリー・ディーニー、そしてドイツ版『Vogue』誌のクリスティアーヌ・アープ。だが彼の笑顔がよりいっそうほころび、喜びで思わず喉が小さく鳴ったのは、モデルで彼の友人のブラッド・クローニングが部屋に入ってきたときだった。クローニングは彼の息子、ハドソンと一緒だった。ラガーフェルドはハドソンの後見人であり、家族のような存在なのだ。ほんのちょっとの間、自然な愛情のこもったやりとりをしたあと、〝デザイナー氏〞はテーブルについている業界人たちのところへ戻っていった。下を向き、さっと彼がスケッチしたのは、ショーの会場がどんなふうに設置されるかだった。

「これはアート・インスタレーションだ」と彼は言う。ちょっと上を見上げ、また下を見て言った。「ショーのあとはパーティ会場になる。椿の花を6000個飾るんだ」

 その夜、トンデムン・デザイン・プラザにソウル中のファッショニスタたちが大集結した。川の水で洗われて丸くなった小石を巨大にしたような形の、灰色をしたこのプラザは、ザハ・ハディドのデザインによるもので、商業地区の禮智洞(イェジドン)にある(イェジドンには韓国語で「謙虚さを学ぶための地区」という意味がある)。

 ファッショニスタたちはシャネルのすべて、またはラガーフェルドのすべてに乾杯する思いを込めて集まった。ファッショニスタたちにとってシャネルとラガーフェルドはほぼ同じ意味をもつ。ロゴがすべてのファッショニスタたちは頭のてっぺんからつま先までシャネルに身を包み、シャネル以外のものはいっさい身につけない。ショーの陶酔感は、このショーを実現させたアイコンであり、スーパースターである彼がいなければ存在しないのだ。

 観客たちは色とりどりの丸椅子に座り、そこからじっと見つめている(丸椅子は本当にインスタレーションだった。まるで分子クラスターの中心部分のような形だ)。

 観客たちはショーの始まりをこれ以上ないほどの歓声で迎えた。彼らにとって名声とは、揮発し、天に帰っていくエーテル、しかも吸っても身体に害のないように特別に作られたエーテルを、思いっきり吸い込むことなのだろう。

 クリステン・スチュワートが室内に入ってくると、よくあることだが、空気がはっきり浮遊したのがわかった。シャネルの服に身を包んだ観客の女性たちが、行儀のよさをかなぐり捨てて、椅子の上に飛び上がって写真を撮った。

 ショーの終わりにラガーフェルドがランウェイに登場した。それは鮮やかな挑戦の姿に見えた。いまだ現役として働き、さらに彼の次のコレクションのことをもう頭の中で考えているのだ。

「古いドレスは、どれももうまったく見たくないんだ」
 ラガーフェルドはパリで私にこう言った。アマンダ・ハーレックが企画し、ドイツのボンで開催された彼のこれまでの作品を集めた展覧会のことを尋ねたときだった。

「展覧会には行かなかった。私は今デザインしようとしている作品のほうにずっと興味があるから。近頃のアート・ディレクターたちにはみな、20人ぐらいのスタッフがいて、彼らがスケッチを描いているわけだが、私は違う。全部自分でやっているんだ。ドイツの古い言い伝えで『過去には価値がない』というのがある。私はそんな言葉に支えられて、全部自分でやり遂げている」
「空想することはどのくらい重要ですか?」
「もし空想しなかったら、人生は悪夢じゃないか」と彼は言った。

 ソウルで見た女性たちは、私が若い頃ともに育った故郷の同世代の女の子たちのようだった。彼女たちは、それを手に入れることで、自分が都会の一員になったような気分に浸れる一本の口紅がとにかく欲しいのだ。

「高級品というものは、ごく少数の人間しか持っていないものだ」とカールは言う。「そして、ハンドバッグを買うということは、少しでもそれに近づいていくという夢をもつことだ。それが私たちの文化であり、私を含め、多くの人間がそれによって大金を儲けている」

 人々は何が実際に欲しいのかについて彼の考えをつっこんで聞いてみると、彼は答えを濁した。あまりにも明らかに見えるが、彼にとっては非常に神秘的なものの存在を、知的な言葉で語ってしまうのを警戒しているからだ。彼はあまりにもたくさんのことを知っている。だが、多分、知ることによってそれが蒸発してしまうのではないかと恐れるあまり、知りたくないものもあるのだろう。

「私は実はとても表層的な人間なんだ」と彼は言った。
「そしてそれを何とかしようとしている。君が言うように、私はアイコンになってしまったし、そうなると現実にどっぷり浸かって生きることは不可能だ。街の通りをふらっと歩いたりすることも、もうないし」
「たとえば、一度もパリに行ったことがない若い人たちがいますよね。でも彼らはあなたを見て、あなたの中に自由を感じるかもしれない」
「それはこの世でいちばんの賛辞だよ」
「そういう人々が買っているのはハンドバッグではなく、信念ですね」
「そのとおりだ」と彼は言った。
「私はマーケティングはやらないし、マーケティングが何を意味するのかもわからない。シャネルでは、私はマーケティング関連の会議に出ない。私は働いている。だが、仕事に惚れ込んだ瞬間から、仕事はもう仕事ではなくなるんだ」

 私たちは健康や体重のことや昔のライバルたちのことは話さなかった。彼は以前その手の話題について語り尽くしていたし、彼の沈黙のほうが今はそれらを雄弁に語っているようにみえる。

 突然、彼は友情について話したがった。忠誠心をめぐる問題について機関銃のようにまくしたて、自説を朗々と披露した。その間、私は彼の部屋にあるジェフ・クーンズ製作の見ているだけでうれしくなるような掃除機の彫刻に見入っていた。

「人々が自分の足で歩けなくなると、私は時には彼らを道ばたに残して歩き続けた」と彼は言った。
「悪いとは思ったが、戦いは続くんだ。古きよき昔の話を聞くのはまっぴらだ。健康問題についても聞きたくない。母のことは愛していたし、父は別の惑星から来たような人だった。私の姉たちやいとこたちについては、私はほとんど何も知らない。彼らのほとんどはもう亡くなったが、それすらもよく知らないんだ。それでも私は他人が必要だとわかってはいる。私は自分の世話はきちんとやっている。ポンコツの車みたいな身体でいるのは心地よくないからね。以前、占い師に見てもらったとき、言われたんだ。他人のために生きることをやめれば、あなたの人生が始まります、と。私はそのとおりに生きているんだ」

 彼はすでに死んでしまった偉人たちを恋しがっているのだと思う。彼は友人たちを愛してもいるのだろう。だが賢い彼は、過去を懐かしんでもそこから何のエネルギーも得られないと知っている。

「朝起きたときに、あなたが少年だった頃と同じ目をしていますか?」と私は聞いてみた。
「私は近眼だ。現実という眼鏡をかけることはあえてしないんだ」

 若いデザイナーで誰が好きかと尋ねると、彼はひとりだけ名前を挙げた。「アレキサンダー・マックイーンのサラ・バートンだ」と彼は言う。「彼女は素晴らしい。彼女の今の作品が大好きだ。彼(マックイーン)は死と幻に取り憑かれていたし、全然私の趣味じゃなかった。だが、彼女の作品はすごくいい。彼女のドレスがあまりにも美しいので、最近、写真を撮ったばかりだ。写真をプリントに焼いてもらい、彼女に送ったよ。彼女は非凡な才能の持ち主だ。マックイーンは一緒にいて楽しい人間ではなかったし、身だしなみもひどかったが、彼女の仕事ぶりは安心して見ていられるよ。すごく詩的でとても美しい」

「憎しみというものは、何かを創造する人生において、役に立つのでしょうか?」
「状況がすべてうまくいきすぎていて、あまりにも素晴らしいことだらけ、というのは、実は非常によくないことなんだ」と彼は言った。
「安穏すぎるのはきわめて危険だ。つい眠りこけてしまうから。敵の存在を常に大切にしないと。味方である友人たちのことは心配しなくていい」

 私が帰りがけに立ち上がると、彼は彼の携帯に保存されている写真を見せてくれた。それはすべてシュペットを写したものだった。サファイア色の目をした美しい白猫だ。

「わが家では、私はいちばん大切な人間ではないんだ」と彼は言った。「私はシュペットのおかげで、少しましな人間になれたよ。自己中心的なところがちょっと減った。私は彼女に働いてほしくはないんだが、日本から彼女に仕事の話が入ってね。とんでもない成功を収めたよ。フランスのあるゴシップ新聞が読者にアンケートを取ったんだ。『一匹の猫がこれほど巨額の金額を稼ぎ出せるということに驚きましたか?』と。82%の読者が驚いたと答えた。そこで、私はその新聞の編集長宛てに手紙を書いたんだ。『御紙の読者の82%が嫉妬深い人々だと知って残念です』とね。そもそも私にどうしろと言うんだ? 彼女は猫界のガルボなんだから」

 ソウルのトンデムン・プラザでのショーのあとのパーティで、ラガーフェルドが部屋に入ってくると、割れるような拍手が自然にわき起こった。彼がダンスフロアの横にある椿の木まで歩いてくると、ひとりの韓国人の女の子がシャンパングラスを掲げ、ラガーフェルドのほうにグラスを向けた。「私、もう死にそう!」彼女は英語でそう言った。

「そしてカール・ラガーフェルドは決して死なない」と彼女の友人が続けた。彼は椿の木の陰でスタイルの王様のように佇み、彼を取り巻くすべての人々に投げキスを送った。歓声と鳴り響く音楽のなか、あちこちで白い花びらがダンスフロアの上にひらひらと舞い落ちていた。

ミウッチャ・プラダ、
現代の傑物の実像に迫る

【2024年3月公開記事】

BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPHS BY COLLIER SCHORR,FASHION STYLED BY SUZANNE KOLLER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

画像: ミウッチャ・プラダ。2023年7 月4 日、ミラノのプラダ財団の分館「オッセルヴァトリオ」にて。

ミウッチャ・プラダ。2023年7 月4 日、ミラノのプラダ財団の分館「オッセルヴァトリオ」にて。

 ミラノの南東端、ミウッチャ・プラダのオフィスから1.6㎞ほど先にプラダ財団がある。旧蒸留所を改築したこの現代アートの複合施設に一歩足を踏み入れると、いたるところにミウッチャという非凡なデザイナーの存在が感じられる。財団の展示室前ではプラダの黒いユニフォームを着たガイドが、プラダのバッグを手にしたふたりの観光客を誘導していた。そこで上映されていたのは、カナダ人映画監督デヴィッド・クローネンバーグの短編映画『Four Unloved Women, Adrift on a Purposeless Sea, Experience the Ecstasy of Dissection』(註: 4 人の愛されぬ女たち、行き先のない海を漂流する、解剖のエクスタシーを味わう)だ。上映と並行して、18世紀に使われていた蝋人形の人体解剖標本も展示されていた。屋外に出ると蒸留所時代の線路跡と、別のふたつのエキシビションについて紹介するパネルがあった。ひとつはパーマネント・コレクションで、ジャン=リュック・ゴダールが生前最後の作品を編集したスイスの自宅兼スタジオを再現した空間。もうひとつはNYを拠点に活動するアーティスト、ダラ・バーンバウムの写真やビデオの作品展だ。バーンバウム展のほうはプラダ財団のふたつ目の展示スペース「オッセルヴァトリオ」(Osservatorio)で催されている。そこから見下ろせる、ドゥオーモとスカラ座を結ぶショッピングアーケード「ガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレⅡ世」は、ミウッチャの母方の祖父であるマリオ・プラダが1913年にプラダの第一号店をオープンした場所である。財団内をしばらく歩いていると、数ブロック先にプラダのサングラスをかけ、犬を連れた老婦人が見えた。

 ミウッチャ(75歳)は、友人からも見知らぬ人たちからも「ミセス・プラダ」と呼ばれている。同世代のファッションデザイナーの中で彼女ほど異彩を放ち、革新的な人物はほかにいないだろう。ミウッチャが家業の高級皮革製品店を継いだのは1975年。その2 年後に、のちに夫となるパトリッツィオ・ベルテッリ(プラダ・グループの現取締役会長、77歳)と出会い、二人三脚でプラダ・グループをグローバルなファッション帝国へと成長させてきた(同グループの2022年の年間売上高は45億ドル)。夫妻は「プラダ」と、同ブランドの〈自由奔放な妹〉的な存在である「ミュウミュウ」のほか、ラグジュアリーシューズブランドの「チャーチ」と「カーシュー」、またミラノの老舗ペストリーショップ「パスティッチェリア・マルケージ」の株式も保有している。さらに昨年、プラダ・グループの80%を保有し、プラダ一族が支配する「プラダ・ホールディング」は別の2 社と共同で、長年閉鎖されていたミラノの鉄道操車場と鉄道の一部を買収した。約1 億9,000万ドルで買い上げたこの広大な敷地に、公園、住宅、オフィスと、2026年冬季オリンピックの選手村を建設する予定だ。
 ファッションに特に興味がない人でも、あの逆三角形のロゴプレートとプラダの名前は知っているだろう。映画やテレビ、本や音楽でこのブランドのことを見聞きした人もいるかもしれない。1999年のティーン向けの米コメディ映画『ヒース・レジャーの恋のからさわぎ』ではある学生がこんな話をする。「"好き"と"愛してる"は違うもの。私が好きなのはスケッチャーズのスニーカー、愛しているのはプラダのバックパック」。2019年放送のテレビアニメ『ザ・シンプソンズ』には、アーティストデュオのエルムグリーン&ドラッグセットが2005年にテキサス州マーファ近郊の砂漠に建てたプラダの疑似店舗《プラダ・マーファ》が登場した。シンプソン家の父親ホーマーはそれがアート作品だとわからずに、店の後ろで用を足してしまう。ローレン・ワイズバーガーの小説『プラダを着た悪魔』(2003年)は映画としてもヒットし、ビヨンセ、ドージャ・キャット、ドレイクなどの歌にもプラダが登場する。だが、これだけあらゆる分野に広く影響を及ぼしても、ミウッチャ自身のプライベートはうっすらとベールに包まれている。あらゆることと同じように、それは彼女が意図的にやっていることだ。
 プラダの本社は重厚感のある建築物の集合体で、敷地面積は10,000㎡ほどある。敷地内に入ってすぐ視界に飛び込んできたのが、3 階にあるミウッチャのオフィスと中庭をつなぐ、ステンレスでできた筒状の滑り台だ。ふと自分はあそこから追い出されるかもしれないと思った。2000年にこの悪名高い滑り台を設置したドイツ人アーティスト、カールステン・ホラーがこう説明していたのだ。「この滑り台を使えばミウッチャは階下で仕事をしているスタッフたちを一瞥しながら、専属の運転手が待つ1 階まであっという間に降りていける。邪魔な人たちを追い払うこともできる」

 ミウッチャへのインタビューは、簡単な会話をするのとは違って、慎重を要する任務だ。彼女のオフィスは白い壁とコンクリート打ちっぱなしの床に囲まれていて、ゲルハルト・リヒターの絵とクッキーが載ったシルバーのバーカートがなければ公開手術室のようだ。その厳格な空間に置かれたデスクに腰かけて、彼女はいつも「ここだけの話……」と言って会話を始める。身長163㎝、ヘーゼル色の瞳とウェーブがかったブロンドヘアが特徴のミウッチャには、率先して問題提起できる人たちがもつような、内側から湧き出る自信がある。温厚でよく笑うものの、同時に一家言ありそうで、今にも主張をぶつけてきそうな意気も感じられる。インタビューの間、ミウッチャ自身も会話を録音しメモを取っていた。「リラックスしたいときは何をされていますか」と尋ねると、「ノー」という答えだけが返ってきた。
 川久保玲がめったにジャーナリストと話をせず、マルタン・マルジェラが対面取材を一度も受けたことがないという話は有名だ。ミウッチャは、こうした知性派デザイナーたちほどミステリアスでも、イタリアン・グラマラス全盛期に活躍したドメニコ・ドルチェやステファノ・ガッバーナ、ドナテラ・ヴェルサーチェのように派手で目立つ存在でもない。自らの功績を認めたがらない彼女は「私がしたことはほかの人に語ってもらう」と言うが、自分の神話を生むことには意欲的だ。プラダの新作フレグランスを「パラドックス」(矛盾)と名づけたのにはそれなりの理由があるのだ。
 ミウッチャとよく一緒に旅をするという、彼女の親友でアーティストのイタリア人、フランチェスコ・ヴェッツォーリは「ハーバード大学レベルの知性をもつ億万長者の女性がいるとしたら、それはミウッチャ・プラダ」と言って微笑む。2005年からミウッチャと仕事をしているベルギー人スタイリストのオリヴィエ・リッツォは「ミウッチャは私たちの装いやファッションに対する考え方を、あらゆる面で、あらゆる意味で変革した人」と語る。2019年からプラダでコンサルティングを行なっているイタリア人クリエイティブ・ディレクター、フェルディナンド・ヴェルデリは「ミウッチャは何にでも異を唱えて反抗する"チャレンジャー"。自分がチャレンジャーと呼ばれることにも反発する」と笑う。プラダの「多様性と受容性に関する諮問委員会」で共同委員長を務めるアメリカ人アーティスト、シアスター・ゲイツは「ミウッチャの性格をひとことで言うなら、どこまでも正直。正直であることは、つねに正当であることより優れている」と称える。1995年のアカデミー賞授賞式の会場でライラックカラーのプラダのドレスを着て以来、ミウッチャと親交を深めてきた女優ユマ・サーマンはミウッチャを「次々と新しい樹皮を作りながら、成長していく木」にたとえる。2020年春夏メンズ・コレクションの広告キャンペーンでモデルを務めたR&Bシンガーのフランク・オーシャンは、ミウッチャの「トーン」、つまり「彼女が奏でる音色」を、瞑想的なオーム(註:聖典の誦読[しょうどく]、マントラや祈りを始める前に唱える聖音)になぞらえる。ミラノのコンセプトストア「ディエチ・コルソ・コモ」の創設者でギャラリストのカルラ・ソッツァーニは、70年代にミウッチャと一緒にファッションショーを観に行ったとき、彼女が「子どもみたいにはしゃいで大きな拍手を送っていた」のを覚えている。「公の場ではちょっと控えめになる人っていますよね。プライベートでのミウッチャは、性格が180度変わるわけではないけれど、もっとオープンです」

 こうした人間性以外に特筆したいのが、ミウッチャほど自分の思想や信念をファッションに反映させた女性デザイナーはほかにいないという事実だ。反逆的なパンクの女王、ヴィヴィアン・ウエストウッドも同じタイプのデザイナーではあるが、ウエストウッドは反抗心を声高に表明し、ミウッチャはそれを審美的に表現してきた。ミウッチャは会話を通して自分をさらけ出さないが、服を通して自由に多くを語ってきた。
「無意味で役に立たないクリエイティビティ」や「ステレオタイプの美」にノーを突きつけ、ユニフォームというコンセプトを掘り下げ、セックスワーカーや修道女などにもひらめきを得てきた。こうやって、彼女が「より崇高で、少なくとも正当で有益」と考える職業─ユニフォームを着て世に役立つ仕事をする人々─に光をあてようとしている。1960年代にイヴ・サンローランが現代女性のためのワードローブを創ったなら、〈悪趣味〉と〈ビューティフル・アグリー〉(註:一般的な美の基準
に反した魅力)の先導者であるミウッチャは、「自分らしくあるために、風変わりで気まぐれなスタイルをしたっていい」と女性たちの背中を押した。そもそもミウッチャが服作りを始めた理由のひとつは「着たいものが見つからなかったから」だった。

 ミウッチャはまるで、自分の創る服が「魅力的でもセクシーでもない」と言われるのを期待してせっせとデザインをしているように見える。ミュウミュウ(1993年創設、ブランド名は家族から幼少期に呼ばれていた彼女の愛称にちなんだもの。プラダより天真爛漫なイメージで価格設定もやや低めだ)のコンサルタントを務めるロシア人スタイリスト、ロッタ・ヴォルコヴァは「ミウッチャはつねにまだ誰も見たことがないものを創ろうとしている」と言う。今年初めにパリで行われたミュウミュウの2023〜’24年秋冬コレクションでは、下着をアウターのように着たルックと、寝癖がついたようなヘアが目を引いた。2004年からプラダのショーに携わっているイギリス人ヘアスタイリストのグイド・パラオは、ミウッチャからこのショーのために〈突風に煽られたような髪型〉を依頼されたと言う。同じミュウミュウの2022年春夏コレクションに登場した、裾が切りっぱなしのマイクロミニのチノスカートは、ベルトの位置が腰骨よりずっと下にある。「あるときは胸元、あるときは背中と、ファッションは気まぐれに女性のボディパーツをトレンドの対象にしてきました。しばらくローウエストのスタイルを見なくなっていたので、思いきりローライズの服を創ってみることにしたんで
す」とミウッチャ。トレンドに振り回されるモード界やファッション誌を揶揄したこのスカートは、皮肉なことに、あらゆるファッション誌で取り上げられた。 

画像: 2007-’08年秋冬コレクションより、モヘアのファーやフェザー、スパンコールをあしらったベスト、クロッケ織のウールスカート、シルクのソックス、トリコロールカラーのサテンのサンダル。

2007-’08年秋冬コレクションより、モヘアのファーやフェザー、スパンコールをあしらったベスト、クロッケ織のウールスカート、シルクのソックス、トリコロールカラーのサテンのサンダル。

 ミウッチャは服作りにおいて「反抗心を大切にしている」と言う。彼女が〈アグリーシック〉(註:悪趣味の中に見いだすシックさ)というコンセプトを初めて打ち出した1996年春夏のプラダのコレクションでは、さびのような褐色、マスタード、胆汁の緑(ある批評家がこう表現した)といった違和感のある色使いと、のちに〈フォルミカ〉と名づけられた平凡なプリント柄を登場させた。その狙いはトム・フォードが率いていたグッチを皮切りに、当時多くのメゾンが売り物にしていたセクシーでグラマラスなスタイルに反発を示すことだった。しばらくすると意外なことに、プラダのクリーンで隙のないレトロシック・スタイルが、アルマーニのスーツと並ぶイタリアンテイストの象徴とみなされるようになった。すると彼女はその固定されたイメージを払拭するために、2002〜’03年秋冬コレクションで透明なPVCコートやブラックレザーのニーハイブーツを取り入れたポルノシック・コレクションを発表した。ミウッチャは言う。「服は単に着るだけのものではありません。ひとりの個性の、さまざまな側面を表現するものなのです」

 ミウッチャは今もなお、姉のマリーナや兄のアルベルトと子ども時代を過ごしたミラノのアパルトマンに住んでいる。友人のカルラ・ソッツァーニいわく「美しくエレガント」だったミウッチャの母親ルイーザ・プラダは、1958年に2 代目として父親から継いだ店を、20年近くにわたり切り盛りした。ミウッチャの父親ルイジ・ビアンキは、ゴルフ場用芝刈り機の製造会社を経営していた。幼少期は「よいことも、悪いこともなかった」とミウッチャは退屈そうにつぶやく。だが10代の頃の話になった途端、彼女は背すじをすっと伸ばした。「あの時代は、政治的に大きく揺れ動いていました」
 ミラノ大学に通いながら(同大学で政治学の博士号も取得している)、ミウッチャはヨーロッパで「1968年抗議運動」と呼ばれた若者主導のデモや労働者のストライキに参加した。イタリアはこの頃、テロと暴力の嵐が吹き荒れる「鉛の時代」にも突入した。「当時の私は、自分たちで世界を変えられると本気で信じていました」。学業と並行してミラノの名高い劇場ピッコロ・テアトロで5 年間、パントマイムの役者になるための修業も積んだ。さらに共産党の分派でフェミニズムを推進したイタリア女性連合の若手メンバーとしても活動し、当時マルクス主義を公言していたジャン=リュック・ゴダールやピエル・パオロ・パゾリーニの映画に強い影響を受けていた。だがそんな政治的な風潮の中では、ファッションの仕事はくだらないものだとみなされていた。「肩身の狭い思いをしましたが、それでも好きだったファッションの道に進もうと決めたのです」
 だがそれは義務感からきた選択でもあった。「自分の意志に反して始めて、気づいたらここにたどりついていたという感じです」。プラダの経営を任されるようになって数年後、ミウッチャはある見本市でベルテッリと知り合った。彼はベルトやバッグなど革製品の製造工場を経営していくために、工学の学位取得を諦めたところだった。「競合相手として知り合った私たちは、今もよきライバルとして切磋琢磨しています。だからこそ今も一緒にいられるのでしょう」。ミウッチャの声がやさしく響いた。

 ベルテッリは、ヴィンテージのスポーツカーを収集し、何艘もあるヨットを乗りこなす敏腕実業家だ。ミウッチャとの間にはふたりの子を授かった。長男ロレンツォ・ベルテッリ(35歳)はプラダ・グループのCSR(企業の社会的責任)部門長を務め、次男ジュリオ(33歳)はヨットレーサとして活躍している。ベルテッリについて話をする人たちは、まるで彼が映画の悪役か何かで、自分はその隠れファンであるかのような口ぶりになる。ソッツァーニはこんなふうにコメントした。「ベルテッリは驚くほど魅力的な人。人によって好きになるか、嫌いになるか分かれると思うけれど」。2016年まで8 年間プラダのデザインチームで活躍し、現在マルニのクリエイティブ・ディレクターを務めるフランチェスコ・リッソは、夫妻が起こした"最も派手な喧嘩" を見たことがある。「泥仕合ではなかったけれど、バチバチと火花が飛び散っていましたよ」。ベルテッリの反対をよそに、ミウッチャがひとりで勝手にスニーカーのコラボレーションの企画を進めてしまったこともあるようだ。ふたりはよく口喧嘩をするが、ベルテッリはつねにミウッチャを支え、守っている。誰かがミウッチャに話を持ちかける場合、まずベルテッリの了解を得るというのが通例になっている。
「もし夫に出会わなかったら、この仕事をしていなかったかもしれません」。ミウッチャはベルテッリと複数の工場を建て、「良識のある女性もそうでない女性も含む、多様性に富んだあらゆる人々」のための、世界的なブランドを築いた。ファッションを学んだことのないミウッチャはスケッチをせず、コレクションの制作は、シルエットよりもまずコンセプトを決めて取りかかる。1984年には、クロコダイルでもカーフスキンでもなく、軍隊用のパラシュートに使われていた工業用ナイロン地でできたブラックのバックパックを発表した。ミウッチャの初期の代表作であるこのバックパックは誕生から約40年たった今も人気を誇り、ブラックナイロンのシリーズはこれまでに多彩なモデルを展開してきた。ラグジュアリーなバッグといえばまだ優美でクラシカルなレザーものが主流だった時代に、ミウッチャが提案した機能的でシンプルなこのバッグには「ブルジョア的なものを見ると壊したくなる」という彼女の反骨精神が色濃く現れている(だが例外もあるようだ。リッソは、初めて参加したスタッフ会議で〈ブルジョア的なことや規範やしきたりへの反逆者〉であるはずのミウッチャに「食べたり飲んだりする時間も惜しんで、とにかく仕事だけに没頭しなさい」と諭されたそうだ。「僕のためを思っての忠告だったのはわかっている」とリッソ)。

 1988年にはプラダのウィメンズ・プレタポルテラインをスタートさせた。そのファーストショーを飾ったのは、メンズのテーラリングを下敷きにしたブラックやブラウンのジャケットや、50年代風のシルエットを取り入れたホットピンクのドレス。ほとんどのルックは足もとにフラットシューズを合わせていた。これらのシルエットやアイテムと、それ以降のシーズンに登場した膝丈スカートやバケットハット、幾何学プリント、カラーブロッキングといった要素がプラダのブランドコードになっている。ミウッチャと、彼女の右腕としてデザイン・ディレクターを務めていたファビオ・ザンベルナルディ(ミウッチャの仕事を40年以上支えてきたが、今年10月に退任した)のふたりが編み出したデザインは、翌シーズン、他ブランドが追随するトレンドになると言われてきた。だが彼らが影響を及ぼしたのはファッションだけにとどまらない。いつの日からか、ラグジュアリーブランドが文化や教育、慈善活動などの領域でイニシアチブを取るのは当たり前だと認識されるようになったが、もともとそんなアプローチをしていたのはミウッチャだけだった。ヴェッツォーリが説明する。「今はあらゆるブランドが、文化を発信するプラットフォームになっている。たとえば最近、ボッテガ・ヴェネタがランウェイの会場に、イタリア人の建築家でデザイナーの、ガエタノ・ペッシェのチェアをずらりと並べるという演出をした。すると途端にガエタノ・ペッシェが注目を浴びるようになった。サンローランはペドロ・アルモドバル監督の映画を製作したりもしている。でもプラダはこうしたことにすでに30年前から取り組んでいたんだ」
 オランダ人建築家レム・コールハースが率いる建築設計事務所の研究機関AMOは、2004年以来、プラダのすべてのショーの空間デザインを手がけてきた。コールハースによると、毎シーズン、ミウッチャとの会話は「アイデアの起点」となる2 、3 個のキーワードから始まるそうだ。プラダの2024年春夏メンズ・コレクションのショーでは、インダストリアルな鉄格子を敷いた床に、天井からスライムが流れ落ちるという演出がされたが、打ち合わせでミウッチャが出したヒントは「不気味」「肉体と皮膚」「オーガニック・ミニマリズム」という言葉だけだった(今年9 月に行われたウィメンズの2024年春夏コレクションでも、スライムのカーテンが登場した)。また、2007年にプラダ・ソーホー店の壁紙をデザインした台湾系アメリカ人画家ジェームス・ジーンは、このプロジェクトのベースになったのは「ロマンティック」「曲線」「シュール」という3つの形容詞だったと言う。彼が描いた幻想的な生物や花のイラストは、2008年春夏コレクションの、アール・ヌーヴォー風のスカート、パンツ、バッグなどにもプリントされた。90年代半ば以降、プラダのほとんどのショーの音楽を手がけてきたフランス人サウンドアーティスト、フレデリック・サンチェスも、コレクションのルックは見ず、もらったテーマやヒントだけをもとにサウンドメイキングをしていると言う。サンチェ
スがプラダと同じくらい長年コラボレートしているマルタン・マルジェラは「より感覚的で具体的」なやり方を好み、同じサウンドトラックを何シーズンか繰り返し使うこともあるそうだ。一方ミウッチャのアプローチは「もっと知的」とのことだ。

 ミウッチャは現代のラグジュアリーファッションをラディカルに変貌させた(彼女はラグジュアリーという言葉を嫌う。だが「嫌う」という言葉は好きなようでよく使う)。パッド入りのヘッドバンドから機能的なジャケットまで、最近見かける多くのデザインのルーツはプラダやミュウミュウにある。ミウッチャはこんなふうに自分のアイデアが、ほかのデザイナーに模倣されてしまう状況を逆手に取り、プラダの2000年春夏コレクションでは大胆にも自分の作品へオマージュを捧げることにした。「ファッションのABC」と銘打ったそのコレクションではイヴ・サンローランへのトリビュートに加え、カーディガンやスクールボーイ風ショートパンツなど、自らのアーカイブをアップデートしたアイテムを披露した。だがミウッチャが世に送り出したのは、カーキ色のクロップトップや〈クワイエットラグジュアリー〉と呼ばれるスタイルだけでなく、もっと本質的な、慣習や常識に逆らう思想や態度だった。ミウッチャの友人であるデザイナー、マーク・ジェイコブスが言う。「ミセス・プラダのスタイルはエキセントリックなファッションよりずっとクールだ。見た目がいいだけの服とは違って彼女の服には中身があるから」

 プラダ財団の〈中枢〉は「ホーンテッドハウス」と名づけられた4階建ての塔だ。この金箔で覆われた建物には彫刻家のルイーズ・ブルジョワとロバート・ゴーバーの作品が収蔵されている。2階にあるブルジョワのインスタレーション《Cell(Clothes)》(1996年)には、木の扉についたリング状の金具に捕らえられたようなボトムやドレスが並んでいる。最上階にはゴーバーの、蝋でできた子どもの片足の彫刻(2010年)が展示されている。壁から突き出た、プラダ風の白いサンダルと白いショートソックスをはいたその足には、重そうな錨がぶら下がっている。このフロアで、服や靴など身につけるものを扱った作品はほかにないが、代わりにゴーバーが手がけた、インパクトのある排水溝のインスタレーションがある。その金属製の格子蓋の下を水が流れ、溜まった岩や瓦礫の中に放置された真っ赤な心臓が鼓動を打っている。
 ミウッチャは、若い頃関わっていた政治運動の話になると胸襟を開いてくれることもあって、ジャーナリストたちはこぞってこの話題に触れたがる。2004年の『ニューヨーカー』誌に載ったミウッチャの記事には「イタリア中流階級の多くの若者にとって、60年代に共産党に入党することは通過儀礼のようなものだった」とある。だがそんな薄っぺらな気持ちで活動していた若者たちと違ってミウッチャは本気だった。だからこそ当時抱いていた理想主義的な使命を、自分の仕事を通じて全うしようとしている。理想と現実のズレに悩んで立ち止まったりせず、その葛藤をバネにここまでやってきたのだ。街頭での抗議活動や集会でのビラ配りから長い年月を経て、彼女は1993年にベルテッリとともにプラダ財団の前身である「ミラノ・プラダ・アルテ」を設立した。そこは増え続けるアート・コレクションの収蔵場所になっただけでなく、ミウッチャの革命的なスピリットと、これまで形成してきた資産を注ぎ込む対象にもなった。「プラダ財団のスタッフにはいつも、私に感謝するようにって言っているんです。美術館を運営するためには、高価なバッグをとにかくたくさん売らなければならないので」(ミウッチャの友人であるイギリス人現代美術家ダミアン・ハーストは、彼女のこんな言葉を覚えている。「ハンドバッグはアートじゃないのに、いろんな人たちがアートだと言って聞かない。バッグは売るための商品だというのに」)。

 ミウッチャは財団設立当時から、展覧会やイベントに関する業務やプロセスを抜かりなく管理し、プログラムの細部にまで目を光らせている。マンハッタンにあるロバート・ゴーバーのアトリエにも、わざわざ自ら顔を出して出品してもらえるよう交渉した。ゴーバーは、玄関先に現れたミウッチャが「何でも自分でやっているので、人を介さずに直接ご挨拶をしたくて」と言ったのを覚えている。また帰り際にゴーバーが何冊かの本と、持ち運ぶためのトートバッグを差し出すと、ミウッチャはバッグを一瞥して「本はこのまま手で持っていきますので」と言って立ち去ったという。1999年、オランダのロッテルダムにあるコールハースのスタジオに、ミウッチャとベルテッリはアポも取らずに立ち寄った。「ふたりはそれまでのブティックのスタイルに飽きていたようで、NY旗艦店のプロジェクトを監督してほしいと頼まれました」。コールハースが回想する。「でもアートと、より広義のカルチャーの分野で仕事をしている友人たちは、ファッションブランドであるプラダとのコラボレーションが望ましいものなのかどうか、かなり懐疑的でした」。その数年後、グッゲンハイム
美術館のソーホー別館跡地にコールハースがデザインした、波打つような形の木の床や電動の吊り下げ式ディスプレイケージが印象的なエピセンター(註:プラダの世界観と前衛建築や文化活動などを融合した特別な旗艦店)がオープンした。2008年にプラダ財団の設計を担当したのも、コールハースが率いる建築事務所OMAである。

画像: 2008-’09年秋冬コレクションより、ギピュールレース・コットンのドレス、ポプリンのシャツ、シルクストレッチのカラー、ギピュールレース・コットンのコルセットベルト、スエードの靴

2008-’09年秋冬コレクションより、ギピュールレース・コットンのドレス、ポプリンのシャツ、シルクストレッチのカラー、ギピュールレース・コットンのコルセットベルト、スエードの靴

 30年間たゆまぬ努力を重ね、アート界で確固たる地位を築き上げたミウッチャは、プラダ財団のディレクターに就任する決意をした。「私の本業はプラダ財団の仕事ということになります。ファッションとプラダ財団を切り離して考えていきたいと思ってもいます。これはまだ誰にも打ち明けていないことなのですが」。ミウッチャが次の言葉を探している間、私は映画監督ウェス・アンダーソンから届いたメールを思い出した(複数の映画やアートプロジェクトでミウッチャとコラボレートしてきたアンダーソンは、プラダ財団併設の50年代スタイルのカフェ「バー・ルーチェ」のデザインも担当した)。「ミウッチャに会えばすぐ彼女の繊細さに気づくはずです。普通あれだけの権威をもつと、デリケートさを失ってしまう人が多いのですが。逆に言えば、彼女にそういう繊細な部分があるからこそ、僕らは通じ合えるのでしょう。彼女は大胆不敵に見えるけれど、本当はそうでは
ない気がします」。ミウッチャが再び口を開いた。「年を重ねたせいかもしれませんが、自分のこれまでの人生に折り合いをつけたくて。胸を張ってプラダ財団を率いていると言いたいのです」
 ダミアン・ハーストはこう語る。「ミウッチャは真の芸術のパトロンだ。彼女は心から純粋に、アートが人々のためになるものだと信じている。それに『今に美術館を建てるから』とうそぶくだけのコレクターたちと違って、彼女は実際に美術館を建ててみせた」。ある晩、ふたりでディナーに行く機会があり、ハースト(労働階級の出身だ)がキャビアを注文すると、ミウッチャが「これを食べるのにはどうも抵抗があって」とため息をもらしたという。ハーストが理由を尋ねると「コミュニストだったから」という答えが返ってきたそうだ。

画像: 2014年春夏コレクションより、ラインストーン、スパンコール、刺しゅうをあしらったジャージドレス、ビスコースのソックス。2023-’24年秋冬コレクションより、靴¥151,800(予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)

2014年春夏コレクションより、ラインストーン、スパンコール、刺しゅうをあしらったジャージドレス、ビスコースのソックス。2023-’24年秋冬コレクションより、靴¥151,800(予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)

画像: 2016-’17年秋冬コレクションより、ジャケット、シャツ、ストレッチデニムのコルセットベルト、アルパカのタイツ

2016-’17年秋冬コレクションより、ジャケット、シャツ、ストレッチデニムのコルセットベルト、アルパカのタイツ

画像: 2016-’17年秋冬メンズ・コレクションより、プリントを施したポンジー素材のボーリングシャツ。2016-’17年秋冬コレクションより、アルパカのマイクロアーガイルタイツ

2016-’17年秋冬メンズ・コレクションより、プリントを施したポンジー素材のボーリングシャツ。2016-’17年秋冬コレクションより、アルパカのマイクロアーガイルタイツ

画像: 2019年春夏コレクションより、ダブルサテンのトップスとショーツ

2019年春夏コレクションより、ダブルサテンのトップスとショーツ

 3 年前から、ミウッチャはひとりですべての仕事を抱え込む必要がなくなった。新型コロナウイルスの感染が拡大し、イタリアでロックダウンが始まろうとしていた2020年2 月、プラダ・グループはベルギー人デザイナーのラフ・シモンズが「プラダ」の共同クリエイティブ・ディレクターに就任することを発表した。ミウッチャも「今後は私たちふたりでプラダのウィメンズとメンズを手がけていきます」とコメントした(ちなみにミュウミュウは今も彼女ひとりで指揮している。「幸い、ミュウミュウとプラダのアトリエは違うフロアにあるので、いる場所によってマインドも切り替えるようにしています」とミウッチャ)。この発表の翌日、シモンズは当時彼が暮らしていたアントワープに戻った。そのため彼が6月に再びミラノに戻るまで、ふたりは画面越しにコミュニケーションをとるよりほかなかった。
 この野心的な共作は始まりからして容易でなかったが、ふたりにはそれぞれ成功を切望する理由があった。ミウッチャはひとりで仕事をするのにうんざりしていただけでなく、自分の後継者について考える必要もあった。「会社の人たちは、私が引退したがっていると思われないように、後継者に関する話はしてほしくないようですが。もちろん引退するつもりなんて今は毛頭ありません」。シモンズ(55歳)はジル サンダー、ディオール、カルバン・クラインなどのビッグメゾンを統率してきたが、カルバン・クラインで"狂乱" の2年間を過ごしたあと、二度と他人のブランドの舵取り役はしないと心に誓っていた(ちなみにシモンズがプラダ関連の仕事をするのはこれが初めてではない。彼がジル サンダーに着任した2005年当時、同ブランドはまだプラダ・グループの傘下にあったからだ。シモンズはミウッチャやベルテッリとも交流があったが、プラダ・グループは1 年後の2006年に同ブランドを売却してしまう。だがシモンズ自身は2012年までジル サンダーで活躍した)。「僕はバカじゃないから」。現在はミラノに活動の拠点を置くラフ・シモンズがそう切り出した。カルバン・クラインを辞任後、ベルテッリから会って話したいと連絡を受けたとき、その内容がシューズブランド「チャーチ」のことでないのはすぐにわかったという。ベルテッリに会ったとき「ミウッチャも私も年を重ねたという現実を受け入れるべきときがきた」という感じのことを言われたそうだ(今年1 月、ミウッチャとベルテッリはプラダ・グループの共同CEOを退任した。後任にはアイウェアのコングロマリット「ルックスオティカ」の元CEOアンドレア・グエラが就いたが、いずれは夫妻の息子であるロレンツォがその後継者となる予定だ)。ミウッチャは当初、カルト的な人気を誇るメンズのシグネチャーブランドをそれまで24年間率いてきたシモンズが、プラダ・メンズのディレクションなどに興味をもつのだろうかと案じていた(シモンズはその後自身のブランドを閉鎖している)。シモンズにオファーをした日のことを彼女はまだ覚えている。「ラフは一瞬考えたあと『私たちふたりで取り組むのはどうですか』と言ってくれたのです。もちろん即座に同意しました」

画像: 2002年春夏コレクションより、カシミアシルクのカーディガン、シルクのシャツ、クロッケ織のスカート。2023年春夏コレクションより、靴¥151,800(予定価格)/プラダプラダ クライアントサービス TEL.0120-45-1913

2002年春夏コレクションより、カシミアシルクのカーディガン、シルクのシャツ、クロッケ織のスカート。2023年春夏コレクションより、靴¥151,800(予定価格)/プラダプラダ クライアントサービス TEL.0120-45-1913

 実際にふたりで仕事を始めてみると、互いの性格が正反対であることがわかった。〈抑制の美学〉を表現するのが得意なシモンズは、きちんと期限を守るタイプだ。かたやミウッチャは「明日ランウェイで見せる服を今日デザインするのが好き」だとシモンズは言う。だがふたりは共通して、型にはまった保守的なファッションを嫌う。マーク・ジェイコブスはこう評している。「プラダがラフを選んだと知ったとき『え、まさか』とは思わなかった。僕が選ぶ立場にいたとしたら、やはりラフを起用しただろうから」
 これまで何年もずっと、ひとりであらゆる決断を下してきたミウッチャ。今、彼女はクロアチア出身の映画監督アントネータ・アラマット・クシヤノヴィッチが手がけるミュウミュウのショートフィルムシリーズ『Women’s Tales』(女性たちの物語)の最新作と、プラダ財団で次に開催するふたつのアート展のことを考えている。だが次のウィメンズ・コレクションについては、シモンズとふたりで取り組めるので少しだけ気が楽だ。今年6月に行われたメンズ・コレクションの翌朝、オフィスでショーの記事(よいレビューだ)に目を通していたミウッチャがぼやいた。「つねに考えることだらけで頭がパンクしそう」。最近、ミウッチャとシモンズは─少なくとも当面の間─コレクションの下敷きとなるアイデアソースや人物像を明かすのはやめることにした。「物語を語るのはもうやめようと思って。この気持ちがいつまで続くかわからないけれど」

 遠い未来、ミウッチャの物語はどんなふうに綴られ、語り継がれることになるのだろう。彼女は「無益なことをして人生を棒に振った」とだけは書かれたくないと言う。今の目標は1968年の頃と変わらず、世の役に立つ、意義のあることをすること。「本心を言えば政治的なことがしたい」。帰り際ミウッチャに「もしデザイナーにならなかったら、どんな人生を送っていたかと想像したことはありますか」と尋ねた。すかさず彼女が「ずっと考えていますよ」と言った。だが、エレベーターのドアが閉まりかかるとやさしく微笑んで、言い直した。「そんなことは想像したこともありません、ただの一度も」

画像: 2023-’24年秋冬コレクションより、立体的な花モチーフをあしらったポプリンのドレス¥445,500(予定価格)/(プラダ)プラダ クライアントサービス

2023-’24年秋冬コレクションより、立体的な花モチーフをあしらったポプリンのドレス¥445,500(予定価格)/(プラダ)プラダ クライアントサービス

Models: Elio Berenett at Next Management,Saunders at Oui Management, Awar Odhiang at Ford Models, Jonas Glöer at Lumien Creative, Chloe Nguyen at Select Model Management Paris, Estrella Gomez at IMG Models and America Gonzalez at Supreme. Hair by Cim Mahony at LGA. Makeup by Marie Duhart at Bryant Artists. Set design by Rafael Medeiros. Casting by DM Casting

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