欧米では、「和食」は非常に繊細で美しい半面、厳格なルールにこだわるあまり、柔軟性に欠けると思われている。しかし今、新世代のシェフたちが既成概念にとらわれない新しい和食を創造している。彼らは、歴史が培ってきた和食の神髄とは何か、という命題に問題提起をしている

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY MARI MAEDA AND YUJI OBOSHI, FOOD STYLING BY REBECCA JURKEVICH, PROP STYLING BY VICTORIA PETRO-CONROY, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 和食の形態と定義が拡大していくなか、日本人を先祖に持たない多くのシェフたちが、そんな現代的で、既成概念に縛られないスタイルに自らのエネルギーを注ぎ、東洋と西洋の垣根を壊し、境界線に疑問を投げかけることに貢献してきた。コンパニョンとヤンはパリの彼らのレストランを、職人技にとことんこだわるふたつの異なる文化の理想的な「協定」だと認識している。コンパニョンは笑いながら言う。「フランスと日本は唯一、お互いの料理文化を尊敬し合っていて、それ以外の文化を下に見ているんだ」(現在、パリで最も称賛されているフレンチレストラン――「レ・ザンファン・ルージュ」「クラウン・バー」「アブリ」など――は日本人シェフが経営している。そして彼らの母国日本では、彼らの同胞が、フランス料理に対して同じように細部にわたって徹底的にこだわり、情熱を傾けているのだ)。

コンパニョンは最初に日本語と日本文学を学ぶ学生として日本にやってきて、和食に出会った。ニューヨーク州のロングアイランドで育ったオーキンも東京に何年も住んでいた。そんなシェフたちは、和食を愛しながらも、自分たちはあくまでガイジンであり学生で、和食の達人ではないということを早い段階で悟っていた。オーキンとイェンが近く出版する著書『The Gaijin Cookbook: Japanese Recipes from a Chef, Father, Eater, and Lifelong Outsider(ガイジン・クックブック:シェフ、父、食通、そして生涯いちアウトサイダーが書いた日本食レシピ)』にはその点がはっきり書かれている。コンパニョンとヤンは、美意識を大事にし、細かい技術にこだわりながらも、自分たちの店「ル・リグマロール」を日本食レストランと呼ぶのを躊躇する。

 トロッファーの母は、日本人とのハーフで、彼女が和食を作ることはあまりなかったが、海苔とご飯を切らしたことはなかった。トロッファーにとって、東洋と西洋には距離がない。「自分は日本食を作っているわけではない、ということは自分でもはっきり意識している」と彼は言う。「ジャパニーズ・アメリカンとは何なのかをもっと深く探りたい」。その結果、あらゆる素材に隠された無限の可能性がうまく調和したような料理ができ上がる。彼は水のかわりにだしを使うことで、味に幅と深みを出す。「素材をすばやく投入したり、何かを加えるタイミングの、ひとつひとつの瞬間を見逃さずにね」と彼は言う。とはいえ、彼が祖母に自作のお好み焼きの写真を見せると、祖母は疑わしげな顔をした。彼は祖母が昔作っていたキャベツの千切りと醬油と小麦粉だけのシンプルなお好み焼きに敬意を込めて、「サワー・キャベツ・パンケーキ」という品名で自作のそれをメニューに載せた。上には目玉焼きをトッピングしている。「祖母は、何これ、という表情で眉をしかめた」と彼は言う。

 だが、日本では彼の料理は異端でも何でもない。この料理の名前には、あらかじめ“自由”が埋め込まれているからだ。お好み焼きを「お好み」と「焼き」に分解するとそれがわかる。「何でも好きなものを入れて焼く」という意味なのだ。日本全国にお好み焼きは数あれど、発祥の地は大阪だ。それぞれの地方ごとに特色も違う。広島では一層ごとに積み上げられていく。まずは生地、次にキャベツ、もやし、豚肉、麺、そして最後に、それらを持ち上げて目玉焼きの上にのせる。そうしてひっくり返すと、卵が一番上に来る。

 マンハッタンの「Odo」に来店する日本人客の中には、伝統的な懐石の落ち着いた味が懐かしいと大堂に語る人もいる。だが、シェフは自身の使命にあくまで忠実だ。本格的な懐石料理の厳格なマナーやシンプルさの追求は「アメリカ人にはあまり受け入れられない」と彼は言う。そしてそんなマナーや厳格さは日本の「おもてなし」の精神と矛盾してしまう。おもてなしとは、ゲストの幸福を第一にして行動し、考えるというホスピタリティの最上級の形なのだから。日本でも、特に若い世代にとって懐石料理は敷居が高い。

そんな状況を改善しようとしているのが、「傳」のシェフの長谷川在佑(ざいゆう)だ。「傳」は2008年に東京にオープンしたモダン懐石の店で、この店でまず最初に出てくるのが最中だ。最中とは、もち米でできた薄い皮の間に小豆の餡をはさんだ、日常的な和菓子だ。彼の最中の中身はフォアグラと柿で高級だが、見た目はごく普通の最中に見える。紙のパッケージに包まれたままで運ばれてくるので、まるでコンビニエンスストアで売られているクッキーサンドのようだ。次がサラダだ。にんじんはハート形の目をした絵文字にカットされている。さらにケンタッキー・フライドチキンを思わせるような箱に、骨なしの鶏肉にご飯が詰まった一品が出てくる。鶏肉の下には藁がまるでベッドのように敷かれている。

「傳」の料理は懐石のイメージとはかけ離れていて、信じられないほどカジュアルだ。だから、ちょっと見ただけではどれほど細部にこだわっているか、またいかに完璧に近いかまったく気づかない。客たちは笑い、そしてやがて沈黙する。わかりやすくポップな見た目を楽しんだあとには、味わいの深さが舌に広がり、えもいわれぬ感覚に満たされる。それはつまり、過去と現在、思い出と日常の中で繰り返し味わってきた食の記憶なのだ。伝統が新しいものに出会うということ――それは闘争ではなく、継承なのだ。

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