欧米では、「和食」は非常に繊細で美しい半面、厳格なルールにこだわるあまり、柔軟性に欠けると思われている。しかし今、新世代のシェフたちが既成概念にとらわれない新しい和食を創造している。彼らは、歴史が培ってきた和食の神髄とは何か、という命題に問題提起をしている

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY MARI MAEDA AND YUJI OBOSHI, FOOD STYLING BY REBECCA JURKEVICH, PROP STYLING BY VICTORIA PETRO-CONROY, TRANSLATED BY HARU HODAKA

 これらの料理は、西洋人がイメージする、和食はこうでなくてはならない、という概念を揺さぶる。和食を食べて育ったわけではない西洋人にとって、和食との出会いは多くの場合、高級かそうでないかという、ふたつにひとつの選択肢に限られる。料金が最低でも100ドル以上のフォーマルな寿司バーか、食べたらさっさと出るのが決まりのラーメン店か。そのふたつの中間の選択肢はほとんどない。異文化の素材や技術を受け入れていく過程で生まれた新しいものといえば、苦々しい思い出とともに浮かぶのが、1980年代後半に流行したアジアン・フュージョンだろう。その流行を牽引したのがヨーロッパ系のシェフたちだった。だが、彼らは和食を西洋の視点で解釈し、日本料理から本来の意味を取り去ってしまい、彼らが思う方向にねじ曲げて別のものにしてしまった。

今日のシェフたちはそれとは正反対のやり方をしている。つまり、日本のレンズを通して西洋と西洋料理の歴史を見ているわけだ。アメリカの多様性を考える際の比喩が、メルティングポットからモザイクに変わったように、それぞれが個としての尊厳を保ったまま、全体を豊かに彩るという世界では、フュージョンという考え方はすでに時代遅れだ。人々が移住し、その土地で手に入る材料を受け入れていくとき、どんなふうに料理が変化していくかを、より本質的に理解することが求められているのだ。

画像: アメリカン・ホットドッグとフライド・チキン。敷物は日本の「絞り」と呼ばれる染め布

アメリカン・ホットドッグとフライド・チキン。敷物は日本の「絞り」と呼ばれる染め布

 融通のきかない伝統主義を拒否することで――そして自分らしさというものの基準をおぼろげながらも作りだそうとする者も中にはいて――前述したシェフたちは、日本料理というものは、単に過去の掟を納めた貯蔵庫ではなく、生きている、活力に満ちた伝統なのだということを私たちに教えてくれる。さらに彼らは、和食とは、パスティーシュ(模倣)である、ということも同時に思い起こさせる。鎖国の年月が長かったにもかかわらず、日本はその歴史を通して、一貫して異文化から何かを借り、それを自己流にアレンジすることに罪悪感をおぼえない国だった。たとえば、天ぷらは、料理も言葉もポルトガル人から偶然にもたらされたものだ。1543年、中国船に乗っていた3人のポルトガルの航海士たちが日本の南部にたどり着いた。イエズス会の宣教師たちがそれに続き、“庭の小さな魚”と呼ばれる料理のレシピを日本に伝えた。それは緑色の豆に小麦粉をつけて油で揚げたものだった。

 カレーが日本に伝わったのは19世紀の明治時代だ。インドが大英帝国の支配下にあった当時、イギリス海軍によって日本に伝えられた。1950年代後半に、日本の企業が英国風やインド風のカレーよりもマイルドで甘さのあるインスタントカレーを売り出すまで、カレーは西洋料理だと考えられていたため、値段が高かった。

 トロッファーは、人気のS&B商品の味をまねて彼のカレーを作ったが、そこに“ホットな”ひと工夫を加えた。冬の間「マーロウ&サンズ」のメニューに加わるのは、日本でよく見る、パン粉をまぶして揚げたカツレツをのせた、カツカレーだ。アイカワが作るテキサス版カレーはそこからもう一歩飛躍した感じだ。彼は、ルイジアナ名物のシチューとメキシコの伝統的なモーレソースにカレーとの共通点を見いだし、二十数種類以上のスパイスを混ぜ合わせてちょうどいいバランスを探そうとした。ひと鍋ごとに、グラム単位でスパイスの配合を変えたという。彼はカレーをそのままで出すか、またはチリソースに近い形状でブリオッシュの中に詰めて出す。その上にはパン粉をまぶして揚げたホットドッグがのっている。まるで硬い皮のタコスみたいな感じだ。

 ラーメンも同様に、時代を経た深い歴史があるわけではない。ジョージ・ソルト著の『ラーメンの語られざる歴史』(2014年出版)によると、ラーメンが最初に登場したのは1910年の東京で、中華そば(「中国の麺」の意)という名前で売り出された。第二次世界大戦中、小麦粉は配給でしか流通しておらず、屋台販売が禁止されたこともあり、ラーメンはほぼ絶滅しかかった。20世紀半ばに日本が米軍の占領下に置かれると、小麦の輸入が再開され、ラーメンが復活した。米軍は日本国民が共産主義に傾倒しないよう、適度にその腹を満たす必要があったのだ。そして、戦後、ラーメンは安くておなかがいっぱいになる昼食として大発展を遂げた。すべての日本食のなかで、ラーメンこそが「最もオープンで、最も変化や実験に対応できる食べ物」だと称したのは米国生まれのシェフ、アイバン・オーキンだ。彼は2013年に出版したクリス・イェンとの共著『IVAN Ramen』でそう記している。

 日本人シェフは自分の店を構えるチャンスをつかむ前に、通常、何年も修行する。だが、中村栄利はまだ20代のうちに東京に自分のラーメン店を出して有名になった。10年ほど前に、彼はマンハッタンのローワーイーストサイドに自分の名を冠した店「Nakamura」をオープンし、今年その隣に、スープなしのラーメンである混ぜ麺の専門店、「Niche」を開いた。近所の歴史あるユダヤ系デリへの尊敬の念を込めて、中村は自家製の冷燻サーモンを作り、たらことオリーブ油のソースの上にのせた麺に、そのサーモンを散らしている。

 しばしば和食のルール違反の典型例として挙げられる、寿司のカリフォルニア巻きすらも、1960年代に日系移民によって発明されたと伝えられている。ロサンゼルスで、本マグロがなかなか手に入らなかったシェフは、西海岸で簡単に手に入り、濃厚で、独特のこってりした味の材料を代用品にした。そう、アボカドである。

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