BY KOTARO KASHIWABARA

庭で採ったグリーンアスパラ、新玉ねぎと菊花のサラダ、生ハム
首都圏のデスティネーションレストランの魅力とは?
かつて志のある地方の料理人は、東京や京都、大阪などの都会に出かけて修業し、独立するのが当たり前だった。そこには数多くの人々が住み、世界中から食材が届き、情報も集まるからだ。しかしネット社会の出現で人々の行き来は自由になり、情報も平等に日本中、瞬時に行き渡るようになった。
となると支障をきたしそうなのは食材の問題だけだ。だが、都会には世界中の食材が届いたとしても、それは規格に沿ったものであり、いくら物流や冷凍の技術が発達したとしても、フードマイレージといわれる、時間が経過した食材であることは間違いない。
ひるがえって地方には、都会の数十分の一、いや数百分の一の種類の食材しかないかもしれない。だが、朝どれの新鮮な食材をその日の昼や夜に食べることができ、名前がついていないために都会に届けても流通するのが困難な美味しい食材がある。足が早いため輸送に適さない食材や、規格外であるがため都会には送れないが、たとえば生で食べたら柔らかくて美味しい野菜も、そこにはある。
そういう食材を扱うことが好きなシェフは、以前から一定数はいたのだろうと私は思う。だが、そうした料理を理解してくれる食いしん坊(フーディー)は地方にはけっして多くなかったから、彼らが経済的に報われることは困難だった。
だが、情報が一瞬で世界中に届くようになり、潜在的な顧客は世界中に存在するようになった。しかもいまの若い世代は、まだ知られていない場所を誰よりも早く発見して、その情報を知らしめることに喜びを覚える。だからどんな遠いところにあっても、優秀なシェフのもとには世界中からフーディーが訪れ、同時に経済的にも豊かになることができるようになったのである。
そういった状況からこの十年ほど、特にコロナの前後から地方にデスティネーションレストランと呼ばれる、わざわざそのレストランにいくためだけに旅をする価値のあるレストランが続々できてきた。ただ、1930年から星つきレストランを掲載しているミシュランガイドの3つ星の定義は「そのために旅行する価値のある卓越した料理」だから、日本はフランスよりも100年遅れてようやく普及し始めただけかもしれない。
だとしてもこの状況は喜ばしいし、食を楽しむ人々の幅が日本でも広がってきたことだと私は思う。そしてここ数年、さらに新しいトレンドが生まれてきたと感じる。首都圏周辺のデスティネーションレストランの誕生である。
かつて首都圏の周囲は都会に食材を供給する基地の役割を持っていた。美味しい野菜、魚、肉を朝早く収穫し、都会に届けることによって、都会の人々はできる限りフードマイレージが短縮された食材を購入することができ、おいしい食にありつける。つまり都会の人々のために第一次産業を行う場所としてとらえられていたのである。
だが、食材供給基地だった地域にデスティネーションレストランが誕生したらどうだろうか。実は首都圏周辺には魅力的な食材が数多くある場所がたくさんあった。だが、それは都会から中途半端な距離であったがために、注目を浴びることが少なかったのである。私は以前、そうした店のシェフから、こんなことをいわれたことがある。
「食通の方々にとって、東京から1時間半で来られるうちの店よりも、京都のほうが心理的には近いんでしょうね」
ところがよく考えれば、実際は東京から近いし、地元の食材が豊富にそろい、土地も安いから野菜やハーブを栽培することもできる。そして美味しい。こんないいレストランはないではないか。
東川口で唯一無二の存在感を発揮する、レストラン KAM

入口には季節の紫陽花が咲き乱れていた
今回紹介する「レストランKAM」は東川口にある。今年5月、地方のわざわざ訪れるべきレストランを表彰する「デスティネーションレストラン2025」を受賞したばかりの注目株だ。
東川口はJR東日本・埼玉高速鉄道が停車するが、埼玉高速鉄道と南北線が相互乗り入れしているため、東京の港区界隈からでも1時間もあれば容易に着いてしまう。「川口」と聞くとちょっと前なら歓楽街を思い浮かべるかもしれないが、それは西川口で、しかも近年とても清潔な街になっている。東川口は江戸時代から植木栽培が盛んな地域で、相続対策により住宅街となったものの、土地一単位あたりの面積が広く、余裕のある住宅が多い。

店内は、しっとりとした和風のたたずまい
レストランKAMも以前は植木栽培をしていた古民家を改造したフランス料理店である。駅から歩いて十分ほど。遠くからも見える大きな木造の家屋で、近づくと入口には季節の紫陽花が咲き乱れていた。どこか南フランスを思わせるようなエントランスとなっている。

シェフの本岡将さん(右)と、タッグを組むソムリエの田代圭佑さんは幼馴染
シェフの本岡将さんは調理師学校を卒業後、渡仏。パリのレストランでスーシェフをしていたが、帰国後、23歳で静岡の「レストランビオス」のシェフに就任した。ビオスはタイユバン・ロブションのメーテル・ドテルをしていた松木一浩さんが作った農園レストラン。私もうかがったことがあるが、もともとはレストラン向けの野菜を専門に作っている農園で、目の前で野菜を採って料理をする経験が、レストランKAMに至ったのだろう。2018年には若い料理人のコンクール「RED U-35」で準グランプリに輝いた。

マドレーヌと魚のリエット、パルミジャーノと飴色玉ねぎのキッシュなど4種の前菜
「南仏で修業したときには土地の野菜の香りの良さを、ビオスでは季節によって変わる野菜の味を知りました。ビオスのお客様の大半が東京の方だったので、独立するときは東京と決めていましたが、ちょうど東川口にあった妻の祖父の家が空いたことから、ここでやることにしました。ファミリー層が多く、治安がいいところも魅力的でした」
本岡さんがタッグを組む田代圭佑さんは、お互い兵庫県加古川市で幼少時代を過ごした頃からの同級生。いつか一緒に仕事をしようと誓い、合流するまでは、これまたデスティネーションレストランに輝いた調布の「Maruta」でソムリエをしていた。
植木栽培をしていた奥様のお祖父さんの家は土地が広いため、ふたりは目の前の庭で菜園を営み、常時40種類以上の野菜やハーブを栽培している。この日も、本岡さんが庭に出て、野菜やハーブを採取し、料理に使う光景が何度も見受けられた。
「私がいちばん重視するのは、香りです。東京だとハーブは箱に入って届けられるため、どうしても香りが薄い。ここは目の前で採ったばかりのものを使えるため、香りのいい皿に仕上げることができます」

スペシャリテのひとつ、畑で採った玉ねぎとローズマリーを使ったフォカッチャ。まず、焼く前のものを見せ(写真上)、焼き上がりを持ってきて取り分ける(写真下)

料理は、焼き上げる前の状態のローズマリーを練りこんだ自家製フォカッチャがテーブルに登場するところから始まった。ローズマリーの刺激的な香りが特徴的で、これは焼きあがって、後ほど供される。

もう一つのスペシャリテ。自家製リコッタチーズに燻製の香りをまとわせて、薄いメレンゲを乗せた一品。目の前でガラスの器を開けると香ばしい薫香がただよう

もうひとつのスペシャリテが、薫香をまとわせた自家製リコッタチーズに薄いメレンゲを載せたもの。サクッとしたメレンゲに固めのリコッタチーズがいい塩梅だ。

エストラゴンをまとったぼたん海老、マリーゴールドを散らしたビスクソースで
その後も庭のグリーンアスパラガス、新玉ねぎ、エストラゴン、レモングラスなどのハーブ類、三郷市のホワイトアスパラガスなど、東川口周辺の野菜を使った皿が続く。

三郷市のホワイトアスパラガスのベニエ、えんどう豆、ハマグリ、ケッパーと一緒に

フランス産の馬肉をセニャンの火入れでいただく
メインディッシュはフランスの馬肉をセニャン(レアよりもさらに生に近い状態)ほどの火入れで仕上げたもの。地産地消ですべてをまかなうわけではなく、いいものは日本中、世界中の食材から選ぶ。これもフランスで修業し、静岡でシェフを務めた本岡さんだからできることだろう。
コースが終わって感じるのは、どの皿も香り豊かなものだったこと。これは東京の中心部ではなかなか表現できない。しかし一時間も都心を離れれば成し遂げられる。

甘利のイチゴのアイスクリーム
本岡さんは昨年、駅の反対側にイタリアンカフェをオープンさせた。本岡さんが常連だった古い喫茶店「えきすぱーと」が閉店することになり、オーナーに「店を継いでくれ」と頼まれたときに、かねてからの友人で目黒「ラッセ」の料理長をしていた渡邊里奈さんに話したところ意見が一致。レストランほど本格的ではないが、ラッセの美味しい料理が楽しめる素敵なカフェ「ERI」としてよみがえった。

駅の反対側にオープンさせたイタリアンカフェ「ERI」。以前は喫茶「えきすぱーと」だった
「次はKAMの向かい側にある空き家をラウンジバーにしようと思っていますし、板橋でも店をやります。今の店を建て替えるも計画もありますし、私の両親が住む淡路島でなにかやろうかとも思っています。埼玉にこだわるつもりはなく、自分がやりたいことを今後もやっていきたいと思います」
以前、東京から広島県廿日市市に移住したシェフに理由を聞いたら、「家賃のために仕事をすることはしたくなかったんです」と話してくれたことを思い出した。デスティネーションレストランにはいろいろな形があり、可能性があると感じた一日であった。
レストラン KAM
埼玉県川口市戸塚3-1-13
TEL. 080-4623-0829
公式サイトはこちら
柏原光太郎
ガストロノミープロデューサー。文藝春秋で「文春マルシェ」創設を経て、「日本ガストロノミー協会」会長、「食の熱中小学校」校長、「Luxury Japan Award 2024」審査委員などを務める。近著に『ニッポン美食立国論 ―時代はガストロノミーツーリズム』『東京いい店はやる店』。