昨春、世界中の舞台から灯火の消えた空白の時期に、人形遣い・吉田簑紫郎が文楽人形の写真集『INHERIT』を上梓。文楽史上初、人形遣い自らが撮影した人形の写真を話題の中心に据え、小説家・三浦しをんと人形遣い簑紫郎の「表現」をめぐる対話が繰り広げられる。会場はドーバー ストリート マーケットギンザ(以下DSMG)。同店10周年記念の熱気を帯びた空間を、束の間、文楽人形がジャックする光景をぜひ目撃してもらいたい

BY HISAE HIGUCHI

 舞台上で人形遣いに命を吹き込まれる人形が、楽屋や舞台袖でどのような息遣いで出番を待っているのか、我々には垣間見ることができない。化粧をほどこされた首(かしら)、美しく結い上げられた鬘、衣裳を着付けられた胴が一体となる瞬間、艶やかな遊女や威厳に満ちた武将が静かに鼓動を打ち始める。人形たちは、物語の時間の流れから切り離されている間にも、確かに「役」を演じている。それゆえに、ある種、脈絡なく「本」の中に並べられると、舞台上のそれとはまた別の様相で「役の性根」を色濃く放ち始める。

「人形を遣っていながら、時折、人形に遣われているような感覚をおぼえる」と語る簑紫郎。意志ある「生」としての存在感を放つ人形たち。人形遣い自らが写真に閉じ込めたのはまさにこうした濃密な空気を纏った人形の姿だった。公演の間のわずかな期間、役を与えられて生きる人形と、束の間の人生、ペルソナを被りながら何かに操られているように生きる我々との間に、一体どれほどの違いがあるのだろうか。そんな思いが去来する。

画像: 「鑓の権三重帷子」(やりのごんざかさねかたびら)に登場する“踊り子”の首(かしら)。舞台を終えたのち、両者見つめ合うように横たえられていた男女の首の一瞬を切り取った一枚 ©️MINOSHIRO YOSHIDA

「鑓の権三重帷子」(やりのごんざかさねかたびら)に登場する“踊り子”の首(かしら)。舞台を終えたのち、両者見つめ合うように横たえられていた男女の首の一瞬を切り取った一枚
©️MINOSHIRO YOSHIDA

 写真集『INHERIT』に収録された人形たちは、それぞれが登場する物語の住人でありながら、物語世界とは別次元で切り取られた一瞬の「生」を謳歌しているように見える。それは、他でもなく簑紫郎がファインダー越しに捉えた人形が、人形遣いから切り離された姿であったからであり、また同時に、ただ切り離されているのではなく、役の性根を知り尽くした人形遣いの眼差しで見出された姿であったからでもある。

画像: 「伊達娘恋緋鹿子」(だてむすめこいのひがのこ)の主人公“お七”。簑紫郎自前の首。髪を振り乱し、炎に照らされたような熱気を帯びたお七の表情には燃えるような恋心が溢れている ©️MINOSHIRO YOSHIDA

「伊達娘恋緋鹿子」(だてむすめこいのひがのこ)の主人公“お七”。簑紫郎自前の首。髪を振り乱し、炎に照らされたような熱気を帯びたお七の表情には燃えるような恋心が溢れている
©️MINOSHIRO YOSHIDA

 大学在学中、演劇を専門に学んでいた三浦は、当時から伝統芸能に触れる機会が多かったという。その後、小説家となり文楽を題材にした小説『仏果を得ず』や、体当たりで文楽を取材したエッセイ『あやつられ文楽鑑賞』を執筆。文楽ファンのみならず、文楽に馴染みのない人々へ向けた入門書としても広く愛読されている。

 長年にわたり人形を操り、時に人形に操られるように文楽の世界を生きて来た簑紫郎が、物語の登場人物を見事に操る三浦に、どのように解体されるのか。とりわけ文楽は、人間が演じるのではなく人形を遣って演じるということにおいて、操り・操られる両者のせめぎ合いをひときわ強調した演劇であるといえよう。そういう意味では、小説においてもまた同様に、「語り手」と「登場人物」の間に起こる操り・操られる駆け引きの中に、針の穴ほどの精度が要求される「表現者」としての創造性が秘められている。

 文楽と文学、そして写真。表現者として操り・操られる両氏の心境がどのように交錯するのか、それぞれのフィールドの舞台裏が明かされる貴重な対話の機会となることは間違いないだろう。

 トークの中盤には、写真集『INHERIT』のカバー写真に採用された幽玄な佇まいの‟稲荷明神”(「小鍛冶」)が登場。簑紫郎による人形解説も行われる。劇場とは一味も二味も違った空間で迫力ある人形の姿をぜひ目撃してもらいたい。会場となるファッションの殿堂DSMGは、今年開店10年目を迎えた。様々なアーティストが集結した熱気を帯びた会場を、束の間「文楽人形」がジャックする催しはDSMGの遊び心そのものであると言って良いだろう。

画像: 吉田簑紫郎 人形浄瑠璃文楽座人形遣い。13歳で吉田簑助に入門。師・簑助の遺伝子を色濃く受け継ぎ、立役、女形いずれもこなす人形遣いとしてこれからの文楽界の中核を担う存在として期待されている。2021年、写真集『INHERIT』(ERMITE)を上梓。写真表現という新たなフィールドでの挑戦を本格的に開始 ©️MINOSHIRO YOSHIDA ermite.jp

吉田簑紫郎
人形浄瑠璃文楽座人形遣い。13歳で吉田簑助に入門。師・簑助の遺伝子を色濃く受け継ぎ、立役、女形いずれもこなす人形遣いとしてこれからの文楽界の中核を担う存在として期待されている。2021年、写真集『INHERIT』(ERMITE)を上梓。写真表現という新たなフィールドでの挑戦を本格的に開始
©️MINOSHIRO YOSHIDA

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画像: 三浦しをん 小説家。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2018年刊の『ののはな通信』で島清恋愛文学賞及び河合隼雄物語賞を受賞。現在、ノベル大賞、山本周五郎賞、直木三十五賞の選考委員も務める。小説『仏果を得ず』には文楽の世界で葛藤しながら成長する太夫の姿が活き活きと描かれている ©️HIROYUKI MATSUKAGE

三浦しをん
小説家。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2018年刊の『ののはな通信』で島清恋愛文学賞及び河合隼雄物語賞を受賞。現在、ノベル大賞、山本周五郎賞、直木三十五賞の選考委員も務める。小説『仏果を得ず』には文楽の世界で葛藤しながら成長する太夫の姿が活き活きと描かれている
©️HIROYUKI MATSUKAGE

ドーバー ストリート マーケット ギンザ 10th Anniversary Talk Event
日時:2022年10月29日(土)
   16:00〜18:00
会場:ドーバー ストリート マーケット ギンザ 7F ローズベーカリー
住所:東京都中央区銀座 6-9-5
入場無料

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