彼が垣間見せた素顔は機知に富み、ひと癖もふた癖もあり、心を打つ情感をたたえていた。それは彼が写し出す世界にぴったりと重なっていた

BY AUGUSTEN BURROUGHS, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

画像1: PHOTOGRAPH BY WILLIAM EGGLESTON

PHOTOGRAPH BY WILLIAM EGGLESTON

 僕は、見れば見るほど複雑に写る彼の写真の構図、幾何学的な構成について何十年も研究している人たちがいるということについて話した。だがエグルストンは、その手の研究は“ナンセンス”だと言う。彼にとって写真は第二の天性― 直感であって、分析不能なのだ。「もちろん、写真にアングルと構図は不可欠だが」彼は説明し始めた。「一瞬ごとに、撮影の対象となる何かと別の何かが、異なった影響を与え合う。その瞬間に生まれた要素ですべての写真は"構成"されているんだ。私にとって、写真は小さな絵画作品のようなものさ」

 だが彼は写真マニアというわけではない。エグルストンは「この世にある写真の半分は価値がない」と一蹴し、「私が好きなのは自分で撮った写真だけだ」と言う。僕はエグルストンの世界と対極にあるアンセル・アダムスの写真を思い浮かべ、彼にアダムスをどう思うか尋ねてみた。すると「彼とは面識がなかったが、もし知り合っていたとしてもやっぱり“あんたの作品は大嫌いだ”と言っただろうね」と言い放つ。しかしそんなエグルストンも、“決定的瞬間”を捉えることで有名な仏写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンを尊敬していたことがあると、僕はどこかで読んだことがあった。エグルストンは、そのカルティエ=ブレッソンに「ウィリアム、カラー写真なんてくだらないよ」となじられたことがあるが、その言葉を懐かしく思い出すという。批判されて気落ちしなかったかと聞くと、「とんでもない。私は彼に“それはどうもすみません”と謝ってテーブルを離れ、別のテーブルに移ってパーティを楽しんだからね」と答えた。

画像2: PHOTOGRAPH BY WILLIAM EGGLESTON

PHOTOGRAPH BY WILLIAM EGGLESTON

 エグルストンの写真は、注意深く見ないと適当にはぐらかされてしまう。じっくりと見つめ、また見つめ直し、その写真が撮られた理由が頭に浮かんでくるまで凝視しつづけなければならない。たとえば、1970年代の半ばに撮影された美しい少年の写真がある。少年、つまり彼の息子ウィンストンは、レストランでクッション張りのボックス席に座り、雑誌を眺めている。雑誌(写真を見る人には上下が逆に見える)の見開きに載っているのは拳銃だ。この作品は胸に連続パンチを食らわす。まず少年の純粋さに打たれる。少年が眺めている雑誌に目をやった途端、心臓が一瞬止まる。僕はエグルストンに「この写真を見ると、ちょっと息が止まるような気がして。僕の言いたいこと、わかるでしょうか?」と聞くと、彼は簡潔に答えた。「もちろんだとも。私も同じ気持ちになるんでね。この写真には何とも言いがたい魅力があると思う。理由はわからないんだが」

 血のように真っ赤な寝室に、裸の男が立っているという別の有名な一枚もある。幻覚を見ているような、ある種の不吉さをもたらす作品だ。なぜ彼は裸なのか。なぜこの寝室はめちゃめちゃに乱れているのか。僕がこの人物について尋ねると、エグルストンは「彼は私の世界一大切な友達だった」と切り出し、続けた。「でも殺されてしまったんだ、頭を斧で殴られて」。ほかにもよく知られた写真がある。ロングヘアの女の子が目を閉じ、左手にカメラを持って芝生に寝転んでいるという写真だ。彼いわく、この女の子は眠っているのではなく、クエールード(鎮静催眠剤)を服用したあとだという。

 

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