10代で初めて真剣に写真を撮り始めて以来、キャリー・メイ・ウィームスは、黒人女性のアイデンティティをハイアートの世界に持ち込むことで、ビジュアル創作のルールを書き換えてきた

BY MEGAN O’GRADY, STYLED BY SHIONA TURINI, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 権力の構造がどうあれ、自分の生活には直接影響はないとうそぶいていた人ですら、ここ2年間で、その考えを改めなくてはならなくなった。黒人家庭がほとんど存在しないポートランドの地で、ウィームスは、ミシシッピから引っ越してきた小作人の大家族の中で育ち(彼女は7人兄弟の上から2番目)、家族の絆は非常に強かった。そんな彼女が、権力構造を気にせずにいられることなど、決してあり得なかった。彼女の父方の祖父は、ミシシッピで最初にできた黒人と白人の共同農場のひとつであるサンシャイン・プランテーションで、小作人のまとめ役を務めていた。ウィームスは最近知ったのだが、ドロシア・ラング(註:報道写真家)が彼女のお気に入りの伯父のクラレンスを1930年代に撮影していた。ウィームスの子ども時代は幸福に満ち、海岸やマウント・フッドによくキャンピングカーで家族旅行に出かけていた。

 彼女の子ども時代を決定づけたのは、主にふたりの男性だった。ひとりは父でハンサムなマーリー。モハメド・アリ似だったとウィームスは言う。「父はものすごくカリスマ的で、面白くて素晴らしくて、やさしく、礼儀正しくて心が広かった」。そしてもうひとりは彼女の母方の祖父で、彼は、家族のほとんどを雇用する雇い主でもあった。「彼はユダヤ系で、ネイティブ・アメリカン、黒人でもあったけど、見た感じはすごくユダヤ系だった。彼は基本的に自分が白人に見えることを知っていて、私たちがそう簡単にできないことをやってのけていた。だから、その特性を最大限に利用して家族の面倒を見ていたというわけ」。彼は用務員サービスの事業を起こし、のちに人気のバーベキュー・レストランのオーナーになった。

 ウィームスは両親が離婚したとき8歳だった。しかし、その後も父はすぐ近所に住んでいたため、家族はバラバラにならずにすんでいた。彼女は何年間も、両親の離婚は自分に何も影響しなかったと自身に言い聞かせてきた。何年もたってから伯母のひとりと話しているうちに、離婚を境に、自分がスケッチしたり、油絵を描いたりするのをやめたことに初めて気づいた。すると、幼かった頃のその他の思い出もよみがえってきた。学校から帰ると、ケネディが暗殺されてテレビの前で母が泣いていた光景。マーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺のあとでは、彼の「I Have a Dream(私には夢がある)」のスピーチを父と繰り返し何度も読んだこと。長年の間、ウィームスは作品の中で、自分がその年齢だった頃を振り返ってきた。8歳、9歳、10歳、まだ自分自身になろうとしている成長途中の少女時代を。周りの世界に次第に目覚め、自分に対する自信を持ち始める頃だが、思春期を通してその自信をそのまま持ち続けることはできない。大人はそれをすでに知っている。だからこそ、この年齢の少女の存在は、いっそうせつないのだ。

 1978年に撮影された、彼女の娘、フェイスの9歳のときのポートレート写真は、フェイスの無垢さとウィームスの愛で輝きに溢れた一枚だ。2002年の懐古的な作品『May Flowers』は、ウィームスの家の壁の真ん中に大事に掛けられている。古着のドレスを着て頭に花冠をつけた、同年代の3人の少女を撮影したものだ。真ん中にいる少女の名はジェシカだと、ウィームスは私に教えてくれた。シラキュースの道端で母親と一緒にいるジェシカに気づき、彼らに近づいて、写真のモデルをする気はないかと尋ねた。写真の中のジェシカは私たちをまっすぐに、じっくりと、恐れを知らぬ表情で見つめている。それは多くのウィームスの作品と同じく、ちょっと斜めの姿勢のセルフポートレートのようなものだ。

『The Kitchen Table Series』の中の忘れられない一枚であり、ウィームスがこれまで撮影した写真の中でおそらく最も有名なショットがある。幼い少女と母親がお揃いの鏡に向かって口紅を塗っている写真だ。それは一見、何の苦労もせずに自然に撮れたように見えるイメージだが、実際は、女性の主体性を巡る考察が複雑に盛り込まれている。このショットは、プライベートな行動が、公衆の面前にさらされる前提で描かれている点で、印象派の画家ベルト・モリゾの1875年の絵画『Woman at Her Toilette』を思わせる。ウィームス版のこの作品では、幼い少女が、おそらく本人は気づかないまま、女性であるとはどういうことか、また、男性に見られることの意味とは何かを学んでいるところでもある。「女性たちは何をお互いに与え合うのか? ひとりの女性から、もうひとりの女性に何を伝えていくのか?」とウィームスは語り、この写真のモデルとなった少女を思い出している。ウィームスが教師をしていた頃に住んでいたマサチューセッツ州ノーザンプトンの近所で見かけた子だった。「彼女は子どもの頃の私にそっくりで、この役にぴったりだと思った。当時の私と同じように活発で、髪型も似ていた」

画像: ウィームスの『May Flowers』の真ん中でモデルをしているのがジェシカ。この撮影から15年たった最近、彼女はまたウィームスのプロジェクトに参加した 『MAY FLOWERS』 CARRIE MAE WEEMS, ‘‘MAY FLOWERS,” 2002 © CARRIE MAE WEEMS. COURTESY OF THE ARTIST AND JACK SHAINMAN GALLERY, NEW YORK

ウィームスの『May Flowers』の真ん中でモデルをしているのがジェシカ。この撮影から15年たった最近、彼女はまたウィームスのプロジェクトに参加した

『MAY FLOWERS』
CARRIE MAE WEEMS, ‘‘MAY FLOWERS,” 2002
© CARRIE MAE WEEMS. COURTESY OF THE ARTIST AND JACK SHAINMAN GALLERY, NEW YORK

 ウィームスの両親が離婚してから、彼女は祖母が所有していた大きな家に母と兄弟たちとともに引っ越した。木床の長い廊下をくるくるとピルエットで進んだり、母の作業着を着てダンサーか女優になった空想をしながら、屋根裏部屋の窓から外を眺めたりした。「私は単純に、自分で何かを表現して、世界的に認められるアーティストになるんだという考えに興味を持ち始めていた。当時アートが何かはよくわかっていなかったけれど」と彼女は言う。「私にはニューヨークに引っ越すという素晴らしく壮大な夢があった。いつも素敵なドレスを着て、パーティにはわざと遅れていって、さっさと帰ってしまう。するとみんな私が誰かを知りたがって『彼女は誰?』と噂するというわけ。よくそんな空想をしていた」。

 演劇の教師が家にやってきて話をすると、彼女の母は、シェイクスピア劇場のサマー・プログラムにウィームスを参加させることに同意した。彼女は、近所の子どもと一緒に苺を摘んで金を稼がなければならない業務を免除され、同時に創作活動をしていいというお墨つきも与えられたことになる。そのプログラムに参加したことで、彼女はほかにも演劇やストリートパフォーマンスに参加する機会を得た。「夜に交差点で踊って、神様たちの目を覚ましてた」と彼女は言う。彼女の父もまた非常に重要な許可を彼女に与えていた。「私の最も幼い頃の記憶は、父が私を抱っこして、膝の上にのせていたこと。私は4歳か5歳だった。父は私を見てこう言った。『キャリー・メイ、お前には常に権利があることを忘れるな。誰かにいじめられたら、いちばん大きな木の枝をつかんで闘うんだ』って。

 この言葉は素晴らしい贈り物だった。父はこうも言った。『お前より偉い者は誰もいない。そして、お前が誰かより偉いということもないんだ』って。これが私の理解の礎になり、私の信念の基盤として、すごく幼い頃に精神に刻み込まれた。私たちはここにいる権利があるというこの考え方を、私は人生を通して何度も繰り返して唱えた。だから、たとえ大きな晩餐会に呼ばれても、私はいつもすごく居心地よくいられる。誰が部屋の中にいようと全然気にならない」

写真家キャリー・メイ・ウィームス<後編>

 

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