BY MEGAN O’GRADY, PHOTOGRAPHS BY MICKALENE THOMAS, STYLED BY SHIONA TURINI, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
グッゲンハイム美術館で黒人女性として初の回顧展が開かれ、ビヨンセのミュージック・ビデオにも影響を与えたとされる写真家、キャリー・メイ・ウィームス。マイノリティのアイデンティティを親密な視点で表現し、白人男性優位のアート界で道なき道を切り開いてきた。
アーティストに強い影響を及ぼした成長過程の年月を語るときに、それはすべて必然だったのだとか、Aという出来事があったからBになる、と結論づけてしまうのはよくある誤解だが、17歳で家を出たウィームスの場合は、何ひとつ筋書きどおりにはいかなかった。親友で映画監督のキャサリン・ジェルスキを追いかけてサンフランシスコに移ったウィームスは、振付師のアナ・ハルピンからモダンダンスの舞踊団に入らないかと誘われる。のちにウィームスは、カリフォルニア芸術大学とカリフォルニア大学サンディエゴ校から学位を得ている。サンディエゴでは長年の友達であるアーティストのローナ・シンプソンと同居し、カリフォルニア大学バークレー校で民話の勉強もした。
だが大学での勉強と同じくらい、もしくはそれ以上に意味があったのは、自習や読書や、若さゆえの災難などのさまざまな違った人生経験から、少しずつ知らずしらずのうちに学んだことだ。東ベルリンに旅行して、そこでアンジェラ・デイヴィス(註:政治活動家で共産党員でもあった)に間違えられたことも経験のひとつだ。ウィームスがニューヨークに最初に引っ越したのは1971年だ。「赤ん坊を背負って、段ボール製のスーツケースを持って」と彼女は表現する。だが、すぐにサンフランシスコに戻ることになった。この引っ越しはちょっと急すぎたのだ。
彼女は働く必要があり、子どもの面倒も見なければならなかったからだ。フェイスはウィームスが16歳で産んだ子で、ほとんどウィームスの伯母や伯父たちによって育てられた。ウィームスとフェイスは非常に仲がよく(マーサズ・ヴィニヤード島で一緒に休暇を過ごすほど)、ウィームスの写真の中でも10作品ほどは、感情の極まりや交錯する思いなど、母というものを究極的に表現した芸術作品として知られている。だがウィームスは、それを彼女の作品の中心テーマとは考えなかった。「私は母親らしいことはほとんどしたことがないし」と彼女は言う。「私と娘は友達というほうが、しっくりくる。もちろん、母と娘の部分もあるけれど、彼女を育てたのは私ではないから。私たちはかなり普通とは違った関係だと思う」
当時、黒人写真家年鑑をめくりながら、彼女はそこに掲載されているアーティストたちの姿に、自分の将来を見ていた。彼らのほとんどは男性だったが、彼女と似たような姿形で、彼女がやりたかった職に就いていた。そして1976年に、彼女は再びニューヨークに挑んだ。「彼らと一緒にいたくてニューヨークにやってきた。彼らと会い、彼らと話し、彼らをインタビューし、彼らと一緒に学んで友人になるために。そして彼らの展覧会を見たかった」と彼女は思い出を語る。スタジオ・ミュージアム・イン・ハーレムで写真を学びながら、彼女はケリーガールとして金を稼いだ。ケリーガールとは、いわゆる派遣労働者のことだ。
その後、写真家のアンソニー・バーボーザのアシスタントを務めた。彼女は、黒人写真家たちの組織であるカモニゲ・ワークショップに自分の居場所を見つけた。友人であり、写真家のメンターでもあり、彼女にスタジオ・ミュージアムで写真を教えたダウド・ベイとも親しくしていた。ベイは教え子としての彼女の「心の温かさと情熱」をよく覚えていると語る。ふたりともロイ・デカラヴァのハーレム・ルネサンス時代の写真から影響を受けた。それは緻密な制作と「ごく普通の黒人たちの生きざま」が合体してできたものだとベイは言う。「私たちはこの世界の中で、黒人であり、人間として存在しているという感覚をお互い共有していた。自分たちの人生を生き、世の中を変えるような仕事をしたいと願いながらね。写真という手段を通して、よりスケールの大きな文化的対話のある世界を自分たちが作り出すことを想像しながら、その感覚をシェアしていたんだ」
文学もまた彼女が世界に出ていく道を思い描く手助けをした。私は彼女のテーブルの上にジョージ・ソーンダーズ(註:アメリカの短編作家)やマリオ・バルガス・リョサ(註:ペルーのノーベル賞作家)の本があるのに気づいた。ゾラ・ニール・ハーストンは『Family Pictures and Stories』(1981-’82年)を撮るインスピレーションにもなった。この作品は、活力に溢れて現実味があり、怒りっぽくて慈愛に満ち、人間らしく不完全な、黒人たちの日々の体験を描写したものだ。だが、1975年に出版されたローラ・マルヴィの凝視に関する有名なエッセイ『視覚的快楽と物語映画』(註:女性を客体化する男性側の視線によって映画の映像が撮影されていると論じた文章)が巻き起こした論争の影響もあって、1980年代までには、アートはより柔軟なものになっていった。ウィームスは、黒人女性がほとんど登場しない映像カルチャーとの関係性の中で、彼女自身が感じる自己の存在を探究していた。
ほかの女性アーティストは、自らの身体を使い、女性を表現する手法に疑問を投げかける役回りを演じた―たとえばシンディ・シャーマンの初期の作品を思い出してほしい。彼女はハリウッドで使い古されたテーマをわざとまねしたし、フランチェスカ・ウッドマンはゴシック画に似せたセルフポートレートを撮影した―しかし、ウィームスはほとんどの作品において、まったく新しい自分の手法を生み出さなければならなかった。それは、女性らしさや人との親密な関係についての、個人的な感情と向き合うことを強いられることを意味した。
「アーティストというのは常に、世界に対する自身の理解の中で、何が最も本物の真実に近いのか、また、どうしたら自分がその世界になじめるのかを、探し求め、葛藤し、助けを呼び求め、発見し、掘り起こしているものなのだ」と彼女は言う。「そして、ひとつ確かだったことがある。それは当時まで女性たちがどうやって自分自身を撮影してきたかという手法に、私はほとんど興味がなかったということだ。それと同時に、私は黒人女性の写真家がほとんどいないことを深く憂えていた」