BY JUN ISHIDA
2019年6月、日本美術に関するあるニュースが報じられた。出光美術館が約190点のプライスコレクションを購入した――この知らせは美術関係者のみならず、広く一般の人々にも関心をもって受け止められた。
プライスコレクションとは、アメリカのエツコ&ジョー・プライス夫妻が所有する江戸絵画を中心とした美術コレクションだ。プライス夫妻は世界一の伊藤若冲のコレクターとして知られ、日本における若冲ブームを巻き起こした人物でもある。2006年に東京国立博物館で開催された『プライスコレクション「若冲と江戸絵画」』は、その年の一日における観客動員数世界一を記録した。また、東日本大震災の後には、被災地の助けになればという思いから、宮城、岩手、福島の美術館で巡回展『若冲が来てくれましたープライスコレクション江戸時代の美と生命ー』(2013年)を催した。今回、出光美術館が購入した作品の中には、この展覧会でも中心的な役割を果たした若冲の《鳥獣花木図屛風》も含まれる。
《鳥獣花木図屛風》は夫妻にとっても特別な作品だ。エツコ夫人は、震災の特別報道番組を見た夜は身体の震えが止まらず、倉庫から《鳥獣花木図屛風》を出し眺めているうちに屛風の前で大泣きしたという。「鳥獣花木図は、うれしいときも悲しいときも私どものそばにあり、心をともにしてきました。言葉を必要としない世界、ひとりでいても寂しくならない楽しい世界、あなたはひとりぼっちではないですよ、と語りかけてくれる屛風です」(エツコ夫人)。なぜ夫妻は、この屛風をはじめ、「心のよりどころ」というコレクションを手放したのだろうか? コロナ禍のもと、ロサンゼルスの自宅にこもるエツコ夫人が語ってくれた。
こだわったコレクションの売却条件
今回、コレクションは夫妻の希望によりプライベートセールという形で売買された。仲介役を担ったクリスティーズジャパンの山口桂社長は、当時のことを振り返る。「最初にプライスさんから話があったのは2015年のことでした。プライベートセールとは、オークションにかけず、相対で作品を取引するものです。夫妻の希望は、“190点の作品をまとめて購入する日本の公的な機関”というものでした。一般の人が作品を鑑賞できること、そして研究者が自由に見られることも条件でした」
一般公開と学術的研究は、プライス夫妻が拠点とするロサンゼルスでも成し遂げようとしたことだ。夫妻は自己資金と寄付をもとにロサンゼルス・カウンティ美術館に日本館を新設し、約600点のコレクションを寄贈、日本美術の教育・研究のための施設も備えるという壮大なプロジェクトを進めていた。しかし、日本館自体は1988年に完成したものの、美術館側のコレクションに対するぞんざいな扱いやプライス夫妻の関与を排除する動き、そして夫人への人種偏見的な振る舞いがみられたことから、夫妻は1980年以前に購入した190点の寄贈のみにとどめた。
「もともとは江戸絵画が一般の人々に愛される文化になってほしい、そして、日本という国をよりよく理解してほしい、という願いから行ったものです。私としては、日本の文化と技術の高さを理解してもらい、日本人に対する偏見や差別をなくしたい、という気持ちもありました」(エツコ夫人)
夫妻が日本美術、とりわけ江戸時代の絵画にかける思いは並大抵ではない。江戸絵画は、日本美術の中で長らく脚光を浴びてこなかったジャンルだ。1972年に東京国立博物館で琳派展が開かれると、琳派という呼称の認知とともに注目を集めるが、ジョー氏が出会った当時はまだマイナーな存在だった。ジョー氏が江戸絵画を初めて手にしたのは1953年、父親の会社の社屋設計を手がけていた建築家のフランク・ロイド・ライトに会うために、ニューヨークを訪れたときのことだ。ジョー氏が人生の師の一人と仰ぐライトは、浮世絵のコレクターとしても知られる。ライトがマンハッタンにあるなじみの古美術商を訪れるのに同行したジョー氏は、一枚の絵画に出会う。
「漫然と見ているうちに、掛け軸の一つに目がとまり、そうなると気になって仕方なかった。それが若冲の《葡萄図》だったわけですが、そのときは絵師の名前も、《葡萄図》という作品名も頭に入っていませんでしたね。絵そのものに惹かれたのです」(『若冲になったアメリカ人ジョー・D・プライス物語』小学館)
ジョー氏は、若冲はもちろん、日本美術に関する何の知識も持たないにもかかわらず、絵に惹かれるままにこれを購入。ここから、ジョー氏の江戸絵画の収集が始まった。エツコ夫人に江戸絵画、そして若冲の魅力を尋ねると、次のような答えが返ってきた。
「江戸絵画は日本美術史の中でも大変特殊なもので、日本が外からの影響を受けなかった時期の純日本的な絵画です。この時代の絵画の構図は、無駄な線が省かれ、余白の美しさが特徴です。日本の文化は足し算ではなく引き算で、無駄はすべて省かれます。これは神道の精神にも通じるものだと思います。若冲の絵は、世界で一番完璧な絵と考えております。写真的な絵や、ユーモラスで心が温まるような墨絵。そのテクニックは類を見ず、人間の手でこのような絵が描けるのか、と驚き以外の言葉が見つかりません」
稀代のコレクターの情熱と責務
ジョー氏は、日本美術コレクターとして伝説的な存在だ。作品を見るときに作者の名前は尋ねない、3、4時間かけて一枚の絵を見る、展示の際には自然光にこだわる......。ジョー氏がオークション会場で作品を見る場に居合わせたことのある山口氏は、その様子を「見尽くすようだった」と言う。「ひとつの絵をずっと見ているとわからなくなることもありますが、発見もある。しかし、そこまで見尽くすことはなかなかできません」
心血を注いで向き合った絵画への情熱。しかし、全身全霊を込めるからこそ、コレクションを続けることに限界もあった。「ジョーは91歳、私も81歳です。今後コレクションはできません。コレクターは体力が必要で、絵に会うためにいろいろな方面に出かけねばなりません。プライスコレクションは一番理想的な時期にコレクションでき、その半分が出光美術館に入ったことで完成したと考えています。出光家はコレクターでもあり、コレクターの苦しみをよく理解されております。コレクターは楽しいことばかりではありません。大きな使命も感じております。何かを守らねばならない、という気持ちは人一倍です」(エツコ夫人)
出光美術館の所有となった旧プライスコレクションは、来年以降にお披露目の展覧会が計画されている。そしてそこには夫妻が愛してやまない若冲の《鳥獣花木図屛風》も登場する予定だ。