バーバラ・クルーガーというアーティストは、短いフレーズを使い、ゾクゾクするほど面白く、未来を予言するような作品を作る。彼女の作品は、何を意味しているのか一一見わかりにくいが、そのメッセージは永遠に不滅だ。彼女の紡ぐ言葉は、政治スローガンと詩の間にある境界線を曖昧にし、アメリカの広告やメディアが使う言語をハイアートの地位まで押し上げた。彼女の作品は、インターネット・ミームに右往左往させられる私たちの真の姿を映す暗い鏡の役割を果たしている

BY MEGAN O’GRADY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

1981年に彼女はニューヨークのアニナ・ノセイ・ギャラリーのグループ展『パブリック・アドレス』にジャン=ミシェル・バスキアやジェニー・ホルツァーらとともに作品を出展した。モノクロ写真のアプロプリエーションの上に、白地のボックスに入ったフーツラ体の黒い文字を載せた。作品は赤い額縁に入れて飾った。一点の作品が表紙に掲載される折り込み誌『Aqui』に載ったのが、彼女の1984年のシルクスクリーン作品《We Get Exploded Because They’ve Got Money and God in Their Pockets(彼らが金と神をポケットに入れているから、私たちは爆発する)》だ。この作品で使った、赤地のボックスに白抜きの文字を入れるスタイルは、すぐに彼女の定番となった。1999年には、当時ロサンゼルス現代美術館のキュレーターを務めていたアン・ゴールドスタインが、クルーガーにとって初めての大きな展覧会の機会を与えてくれ、それがアート界内外で大きな評判を呼んだ。

グラフィック・デザイン畑出身の彼女が、アートを志したのは、ごく自然な転身だろうと思う人がいるかもしれない。だが、彼女の1980年の作品を見てみよう。数冊のファッション雑誌の隣に横たわった女性が、顔に紙製の仮面を掲げている様子が描かれ、そこには『Deluded(騙されて)』という文字が印刷されている。つまり、彼女の作品には、見た目にも主張的にもパンクな要素がたっぷり盛り込まれているのが明らかで、彼女が当時聴いていた音楽と同じように、権威主義に真っ向から反対し、自分をよく見せようという誇張がみじんもない。だから、彼女がトライベッカにある伝説的なナイトクラブの「マッド・クラブ」に出入りしていたと知ったとき、私は驚きはしなかった。

マッド・クラブは1970年代から1980年代初頭までニューヨークのカウンターカルチャーの拠点で、音楽演奏とパフォーマンスが行われていた(クルーガーはこの店から数ブロック離れたレナード通りにロフトを借りており、その後30年間ずっとそこに住んでいた)。彼女の親しい友人たちについては、クルーガーはあまり話したがらない。言及し忘れる人がいるかもしれないと心配しているからだ。そのかわり、彼女が断言するのは、同世代の仲間たちが女性の進出を阻む壁を破ろうとしてきたこと、そして少なくともニューヨークでは、女性が参入できない男性だけの世界は、なくなりつつあったということだ。「ほんの少数の女性たち、それも白人女性が、市場に入れるようになった。時代の転換期だった」と彼女は説明する。「別に作品が売れたわけではないけれど、とにかく参入できた。それは大きな転機だった」

画像: 《無題(ほかの男性の肌に触れることが許される複雑な風習を作り上げる)》(1980年)について、クルーガーはこう語ったことがある。「たとえばスポーツは、男性たちが、同性愛嫌悪の文化では禁じられている、お互いの身体的接触を可能にするひとつの方法だ」 BARBARA KRUGER, “UNTITLED(YOU CONSTRUCT INTRICATE RITUALS WHICH ALLOW YOU TO TOUCH THE SKIN OF OTHER MEN),” 1980, GELATIN SILVER PRINT, COURTESY OF THE ARTIST AND SPRÜTH MAGERS

《無題(ほかの男性の肌に触れることが許される複雑な風習を作り上げる)》(1980年)について、クルーガーはこう語ったことがある。「たとえばスポーツは、男性たちが、同性愛嫌悪の文化では禁じられている、お互いの身体的接触を可能にするひとつの方法だ」
BARBARA KRUGER, “UNTITLED(YOU CONSTRUCT INTRICATE RITUALS WHICH ALLOW YOU TO TOUCH THE SKIN OF OTHER MEN),” 1980, GELATIN SILVER PRINT, COURTESY OF THE ARTIST AND SPRÜTH MAGERS

 この記事を書くにあたり、私は、クルーガーの作品のほとんどが、共感力テストでもある、ということに気づいた。私の好きな作品のひとつは、1991年から、非営利団体のパブリック・アート・ファンドのために彼女が作った《無題(バス停のポスター)》だ。これは公共広告のパロディで、男女のジェンダーを逆にしている。ニューヨーク中のあちこちに飾られた3種類の一連のポスターは、それぞれ妊娠している男性を描いている。どれもモノクロ写真で、写っている男性たちは非常に深刻な顔をしている。3人は、学生、建設現場作業員、中流階級の父親という立場だ(4人目は若い頃のジョージ・H・W・ブッシュで、これはニューヨーク・タイムズ紙の論説ページに掲載された)。「HELP!」という大きな白い文字が赤地のボックスに書かれ、その下には各自の厳しい現状が短い告白の形で綴られている。大学進学や家のローンという現実に直面し、最後はみなこのひと言で締めくくっている。「どうしたらいい?」。これはいかにもクルーガーらしい作品で、人間の心の内奥にある、自分は他人より倫理的に優れているという欺瞞(ぎまん)をあぶり出すために、わかりやすい慣用句を使用している。私たちは、他人の状況や身体性、そして制約でがんじがらめになった現実をいったいどこまで深く想像することができるのだろうか?アートが私たちの暮らしに対する認識をより明確なものにするならば、クルーガーの作品は、その一歩先を行き、アートがどこまで私たちの暮らしを変えられるのかという命題をつきつける。

共感は世界を変えられる――クルーガーは、最初に1994年にフランスのストラスブールの鉄道の駅の壁画にそう描いた。それは切迫感に満ちた言葉だったが、壁画は無関心な数千人の通勤客が通りすぎる場所に吊り下げられて展示されていたため、月並みの教訓ではなく、挑発だと受け止められた。世の中で無視されている存在に対する理解。私はそれが彼女の創作の原動力ではないかと感じずにはいられない。それを彼女に伝えると、彼女は同意しつつも、すぐにこうつけ加えた。「私が子どもだった頃、自分は芸術の門外漢だと思っていた。でも、人種や肌の色、階級やジェンダーなどによって門外漢の度合いにもさまざまな違いがある」。そしてさらにこう説明した。「世の中に知られていないということは、創造するうえでも金銭面でも苦しい逆境だ。世間に認識されていないと、自分の存在が無であるように感じてしまう」

 この人間性ゆえに、ビジュアル・アートの世界の同時代人の中でも彼女は常に際立った存在になりえた。血の通った思いやりと、魔法のように言葉を操る術(すべ)をもつ彼女が作り出すアートは、時代を経ても廃れることがない。彼女が使った流用写真が私たちを誘惑するならば、私たちのみぞおちにパンチを食らわすのは、常に彼女の言葉だ。

クルーガーは1988年にビニールで作った作品《無題(誓い)》を新しくアニメーションで作り直した。最近、私はそれを観たのだが、アメリカ合衆国への忠誠の誓いに出てくるキーワードを、巧みに置き換えていて感動的だった。「自由と正義をすべての国民に/何人かの/ごく少数の/金持ち/貧乏人/与える人/受け取る人/すべて」。これを読むと、私の頭の中に存在する本棚にぎっしり並んでいる本の中で、クルーガーがなぜ、スーザン・ソンタグやジョーン・ディディオンなどの戦後の作家たちとそれほど離れていない棚にいるのかがわかった。彼女たちはみな、アメリカの自信を批判的に検証し直してきた。それはこの国が情緒に流されそうになるたびに、疑問を挟み、生産的な葛藤を引き起こす役割を果たしたのではないか。もしかしたら、私たちは、クルーガーが私たちに長年要求してきたことについに目を向け始めたのかもしれない。つまり、自分たちの私生活と、公の現実を動かす構造の間の関係をどう捉えるかということは、実は、世界と、自分たちが作り出したメディアの猛襲を私たちがどう見るかということと相関関係があるということに。

それはたとえば、滋養強壮効果のありそうなスムージーに10ドルを払っても、結局のところ、私たちの欠点が帳消しになるのではないと理解することだ。さらに家庭内暴力と警察による暴力は、同じコインの表と裏であり、女性の身体を監視することは、権威主義の一面であると理解することだ。私たちは写真や映像やそれが何を意味するかについて詳しくなってきたが、視覚表現というものは、郊外の裕福なエリアの海岸に置かれた南北戦争当時の南部の旗の柄のタオル(註:南軍の旗は人種差別のシンボルと捉えられることもある)や、マックスマーラの白いハンドバッグの中にしのばせた聖書のように、ぱっと見てわかりやすいものばかりとは限らない。

今、アメリカ中の大学で美術史の教科内容の修正が行われている。そんな中、重大な中毒を引き起こすオピオイド系の鎮痛薬と刑務所経営で巨万の富を得た人間たちが、世界の主要な美術館に多額の献金をし、大きな影響力をもっている。クルーガーの作品が大きな反響を呼ぶのは、一見、何の変哲もない光景に多くのことが隠されており、私たちはそれを毎日見ていても何も感じないほど麻痺しているからだ。たとえば、私たちが銅像を建てて讃えてきた人々の業績が、ある人々を虐げ支配したことでなりたっているような場合だ。私たちが注意を払っていないだけでなく、(自己演出に夢中になるあまり)注意を払ったとしても、私たちはまったく的外れなものに注目してしまうからだ。

クルーガーの最新の展覧会では、テキストが巨大なサイズで壁紙に印刷され、ギャラリーの床や天井や壁など全体を包み込み、彼女のメッセージの緊急さが観客に怒濤のように迫ってくる。まるで彼女があなたに目覚めよと叫んでいるようだ。2017年にベルリンのアートギャラリー、シュプルース・マーゲルスで開催された彼女の《無題(永遠)》の展示の際には、ジョージ・オーウェルの小説『1984』の一節(「もし未来の姿を見たいなら、ブーツが人間の顔を永遠に踏みつけているところを想像してみろ」)が床を埋め尽くした。同作品をアレンジした展示は、去年、ソウルのアモーレパシフィック美術館でも開催された。

来春、彼女は彼女の集大成の展覧会の開催と同時に、いくつかの「仲裁」を計画しており、その中のひとつは、シカゴのマーチャンダイズ・マートのビルの約1万m²の壁面に、ビデオで映し出される予定だ。「Whose hopes? Whose fears? Whose values? Whose justice?(誰の希望か? 誰の恐怖か? 誰の価値観か? 誰の正義か?)」という文字が壁面に浮かぶのだ。彼女が投げかける質問は、いつも、彼女が自分自身に問いかけているものだ。さらに、私たちにもっと注意深く生きろと呼びかけるものでもある。もっと複合的に考え、簡単に白黒つけるなと。それは最も非アメリカ的な考え方で、同時に今の私たちを定義するものでもある。バーバラ・クルーガーは常に正しかった。そして彼女はそれを喜んではいない。

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