バーバラ・クルーガーというアーティストは、短いフレーズを使い、ゾクゾクするほど面白く、未来を予言するような作品を作る。彼女の作品は、何を意味しているのか一一見わかりにくいが、そのメッセージは永遠に不滅だ。彼女の紡ぐ言葉は、政治スローガンと詩の間にある境界線を曖昧にし、アメリカの広告やメディアが使う言語をハイアートの地位まで押し上げた。彼女の作品は、インターネット・ミームに右往左往させられる私たちの真の姿を映す暗い鏡の役割を果たしている

BY MEGAN O’GRADY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 私たちが初めて話をした日の翌朝、私は彼女に68歳のライター、ジル・ネルソンが書いた記事のリンクを送った。彼女は板が張り巡らされた店の外壁にチョークで「トランプ=伝染病」と書いたことで逮捕され、留置場に5時間拘留された。だが、クルーガーは彼女の記事をもう読んでいた。「テレビに出ている人たちが『ショックを受けた、ショックを受けた』と言うたびに私は『あなたの想像力が足りないおかげで今日のような状況に至ったのだ』とつぶやいている。それは感染症拡大に限らず、すべてのことにおいてあてはまる。恐ろしい時代だと思う」。

彼女はトランプのことを「ニューヨークのデリのオーナーとスキンヘッドを足して2で割ったような存在」と表現する。彼女はトランプが支持者の心をつかむワザを絶妙に解き明かした。「彼の話し方とコメディアンのような独特のスタイル。彼は時々すごく面白いし、うまい。彼はどんな言葉をどれだけ使えば、どんな効果があるかを解析する方法を知っている」。さらに彼女は、民主党の失敗は、大部分において、説得する技術のなさだと指摘する。それはまさに真実だ。「胸が張り裂けそうだ。失うものが多すぎる」と彼女は言う。

 クルーガーの初期の作品の多くは、街中に貼るポスターだった。彼女は、リトルウエスト12番通りとガンズボート通りの間にある小さな印刷所で何百枚ものポスターを印刷し、それをニューヨーク市のあらゆるところに貼って回った。板張りされた窓や建設現場に何かを貼る行為は「スナイピング」と呼ばれ、インターネットがない時代に掲示板のような役割を果たしていた(のちに、彼女はプロの「スナイパー」たちを雇い、一夜にして街中にポスターを貼った)。彼女が貼るポスターはすべてすぐに消え去ってしまう運命だった。貼って数時間後には広告やコンサートの告知のチラシが、その上に貼りつけらてしまうからだ。無名だった頃の彼女が、市の都市交通局に電話をしてビルボードを使わせてほしいと言うと、何を売るのかと聞かれた。プランド・ペアレントフッド(全米家族計画連盟)に電話をし、《無題(あなたの身体は戦場だ)》のポスターを使ってくれないかと頼んだが、すでに広告会社と契約しているからと言われて断られた(それ以後、彼女は作品をプランド・ペアレントフッドに無償提供してきた)。

 最初は必要に迫られて選んだゲリラ的な手段だが、伝統的なアート展示以外で、彼女の作品をできるだけ多くの人々に届けるこの方法は、瞬く間に彼女の戦略となった。「私がこの仕事を最初に始めた頃は、ギャラリーに作品が飾られるような女性アーティストはあまりいなかった」と彼女は回想する。「私が展示会に出展し始めた頃は、今とは状況がまったく違った。『路上アーティストとして作品を作っているくせに、ギャラリーに展示してもらうために魂を売るつもりか?』と言う人たちもいた。そして、自分の前の世代の人たちが決して入り込めなかったギャラリー業界に、這いつくばるようにしてやっと入れてもらえるようになると、今度はいきなり『共犯者だ』という言葉で形容されるようになった。善か、さもなくば悪人として地獄に落とされる道しかない極端な価値観。あらゆる病理が蔓延する、まるで病理学の標本みたいな世界。わかる?」

 クルーガーには自動的に与えられるチャンスなどひとつもなかった。彼女は1945年に生まれ、ニューアークの労働者階級の両親のひとり娘として育ち、母は法律事務所の秘書で、父は化学技師だった。幼い頃から絵を描く才能があり、イラストレーターになろうかと考えたが、いざというときのためにタイピングを学んだ(当時タイピングを学ぶのは女性だけだった)。1964年にはシラキュース大学に入学して1年間在籍した。「まるで火星にいるような感じがした。自分が育った環境とはまったく違う世界でなじめなかった」。父が亡くなり、彼女は母と暮らすために実家に戻った。電話交換手として働き、パーソンズ美術大学に入学した。同校では写真家のダイアン・アーバスや、当時『ハーパース・バザー』誌のアートディレクターを務めていたマーヴィン・イスラエルに師事した。21歳のとき、彼女はコンデナスト社の女性向けファッション誌『マドモアゼル』のデザイナーになり、数年間同誌で働いたあと異動し、『ハウス&ガーデン』誌の写真エディターになった。

彼女はすぐに、2~3語のごく短い言葉で最大のインパクトを生む方法を学んだ。「自分はデザイナーにはなれないと気づいた」と彼女は言う。「自分以外の人間のビジョンを完璧に形にすることができなかった。でも、同時に、自分をアーティストと呼ぶことの意味もよくわかっていなかった」。彼女は写真に興味はあったが、被写体となる人間を客体化する行為が耐えられなかった(スーザン・ソンタグの批評集『写真論』の中でソンタグから、被写体を客体化していると名指しで非難されたダイアン・アーバスですら「写真を撮られると、確かにちょっと心が傷つく」と認めたのは有名な出来事だ)。マグダレーナ・アバカノヴィッチの織物でつくった壁掛け型の作品に刺激を受け、クルーガーはしばらくの間、伝統的な女性らしい手縫いの作品をアートに昇華させようと試みた。「布を織ったり、編み物をするのはすごく楽しい。でも、脳細胞が冬眠してしまう気がした」と彼女は言う。「そんなことをして過ごしていたから、コンデナストでデザイナーとして培った技術が、実は、私が世界とビジュアルを通して関わるのに適した方法だったのだと気づくまでに、かなり時間がかかってしまった」。商業イラストレーターとして世に出たアンディ・ウォーホルのように、クルーガーは商業主義の悪夢にまみれたポップカルチャーの中に太い金脈があることに気づいていた。雑誌を開けば、女性らしいステレオタイプを強調したキラキラしたイメージが記事や商品広告として掲載されており、こうあるべきだという価値観を読者に刷り込み、信じ込ませようとしていた。

画像: クルーガーの作品《無題(死体は消費者ではない)》。ニューヨーク・タイムズ紙の2020年4月30日の紙面に新型コロナウイルスの感染拡大を受けて掲載された BARBARA KRUGER, “UNTITLED(A CORPSE IS NOT A CUSTOMER),” 2020, FOR THE NEW YORK TIMES, COURTESY OF THE ARTIST

クルーガーの作品《無題(死体は消費者ではない)》。ニューヨーク・タイムズ紙の2020年4月30日の紙面に新型コロナウイルスの感染拡大を受けて掲載された
BARBARA KRUGER, “UNTITLED(A CORPSE IS NOT A CUSTOMER),” 2020, FOR THE NEW YORK TIMES, COURTESY OF THE ARTIST

 彼女は客員アーティストとしてカリフォルニア大学バークレー校に在籍中だった1976年に、批評理論に出会う。さらに同じ年、シャンタル・アケルマン監督の映画『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』が同校のパシフィック・フィルム・アーカイブで上映されていたのを観た。上映時間約3時間半におよぶこの映画は、アケルマンが25歳のときに撮った作品で、中流階級の中年未亡人が、彼女のアパートの中で毎日決まりきった主婦の日常を送りつつ、売春する生活をつぶさに描いている。フェミニストにとっての試金石であるこの作品は、本質的に、男性のまなざしに冷水を浴びせた。「『ジャンヌ・ディエルマン』は本当に重要な作品だ」とクルーガーは言う。「あれだけ長い上映時間。細部を積み重ねて描き、観る者を飽きさせない。すごいことだと思う」。

クルーガーは詩も書いており、ニューヨークのアーティスツ・スペースというギャラリーで朗読した。さらに、革命的なダンサーで振付師のイヴォンヌ・レイナーや、シンガーソングライターのパティ・スミスのパフォーマンスをセント・マークス・イン・ザ・バワリー教会で観た。クルーガーは、同時代に生きるアイコン的存在となる彼女たちが、自分の居場所を自力でつかみ取っていく姿を目撃していたのだ。クルーガーは、パティ・スミスの1975年のレコード『ホーセス』をバークレーの大学寮の窓ごしに聴いていたのを覚えている。1977年には美術批評家のダグラス・クリンプが『ピクチャーズ』と題した小規模だが、大きな影響力のある展覧会をアーティスツ・スペースで開催した。シェリー・レヴィーンやロバート・ロンゴなど、ビジュアル表現によって現状をよい方向に変えようという意思を持つアーティストたちの作品を展示し、標示や画像の中立性を強調した。その後、ピクチャーズ・ジェネレーションという名で呼ばれた同時代人たちの中には、シンディ・シャーマンやリチャード・プリンスなど現代の最も有名なアーティストの何人かも含まれていた。彼らは写真を引用したりアプロプリエーションすること(註:すでに流通している既存の写真などを、引用の範囲を超えて自分の作品に流用すること)で、オリジナリティの意味を厳しく問い直した。それはレコードを作るアーティストたちが、数年前に録音した音源の一部を使ってまったく違う曲を作るのと、そう変わらないかもしれない。

一枚の写真が、違う形で枠組みされ、トリミングされ、違う文脈を与えられて、まったく新しい意味をもつようになる。たとえば、レヴィーンはモノクロの美術写真を再利用し、《After Edward Weston(エドワー ド・ウェストンの後で)》(1979年)という作品を制作した。ウェストンが撮影した彼の息子の写真をそのまま複写したのだ。さらにプリンスの1980年代の作品《無題(カウボーイ)》シリーズは、タバコのマルボロの昔の広告をまったく違った目的で使った。これらの作品は、文化の記号を書き換え、さらに文化を再構築する力さえもつ。クルーガーの作品は、彼女の仲間たちの作品よりも直接的なメッセージを放っていたものの、問題意識の点では彼らと共通していた。

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