現在建造中の新国立競技場を手がけ、世界の注目を集める建築家、隈研吾。彼は建築の可能性を問い直す一方で、資源が減少する今「建築はどうあるべきか」を模索しつづけている

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY STEFAN RUIZ, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 建築家の主張を抑え、周囲の景観に溶け込む「消える建築」という独自の建築家を提唱する隈 研吾。10歳で建築家を志し、ポストモダン建築に没頭したコロンビア大学留学時代、右手首の大けが、そして高知県梼原町で花開いた独自の建築作品群――。50年に及ぶ建築家・隈 研吾のキャリアを振り返る、貴重なロングインタビューの完結編。


画像: 「GCプロソミュージアム・ リサーチセンター」の外観。隈の多くの作品と同様、 歯科の歴史を展示する という、比較的マイナーな 目的のためにつくられている

「GCプロソミュージアム・ リサーチセンター」の外観。隈の多くの作品と同様、 歯科の歴史を展示する という、比較的マイナーな 目的のためにつくられている

 あらゆる芸術の中で、経済の影響を最も受けやすいのはおそらく建築だろう。それが健全であるかどうかは、建築家のコントロールが遠く及ばない関係者たちにかかっている。すなわち、不動産投資家や建設会社、法人顧客たちだ。もちろん、中央銀行が設定する政策金利も大いに関係する。好景気と不況を繰り返す歴史のなか、好況期には空を貫くような高層ビルが現れ、ビルの完成を遅らせる工事の遅延は大目に見られる。建築の流行も、こうしたサイクルに左右されて高まったりしぼんだりする。

大戦後の数十年で、ル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエが提唱したモダニズム建築は、大都市のみならず小さな町にいたるまで世界中を席巻した。だが、1970年代に景気が後退し始めると、その時代への信頼は崩れ去った。あとからやってきたのが、装飾的で洗練されたポストモダン建築である。少なくとも初期の段階では、それはうやうやしく受け入れられた。

しかし2000年代に入るとポストモダニズムへの敬意は消え失せ、代わりにフランク・ゲーリーやザハ・ハディド、レム・コールハース、ノーマン・フォスターに代表されるような、ガラスやメタルといったなめらかで光沢のある素材を使ったネオモダニズム建築の時代が2008年の金融危機まで続いた。この世のものとは思えない高層のコンドミニアム・タワーが世界中の首都で次々と建設されたものの、世界同時不況のおかげで、建築家の知的傲慢さはまたしても明らかに打ち砕かれた。そしてここ8年ほどは、建築にとって空白の時代といえるだろう。「建築以降(after architecture)」とでも呼ぶべきか。今は、思慮に富んだ優れた建築家たちが、倫理観や様式における新たなスタイルを模索しつづけているというのが実情だ。

 隈もそのひとりだが、彼の独特の理論は海外の建築家たちの先を行っているように見える。そしてほかの建築家たちとは違い、隈はすでにその答えを見つけたようだ。日本のバブルの崩壊が1990年と早く、その衝撃が2008年の世界金融危機より厳しいものだったことも一因だろう。1980年代には誰もがそう予想していたのだが、日本が今後、世界第1位の経済大国になることはあり得ないだろう。実のところ、日本は財政的にも(そして重要なことに)メンタル的にも、決して完全に立ち直ったわけではない。人々はバブルの酔いから覚め、回復力を失った世界に開発や建設を際限なく押しつけることの代償に気づいた。そして、華々しい未来への展望を失ったこの世界にふさわしい建築を見つけることが必要となった。それはどの国にもまして日本にとって、少なくとも隈研吾にとっての喫緊の課題となったのである。

 

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