現在建造中の新国立競技場を手がけ、世界の注目を集める建築家、隈研吾。彼は建築の可能性を問い直す一方で、資源が減少する今「建築はどうあるべきか」を模索しつづけている

BY NIKIL SAVAL, PHOTOGRAPHS BY STEFAN RUIZ, TRANSLATED BY FUJIKO OKAMOTO

 梼原でプロジェクトに取り組んだ数年間、隈は時間を見つけては自身の活動を理論としてまとめる作業を進めていた。その論文からは、隈が同じアイデアや経験を繰り返し取り上げ、深く掘り下げていることがわかる。それは、彼が絶えず木に立ち戻り、まだほかに木にできることがないか追求する姿とも重なる。こうした思考を巡らせた結果、ひとつの建築ビジョンが構築された。隈はそれを「負ける建築「」小さな建築」、あるいは「反オブジェクト」など、さまざまな言い方で呼ぶ。この建築論の中で、彼は日本の伝統的な建築様式をリスペクトする現代建築家たちの作品を例に挙げ、日本の伝統建築のもつ価値への回帰を唱えている。それはまた、「建築を自然や風景に無理に押しつけるのをやめ、その代わりに地元の素材や技法を用いて周囲の環境と建築を調和させるべきだ」という、むしろシンプルともいえる提案だ。とはいえ隈は時折、これを西洋哲学への批判を織り込みつつ回りくどく説明しているのだが。

 モダニズム建築やポストモダニズム建築の伝統に関する隈の主張は、同時に、先輩や同世代の建築家たちの先頭に立って、建築の役割とは何かを問う議論でもある。それは、長年にわたって展開されている、芸術における「日本的なもの」とは何かについての議論とも関連する。世界のモダニズム建築の中でも最も古い建築物、特にコンクリートの建物のいくつかは日本に存在している。ル・コルビュジエやバウハウスの流れをくむモダニズムをこれほど全面的に、しかも熱心に受け入れたアジアの国はおそらく日本をおいてほかにないだろう。これには戦後の社会的背景という側面もある。木造建築だらけだった日本の都市は、第二次大戦中に米軍の爆撃で壊滅的な被害をこうむった。これを受けて、日本政府は東京のような大都市での木造建築を制限した。

戦後から1970年代にかけての飛躍的な経済成長により、日本は世界第2位の経済大国にのぼりつめた。モダニズム建築の乱立は、そうした日本の国家としての自信の表れにほかならない。しかし、日本の近代化運動の多くがそうであったように、これに対する不協和音はつねに鳴り響いていた──「こんな巨大なコンクリートの建物、これ見よがしの大都会は、日本がずっと育んできた素朴な木造建築の文化とは相いれないのではないか?」。ブルーノ・タウトやリチャード・ノイトラ、フランク・ロイド・ライトといったモダニズムの建築家たち自身が戦前の日本の伝統的な建築から大いに影響を受けていたという事実が、さらに問題を複雑にしていた。

こうした問題に取り組んだのは、隈が初めてではない。ル・コルビュジエの弟子である前川國男は、建物全体に木製パネルを使い、コンクリートで日本的なイメージを表現した。その10年後、磯崎新は『1960 Blue Sky of Surrender Day: Space of Darkness』と題したエッセイの中で、米軍の爆撃で壊滅的被害を受けた都市で瓦礫となった建物について触れ、「日本人としてのアイデンティティを表現する建物とはいかなるものか」を考察している。だが、こうした建築家たちの中で、全体のフォルムではなく、地元の素材にこだわり、それらを使って建築することに集中すべきだとする隈の結論は最も明確で具体的だ。

彼は建築物の形式ではなく、外観やそれが与える影響、雰囲気といった、建物自体によってじかに与えられる体験に注目する。そのために作品の写真写りが悪かったり、地味に見えたりするリスクは承知のうえだ。隈は日本的な様式や素材を重んじることで、自身の建築において伝統的な「日本らしさ」を示す。一方で、洗練されたデザインや、機能よりスタイルを重視するといった現代建築がもつこだわりには目もくれない。「小さな建築」は、隈研吾が目指す唯一の建築スタイルというわけではないが、そこには彼の建築へのアプローチが最も自然な形で表現されており、隈がその仕事の中でほかの建築家にどれほど多くの戦いを挑んでいるかという証しでもある。

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