有色人種への差別が合法だったジム・クロウ法施行時代には人種隔離政策が全米に波及し、アフリカン・アメリカンの人々はプールや海や娯楽の場から締め出されていた。そんな時代にロングアイランドのサグ・ハーバーという場所に、自分たちの海岸コミュニティをつくった先駆者の黒人家族たちがいる。今ここに住む大人の多くは、子ども時代をここで過ごしてきた。この地には100年にわたるアメリカの不屈の精神と特権と人種間の対立の歴史が詰まっている

BY SANDRA E. GARCIA, PHOTOGRAPHS BY JON HENRY, PRODUCED BY TOM DELAVAN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 アジュレストでは、黒人たちは土地を700ドルから1,000ドルで買うことができた(現在の価格に換算すると1万3,000ドルから1万8,500ドル程度だ)。1947年にゲール親子は、区画の第二弾としてさらに200戸用の宅地を確保し、最初に売り出した土地と同じ条件で売却した。姉妹は、ともに友人である弁護士のドロシー・スパルディングと土木技師のジェームズ・スミスと共同で契約書とコミュニティの規則を作成し、白人たちにこの区画の土地が買われないように注意した。すでに黒人家族たちが移住し始めた湿地であるこの土地は、白人たちにはそれほど価値のある宅地ではなかったわけだが。4人の共同経営者たちは、アジュレスト・シンジケートという金融会社を設立した。この会社を通して、姉妹は、ゲール親子と契約した10年期限の住宅ローンを返却できる分の利益を上乗せした金額で、残りの土地を売却した。ローンは1962年に完済した(テリーはその6年後に死去し、メレディスは1984年に南アジュレストで死去した。彼女が自分のために自ら設計して建てた家は現在、バージニア州立大学のキャンパスの中にある)。

 ほどなくして、姉妹がかつてともに通ったコロンビア大学教育学部の女子社交クラブの仲間で専門職についている中流の黒人たちが、サグ・ハーバーで夏を過ごすようになった。さらにテリーがフォート・グリーンのブルックリン工業高校で教師をしていた頃の知人たちや、彼女の前職や組合運動つながりの知人も、避暑で同地を訪れるようになった。アジュレストの宅地がほぼ売り切れると、1950年代には、サグ・ハーバー海浜開発会社という名のグループが、白人の地主たちと組んでさらに二つの黒人居住区画を建設した。それはサグ・ハーバー・ヒルズとニネヴァという名で、当時は比較的安かったサグ・ハーバー湾を囲む土地に、同じような大きさの戸建て用の区画を配分した宅地だった。

 誰に聞いてもこの区画には195戸の住宅があると言う。ほかのいくつかの区画や建物と合わせて「SANS」という頭文字で呼ばれるこれらの住宅群は、サグ・ハーバー村のハンプトン通りの北に位置する約62万㎡の土地に、1977年までに建設が完了した。今でも、ハンプトン通りをはさんで、ほとんどの住人が白人の地域と、昔からずっと黒人居住地だった地域に分かれている。黒人居住地の住宅のほとんどは、当時大流行していた建築スタイルを踏襲していた。伝統的なランチスタイルと呼ばれる平屋の家や、ソルトボックスやミッドセンチュリーモダンと呼ばれる木造の家などだ。住民が自分でデザインすることもよくあり、通りごとにさまざまな種類の家があった。また、同じ灰色の屋根葺き材や外壁材を使っている家が多く、潮風にさらされて次第に色褪せていく感じは共通だった。

画像: マイケル・ペインと妻スーザン・ヘンリケ・ペイン。村の東端にある湾を望む彼らの自宅で

マイケル・ペインと妻スーザン・ヘンリケ・ペイン。村の東端にある湾を望む彼らの自宅で

 通常の銀行ローンがほとんど組めない彼らは、家を購入するのに知恵を絞らなければならなかった。アジュレスト・シンジケートが銀行の役割を果たし、購入希望者が頭金を100ドル払えば、残りは分割で支払えるしくみだった。住宅を購入すると、切妻型の屋根や家を囲むポーチの材料をシアーズ・ローバック社のカタログで500ドル程度の価格で注文し、友人と協力して組み立てる人たちもいた。また、土地の購入後、資金を貯めてから家を建設する人や、ゆっくりしたペースで家を建てていく人もいた。弁護士で、元海軍士官のJ.ハワード・ペインJr.は、1954年にニネヴァの宅地を600ドルで購入した。頭金は200ドルだった。その後の数年間、彼は『ポピュラーメカニクス』誌に載っていた広告の設計図を元にして自宅を建てたのだと、彼の息子のマイケル・ペインは語る。マイケルは司法省の元弁護士で、現在75歳だ。彼は子ども時代にこの土地を訪れたとき、美しい湿地に面した土地を買えるのだと知った父の驚いた表情を今でもはっきり覚えている。ペイン一家はハーレムに家を借りていたが、J.ハワードの妻のナタリーは、夫が海軍時代に積み立てていた住宅用の貯金を家の購入資金に充てた。

画像: 夫妻の居間に飾られたフランク・ウィンバリーの作品 ON WALL: FRANK WIMBERLEY, “FLOTSAM,” 2003, ACRYLIC ON CANVAS, COURTESY OF BERRY CAMPBELL; FRANK WIMBERLEY, “CATCHER,” 1987, ACRYLIC ON CANVAS, COURTESY OF BERRY CAMPBELL

夫妻の居間に飾られたフランク・ウィンバリーの作品
ON WALL: FRANK WIMBERLEY, “FLOTSAM,” 2003, ACRYLIC ON CANVAS, COURTESY OF BERRY CAMPBELL; FRANK WIMBERLEY, “CATCHER,” 1987, ACRYLIC ON CANVAS, COURTESY OF BERRY CAMPBELL

「父は5,000ドルを出して家を建てたんだ」とマイケルは言う。現在、この家の所有者はマイケルで、彼はここで毎年夏を過ごしている。マイケルは、父とともに近所のサウスハンプトン材木会社に行き、父が、こぢんまりとした箱型の家を建てるのに必要な木材を買うため、分割払いの手続きをしていたのを見ていた。その家で、一家は1957年から夏を過ごすようになった。ペイン家や近所の住民のために、この材木店は「まるで銀行のような役割を果たしていたのだ」とマイケルは言う。

 彼らの宅地は低地にあり洪水に見舞われがちだったため、J.ハワードは通常の家の構造とは逆に、メインのリビングを上階につくり、家の近くを流れるリトル・ノースウェスト川の景色を眺めやすいようにした。マイケルの妻スーザン・ヘンリケ・ペインは、現在70歳だ。彼女は子ども時代に、サグ・ハーバーの別の黒人居住地のチャットフィールズ・ヒルにある家族の別荘で夏を過ごしていた。この区画は、アジュレストと同時期に開発されたが、ここでは過去20年ほど、多くの白人購入者たちが新しい家を次々に建てている。マイケルとスーザンは、2010年にマイケルの父の家を完全に解体し、土台と建物全体を数メートル高く設定して改築した。さらに床から天井までの高さがある窓を取り付け、シラサギやアオサギ、白鳥やキツネやアライグマが近くを通るのをはっきり観察できるようにした。約213㎡のその家は、現在は平らな屋根と大きなガラス窓があるモダニスト様式だが、夫妻は父たちの世代に敬意を払うべく、たとえば、古いキッチンのシンクを1階に降ろし、マイケルが釣ってきた魚の鱗うろこを剝がしたり、下ごしらえをするのに使っている。マイケルの父が窓にはめ込んだ泡ガラスは、今、屋外シャワーのある場所に使われており、海から帰ってきた客たちがそこで足を洗うことができるようにした。最初から「こんな家を建てるのだというビジョンを持ち、それを実現したかったんだ」とマイケルは言う。「毎年、子どもたちをサマーキャンプに行かせて散財するよりも、別荘づくりに投資すれば安全だし、同じような考えを持つ人たちとコミュニティがつくれるんだ」

T JAPAN LINE@友だち募集中!
おすすめ情報をお届け

友だち追加
 

LATEST

This article is a sponsored article by
''.