有色人種への差別が合法だったジム・クロウ法施行時代には人種隔離政策が全米に波及し、アフリカン・アメリカンの人々はプールや海や娯楽の場から締め出されていた。そんな時代にロングアイランドのサグ・ハーバーという場所に、自分たちの海岸コミュニティをつくった先駆者の黒人家族たちがいる。今ここに住む大人の多くは、子ども時代をここで過ごしてきた。この地には100年にわたるアメリカの不屈の精神と特権と人種間の対立の歴史が詰まっている

BY SANDRA E. GARCIA, PHOTOGRAPHS BY JON HENRY, PRODUCED BY TOM DELAVAN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 ブルックの父、E.T.ウィリアムズは今82歳で、彼がこの土地に初めて来たのは1940年代だった。彼は築200年近い家に住んでいる。この家は、奴隷解放後に自由の身となった黒人男性の間で受け継がれてきた。1869年に最初にこの家を買ったのがデイビッド・ハンプステッドで、次にウィリアム・トロットが1922年に買い、そしてウィリアムズ自身が1968年に買った。その後10年以内にウィリアムズ一家は近所のほかの7つの家を買い、一族の集落のような場所をつくりあげた。ブルックが現在所有する2階建ての約139㎡の大きな家には、当時の板葺きの屋根が残っている。かつてこの家には、彼女の祖父が、当時の所有者の客として訪れていた。そしてブルックの父の家は、その家のすぐそばにある。さらに、ブルックの51歳の妹のエデンは、かつて祖母が所有していた近くの別荘を譲り受けた。

画像: ブルックの父E.T.ウィリアムズ。ブルックの家の隣に住んでいる。部屋の壁は画家のクロード・ローレンスの作品であふれている ON WALL, FROM LEFT: CLAUDE LAWRENCE, “CITIZENRY,” 2015, ACRYLIC ON PAPER COPYRIGHT ELNORA INC.; CLAUDE LAWRENCE, “THE RITZ,” 2016, OIL ON CANVAS, COPYRIGHT ELNORA INC.

ブルックの父E.T.ウィリアムズ。ブルックの家の隣に住んでいる。部屋の壁は画家のクロード・ローレンスの作品であふれている
ON WALL, FROM LEFT: CLAUDE LAWRENCE, “CITIZENRY,” 2015, ACRYLIC ON PAPER COPYRIGHT ELNORA INC.; CLAUDE LAWRENCE, “THE RITZ,” 2016, OIL ON CANVAS, COPYRIGHT ELNORA INC.

 ブルックリン育ちのE.T.ウィリアムズは熱心な芸術品蒐集家で、いくつかの主要な美術館の役員も務めており、妻で80歳のオウルドリンとともに、サグ・ハーバーで一年の半分を過ごしている。彼らの家は約153㎡の2階建てのコテージで、外壁には細長い横板が打ちつけられている。室内の壁にはロメール・ベアデンやクロード・ローレンスなど著名な黒人象徴主義者の絵画が飾られている。
「あそこに行くと、夏を一緒に過ごすたくさんの友人たちに会える」とブルックは言う。「そんなときを過ごすことができて、私たちは幸運だ」

画像: E.T.ウィリアムズ所有の、19世紀に建てられたイーストヴィルの家に飾られている家族の写真と、クロード・ローレンス、ソーントン・ダイアルが描いた作品 THORNTON DIAL, WATERCOLOR AND INK ON PAPER; CLAUDE LAWRENCE, “SATURDAY SUBDUED,” 2014, ACRYLIC ON CANVAS, COPYRIGHT ELNORA INC.; CLAUDE LAWRENCE, “IT’S OVER AND YET,” 2014, ACRYLIC ON CANVAS, COPYRIGHT ELNORA INC.

E.T.ウィリアムズ所有の、19世紀に建てられたイーストヴィルの家に飾られている家族の写真と、クロード・ローレンス、ソーントン・ダイアルが描いた作品
THORNTON DIAL, WATERCOLOR AND INK ON PAPER; CLAUDE LAWRENCE, “SATURDAY SUBDUED,” 2014, ACRYLIC ON CANVAS, COPYRIGHT ELNORA INC.; CLAUDE LAWRENCE, “IT’S OVER AND YET,” 2014, ACRYLIC ON CANVAS, COPYRIGHT ELNORA INC.

 これらの家族たちが、初めてサグ・ハーバーに移り住み始めた頃は、この国の多くの場所ではまだ、水飲み場は白人用と黒人用に分かれていた。全米中で暗黙の了解である不文律や、亡霊のようなルールが残っており、黒人たちは生き延びるために必死の努力をしなければならなかった。SANSの子どもたちが森の中を走り回って遊び、ネイティブ・アメリカンがつくった道を発見しているとき、この国のほかの黒人の子どもたちは、肌の色で差別されずに存在することができる場所を必死になって探していた。そして、ジム・クロウ法時代には、人々が余暇を過ごす場所では、とりわけ過酷な人種隔離政策がとられ、人種間の緊張が高かった。そう主張するのは『The Land Was Ours(この土地は我々のものだった)』(2012年)という本の著者でバージニア大学の教授のアンドリュー・カールだ。彼はこの本の中で、海岸の黒人コミュニティがいかに白人たちによって抑圧されてきたか、そして黒人たちは、自らの富を築く道をどうやって模索してきたかを描いている。

 サグ・ハーバーのような土地は、人種差別が蔓延する社会の中で、日常茶飯事だった侮辱的な扱いから逃げ出すことを切望していた黒人たちに、安全地帯を提供していた。この場所は、生き残ることが最優先で、楽しむことなど後回しだった時代に、黒人同士で集まり、娯楽とコミュニティを見つけることを可能にしていたのだ。海岸でのコミュニティ以外には、全国的な組織である「コモス社交クラブ」や「ガーズメン」などに加入するのもひとつの手だった。子ども向けには「アメリカのジャックとジル」という組織があり、全米の裕福な黒人家族たちが、冬の週末、スキーイベントやパナマへのグループ旅行などを通してお互いを知ることができた。だが、サグ・ハーバーの家族たちはほかの地域の黒人家族たちとは違い、ある体験を共有しただけではなく、ずっと親密なつき合いを続けてきた。それは彼らが――E.T.ウィリアムズいわく、もし「特権が与えられているなら」――生き方そのものを共有してきたからだ。「サグ・ハーバーのような土地は、黒人コミュニティを維持し、社交や娯楽の場所を提供するのに重要な役割を果たしてきた」とカールはつけ加える。「そのことは、アフリカン・アメリカンの人々が人種差別にどう対抗してきたかということだけでなく、人種によって隔離された社会の規制をいかに乗り越えてきたかという意味でも大事な点だ」

画像: 1840年にアフリカン・アメリカンの人々とネイティブ・アメリカンの人々が設立したセント・デイビッドA.M.E.シオン教会の祭壇

1840年にアフリカン・アメリカンの人々とネイティブ・アメリカンの人々が設立したセント・デイビッドA.M.E.シオン教会の祭壇

 当時の学校と同じように、国内のプールや海岸も人種ごとに分かれていた。夏の間、米国赤十字社がサグ・ハーバーの黒人の子どもたちに泳ぎ方を教えているとき、全米の黒人家族たちは、海岸線を独占している白人たちから危害を加えられないように海や水辺の近くには行かないようにしていた。実際、白人が抱いている人種差別的な考えや偏見は、娯楽の場では何倍にも酷く露呈した。子どもたちもその被害を免れることはできなかった。そして人々が娯楽や安息を楽しめる場所では、今も昔も、多くの警官たちが警備をしているのだ。郡や街の多くは、当時、海岸や公営プールを白人のみの利用とするという条例をわざわざつくることはしなかったが、もしそこに黒人たちが足を踏み入れれば、必ず暴力を振るわれるというのが、暗黙の了解だった。当時、サグ・ハーバーでは夏の間、子どもたちはプライベートビーチで寝そべったり、唯一の公営海岸だったヘイブンズ・ビーチで集まることができた。

 だが、SANSの子どもたちも、街の白人住民の多い地域に行けば、人種差別の被害を避けることはできなかった。「僕たちはひとりでは外出しなかった」とアロイシウス・クイジェットは語る。「僕たちはいつも集団で行動していたんだ」。マイケル・ペインは13歳の頃、父と一緒に散髪に村に出かけたときのことを覚えている。ペイン家の男性たちは肌の色が薄いため、よく白人と間違えられた。マイケルいわく、それは先祖に何人か白人がいたからだと言う。理髪店に着くと、ペイン父子とひとりの白人客はどちらも予約が必要だと伝えられた。白人客が立ち去ろうとすると、店主は彼にその場で順番を待つように伝えた。だがペイン父子が同じようにしようとすると、店主は警察を呼んだ。今の時代、人種差別が蔓延していないとは言いがたいが、現在は、もちろんそんなことが起きないように法が定められている。だが、マイケルはあのときの体験を決して忘れることはない。W.E.B.デュボイスがエッセイ集『黒人のたましい』(1903年)の中で「二重の意識」と表現して話題を呼んだ、黒人たちの内面の葛藤に、マイケルは若くしてぶちあたったのだ。

 現在、この区画のほとんどの住人たちは、彼らが10代だった頃に感じていた抑圧を感じることはなく、それは彼らの子どもたちにしても同じだ。ビバリー・グランジャーは私に、メイン通りにいても、自宅のプライベートビーチにいるのと同じように心地よく感じると言った。この春、サグ・ハーバーの村では最大のブラック・ライブズ・マターのイベントがあり、平和的なデモ行進が行われた。最新の国勢調査によれば、村の人口2,200人のうち、91%以上の住人が白人だ。この村は時代とともに変容し続け、海岸線を共有するハンプトンズのような高級リゾート地に変わりつつある。そして、この村とは切っても切れない縁をもつ黒人住民たちは、もう昔のように脅されることはない。「私は差別されてきたマイノリティの一員だ」とマイケルは言う。「だが、ただじっと座って『侮辱された。この国から酷い扱いを受けてきた』とつぶやくつもりは毛頭ない」

 最近は、ハンプトンズの開発業者たちがサグ・ハーバーの区画を複数まとめて買い、大邸宅を建設しようとしており、住民は次第に危機にさらされるようになっている。SANS居住地には、創設者の何家族かはまだ住んでいるが、すでに黒人住民だけの区画ではなくなってしまっている。

 昨年、SANSは国と州から、地域を象徴するランドマークとして認定された。それは名誉なことだが法的効力は特にない。この土地の長年の住民の中には、サグ・ハーバーが国家的歴史遺産として認められてほしいと願っている人々がいる。そうすれば、この土地の特徴や文化が保存され、開発に規制がかかるからだ。だが、この件については、黒人居住者たちの間でも長年、意見が対立している。ランドマーク扱いを歓迎する人々と、将来、自宅を改装することができなくなってしまうのでは、と恐れる人々の間で亀裂ができているのだ。「私たちはみな、保存するために何らかの手を打つべきなのかどうかを話し合っているところだ」とサグ・ハーバー市長のキャスリーン・ムルカヒーは言う。

画像: プライベートビーチで寛ぐウィリアム・ピッケンズ3世と息子のジョン

プライベートビーチで寛ぐウィリアム・ピッケンズ3世と息子のジョン

 小さな平地の宅地に19世紀の骨組みの構造の家が建っている、白人たちが多く住む区画とは違い、ほとんどの黒人区画の住宅地では、各家の建築様式がバラバラだ。よって、地元の政治家たちはこの区画の将来を決定づけることを躊躇(ちゅうちょ)しているのだ。「私たちには法律的な権限が何もない」と言う71歳のレネー・V.H.サイモンズは、サグ・ハーバー・ヒルズに家を所有し、国と州のランドマーク認定を得るための資金を募るプロジェクトを率いてきたひとりだ。「私たちの区画のコンセプトをいかに定義し、それを守っていくか、その方法を見つけなくては」

 今のところ、この区画の伝統は、最低限は守られている状態だ。7月の蒸し暑い月曜日、グランジャーのプライベートビーチの先では、母親が椅子に座り、二人の子どもたちが水辺の近くで遊んでいる。子どもたちは日よけ用の帽子を被り、水中で光っている小魚を追いかけている。丘の上では隣の家に住む家族が裏庭のピクニックテーブルで朝食を食べており、コーヒーを飲みながら笑っている。グランジャーと彼女の夫は家の中で音楽を聴いている。とりわけ危険なこの夏、朝のやさしい光の中で心配ごとから解放されて、穏やかな田園風景を今のところは味わうことができる。海水浴にやってくる人々が心に描いていた、そんな光景がここにはある。

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