有色人種への差別が合法だったジム・クロウ法施行時代には人種隔離政策が全米に波及し、アフリカン・アメリカンの人々はプールや海や娯楽の場から締め出されていた。そんな時代にロングアイランドのサグ・ハーバーという場所に、自分たちの海岸コミュニティをつくった先駆者の黒人家族たちがいる。今ここに住む大人の多くは、子ども時代をここで過ごしてきた。この地には100年にわたるアメリカの不屈の精神と特権と人種間の対立の歴史が詰まっている

BY SANDRA E. GARCIA, PHOTOGRAPHS BY JON HENRY, PRODUCED BY TOM DELAVAN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 1930年代後半のある夏、マウデ・テリーは、避暑中に魚釣りに行こうと思い立った。ロングアイランド東部のガーディナーズ湾に向かう途中で、彼女は、海岸に面した木々に覆われている湿地帯に、未開発の人目につかない土地が残されているのに気づいた。長い年月を経た背の高いナラやクルミの樹木に囲まれた空間に立つと、瞬く間に静寂に満ちた雰囲気に包まれた。彼女の足もとの砂には緑の茂みや雑草が生えており、潮風の中で、彼女の肌はじっとりと汗ばんだ。そこはまるで天国のような場所だった。

 当時、ブルックリン在住の教師だったテリーは、ともにハーレム病院勤務の医師だった夫のフレデリック・リチャーズと娘のアイリスと一緒に、ほとんどの夏を過ごしていた。さらに彼女の妹のアマザ・リー・メレディスは、バージニア州エトリックにあるバージニア州立大学芸術学部の学部長で(米国初の黒人女性建築家のひとりでもあった)、時折、この一家と避暑をともにしていた。姉妹はバージニア州のリンチバーグで育ち、人生のほとんどを東海岸の北部や南部で過ごしてきた。夏が来ると、テリーは大抵いつもサグ・ハーバー郊外のイーストヴィルにある別荘を借りた。サグ・ハーバーは海岸沿いの村だ。同地は、主に裕福な白人が住むサウスハンプトンとイーストハンプトンの真ん中の位置にあったが、クイーンズ地区の東端から160㎞以上の長さにわたって大西洋に伸びているロングアイランドのほかの有名な避暑地と比べると、静かでこぢんまりした場所でありつづけた。

画像: アーティストのフランク・ウィンバリーと彼の妻ジュアニタ。サグ・ハーバー・ヒルズにある1960年代中期のフランク・ロイド・ライトの作風からアイデアを得てデザインされた自宅で

アーティストのフランク・ウィンバリーと彼の妻ジュアニタ。サグ・ハーバー・ヒルズにある1960年代中期のフランク・ロイド・ライトの作風からアイデアを得てデザインされた自宅で

 約5㎢の面積しかないサグ・ハーバーだが、かつて捕鯨漁師や船長や乗組員が多く移り住んだことで、1700年代後半までにはすでに活気のある港町として栄えていた。だが、イーストヴィルは1900年代中頃まで地域一帯の中でも異質な街として存在し、この数ブロックの地区だけは、例外的に人種の多様性にあふれていたのだった。この土地ではネイティブ・アメリカンや奴隷制から解放された黒人たち、さらにフランスからの移民や、アフリカのポルトガル領アゾレス諸島、旧ポルトガル領のカーボベルデからの移民を受け入れていた。ここは、黒人やネイティブ・アメリカンがひどい人種差別を日常的に味わわずに共存できる、ごく限られた場所のひとつだった。実際、イーストヴィルはかつて奴隷だった黒人男性たちを積極的に受け入れ、彼らの多くは、海沿いの街で捕鯨や漁業や造船の仕事に従事していた。また、女性たちは夫たちが年単位で漁に出ている間に、お針子や洗濯人やパン焼き職人として働いて金を稼いだ。ここでは、妻たちが土地の権利を所有するのが普通だったため、もし船が座礁して夫が戻ってこなくても、家と家族を失わずに暮らしていくことが可能だった。土地を手に入れることで、彼女たちはかつてないほどの大きな自由を手にしていたのだ。

 奴隷制が廃止されたあとも長い間、米国の黒人のほとんどは土地を所有することができなかった。彼らが銀行にローンを申請すると、差別され、通らなかったのだ。同じ地域に黒人が住んでいるというだけで不動産価値が下落すると考えられていたため、多くの白人たちは黒人の家の近くには住もうとしなかった。だが、イーストヴィルでは事情が違った。1840年、サグ・ハーバーのキリスト教会が人種隔離政策を行っていたことに対抗し、黒人たちはセント・デイビッドA.M.E.シオンという名の自分たちの教会を建設した。この教会は、奴隷制時代に「アンダーグラウンド鉄道(Underground Railroad)」と呼ばれていた、黒人たちを奴隷制が廃止されていた北部の州や国外に逃がすための支援組織の拠点のひとつだったと信じられている。

ニューヨークのサグ・ハーバーがどのようにしてアフリカ系アメリカ人の家族たちの隠れ家のような場所になったのか―― 生涯の夏の大半をここで過ごした住民の証言とともにまとめたヒストリー動画
FILMED BY JOSHUA KISSI

 テリーとメレディスが、数十人の黒人家族たちと一緒に最初にイーストヴィルを訪れて避暑用に別荘や小屋を借りたのは、1930年代だった。やがて、ふたりはこの土地に自宅を購入したいと思うようになった。最初に訪れて魚釣りを楽しんだあと、テリーは妹とともに、自分が見つけた約8万㎡の面積の土地を買うべきだと思った。

 ほどなくして彼女たちは、その土地の所有者が、ハンティントンの近くに住む白人の母子のエルジー・ゲールとダニエルだと知る。この親子はこの土地を売りたいと思っていたが、過去に干拓された湿地帯だったため野菜を育てるのに適しておらず、なかなか買い手がつかなかったのだ。だが、テリーはほかのどの買い手候補よりもこの土地の可能性を見いだしていた。彼女は、この土地は、黒人家族たちが休息し、成長し、家庭を築き、社会から構造的な抑圧を押しつけられずに、純粋にただ存在することができる場所だ、という未来図を描いていた。

画像: アーティストのマイケルA.バトラー。イーストヴィルのコミュニティに関連する本や歴史的な書類に囲まれて

アーティストのマイケルA.バトラー。イーストヴィルのコミュニティに関連する本や歴史的な書類に囲まれて

 1939年、テリーが52歳、メレディスが44歳のとき、ふたりはゲール親子と不動産購買契約を結んだ。それは親子が区画案を出した一戸当たり約15m×30m~38mの大きさの70戸分の土地の購入者たちを、彼女たちが責任を持って見つけるというものだ。姉妹は、主にブルックリンに住む黒人家族たちに声をかけてこの土地に移住するように勧めた。そうすることで、彼女たちはサグ・ハーバーに最古の黒人居住区画をつくっただけでなく、全米の中でも最も長期にわたって栄えている海岸の黒人コミュニティのひとつをつくり上げたのだった。そのほかの海辺の黒人コミュニティは、奴隷解放を唱えたフレデリック・ダグラスの息子、チャールズ・レイモンド・ダグラスが1893年に創設したメリーランド州のハイランド・ビーチや、マサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニヤードにあるオーク・ブラフなどだ。オーク・ブラフでは20世紀の初頭から、著名人たち――オバマ前大統領も含む――が、休暇を過ごすようになった。姉妹のビジョンを体現するように、ふたりはこの新しいコミュニティを「アジュレスト」と名付けた。メレディスはテリーの葬儀で読んだ追悼スピーチにこのコミュニティを「天国のような平安、青き安息、青き安全地帯」と書いた。

 

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