ヒップホップのカルチャーがニューヨークじゅうに広がりはじめると、それに伴い街はあらゆる意味で変容していった

BY NELSON GEORGE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 ハーレムやブロンクスで生まれたそうした新しい言葉がより広い文化圏へ出ていく現象は、アップタウンからダウンタウンへと向かう言葉の旅でもあった。その道筋は、イースト・ビレッジやそのほかの地域のナイトスポットでの、人種の壁を越えた出会いによって刻まれてきた。1981年、ルザ・ブルーとマイケル・ホルマンというふたりの若いマネジャーが、アフリカ・バンバータ(訳注:ヒップホップを初めて定義づけたDJ兼ミュージシャン)と、「ロック・ステディ・クルー」などのブレイクダンサーたちをセカンド・アベニュー181番地にあった地下レゲエ・クラブの「ネグリル」に連れて行った。

毎週木曜の夜に開かれるパーティに参加するためだ。ブロンクス育ちのシャロックは著書『LuminaryIcon』の中で、「まったく新しいタイプの観衆に向かって」ダウンタウンで演奏した経験をこう綴っている。「パンクロッカーたちはパーティのやり方を心得ている。彼らはケンカをするためにやってくるわけでも、壁際で遠巻きに見るために来ているわけでもない。だから、彼らが楽しい時間のお礼の表現としてダンスフロアの空中を激しく飛び回っているとしたら、それは彼らがパーティを満喫しているということなのだ」

画像: 1982年頃のナイトクラブ「ロキシー」での光景。グラフィティ・アーティストのフーチュラ2000(手前)がペイントをするかたわら、マイクを持ったファブ・ファイブ・フレディ(左)とフェイズ・ツーがブレイクダンサーたちを応援している THE ESTATE OF WAYNE SORCE AND JOSEPH BELLOWS GALLERY

1982年頃のナイトクラブ「ロキシー」での光景。グラフィティ・アーティストのフーチュラ2000(手前)がペイントをするかたわら、マイクを持ったファブ・ファイブ・フレディ(左)とフェイズ・ツーがブレイクダンサーたちを応援している
THE ESTATE OF WAYNE SORCE AND JOSEPH BELLOWS GALLERY

 数カ月後、消防署の命令で「ネグリル」のパーティは禁止された。その後、1982年6月にルザ・ブルーはウェスト18丁目515番地にあった「ロキシー・ローラーリンク」にパーティの場所を移した。ここでのパーティは長年にわたって隆盛を極め、ヒップホップ・アーティストたちと、ますます増えていくファンのコミュニティの橋渡しをする役目を果たした。グラフィティを題材にしたドキュメンタリー映画『Style Wars』(’83年)をもとに製作された商業映画の『BEAT STREET』(’84年)の最終シーンは、ロキシーで1983年に撮影されたものだ。この映画は西ドイツで大ヒットし、DJがレコードをスクラッチし、ブレークダンスあり、ラップありという初期のヒップホップ・カルチャーを世界に紹介する役割を果たした。この映画に出てくる有名なセリフ、「俺がお前の両脚(レッグス)を折る前に卵(エッグス)を食っちまえ」といったようなラップのフレーズを、ふだんの会話でさらりと使うのがヒップホップの神髄だということを人々に知らしめたのだ。

 ヒップホップがより多くの(そして白人たちの)観衆に受け入れられるようになると、ヒップホップの運命はさまざまな意味で決定づけられていった。1981年までに数多くの新しいコード・レーベルが市場に参入したが、そのすべては白人オーナーが所有するものだった。ヒップホップというジャンルを初期から開拓してきた独立系の黒人オーナーのレーベルは、次第に陰に追いやられていく。

画像: ワシントン・スクエア・パークのブレイクダンサーたち。1984年頃 PHOTOFEST

ワシントン・スクエア・パークのブレイクダンサーたち。1984年頃
PHOTOFEST

 さらに音楽に登場する言葉そのものも、二度と再び元に戻れないほど変化してしまった。1980年にトップ40にランクインして人々を驚かせた「シュガーヒル・ギャング」の『ラッパーズ・ディライト(ラッパーの喜び)』は、ヒップホップという言葉を初めて世間に紹介した曲だ。そして、この曲の最初のフレーズに出てくる「止まることはない」という言葉は、ヒップホップの哲学であり、そこから発するすべてにかかわる思想でもある。その1年後に「ブロンディ」の『ラプチャー』がシングルチャートの1位に輝くと、この曲のプロモーションビデオはヒップホップ・カルチャーについて言及した最初の映像となった。その映像は1981年8月に開設されたばかりの新しいケーブルTV局、MTVで何度も繰り返し放送された。つまり、デボラ・ハリーが「ヒップホップするってことは、止まらないってこと」だと語ったとき、ニューウェーブのディーバ(歌姫)と呼ばれていた彼女は未来を予言していたわけだ。

「ファンキー・フォー・プラス・ワン」は音楽業界の表舞台にカムバックすることはなかった。だが、アップタウンからダウンタウンへのヒップホップの旅路は、ヒップホップがポップカルチャーの覇権を握るためにたどるべき長い道のりの、最初の一歩だったのだ。

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