ブロードウェイから前衛派まで、80年代初期のニューヨークの演劇界は黄金期だった。現在活躍中の演技派俳優たちがキャリアをスタートし、演技法も刷新された。この時代を通して大成した実力者たちを、劇作家のジョン・ロビン・ベイツが紹介する

BY JON ROBIN BAITZ, PORTRAIT BY NEAL SLAVIN,PRODUCED BY MINJU PAK AND KURT SOLLER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO

画像1: 80年代初期、
黄金期のステージに育った
金の卵たち

 80年代の初めにニューヨークに越してきて、ブロードウェイで最初に観た演劇は、劇作家デイビッド・レイブの『ハーリーバーリー』だった。僕は頭をガツンと殴られたような衝撃を感じた。当時、映画監督で画家のジュリアン・シュナーベルは皿の破片を貼った斬新な絵を描いていたが、この作品はそれと同じくらい強烈な新風を演劇界にもたらした。舞台でウィリアム・ハート、ロン・シルヴァー、ハーヴェイ・カイテルらが演じていたのは、過剰な性欲の、今でいう“有害な男らしさ(男らしさを追求しすぎて生じる攻撃的な性質)”にさいなまれた男性の典型だ。彼らを惑わせる女性に扮したのは、シンシア・ニクソンにシガニー・ウィーバー、ジュディス・アイヴィ。今や大スターの彼らだが、当時はまだ分子のような存在でしかなかった。彼らの表現に方向性を与え、全体の調和を図る指揮役を担ったのはマイク・ニコルズ監督である。ちなみに18歳の少女でしかなかったシンシア・ニクソンは、このとき2本の舞台に同時に出演していた。この途方もなくグロテスクなアメリカ舞台劇のかたわら、劇作家トム・ストッパードの『リアル・シング』という知性派のイギリス舞台劇にも出ていたのだ。そのために彼女は数ブロックの距離を隔てたふたつのシアターを何度も往復しなければならなかった。『リアル・シング』のほうでニクソンが扮したのは、ジェレミー・アイアンズとグレン・クローズに向かって、年の割にませた忠告をする娘役。『リアル・シング』を指揮したのも、マイク・ニコルズ監督だった。

 シンシア・ニクソンというひとりの女優がふたつの異なる劇を結びつけていたこと、また当時のニューヨークの演劇界については面白い論文が書けるかもしれない。あのときのニクソンはジェスチャーに頼らずに、内面の動きを鮮やかに表現していた。当時の役者は誰でも、ニューヨークのネイバーフッド・プレイハウスのマイナーズ・メソッドに影響されたナチュラリズムの演技法(※感情を役に近づけ、役になりきる演技法)と、イギリスの演技教育の洗練された明晰な演技法(※非常にロジカルで、客観的なアプローチとテクニックに拠る演技法)を知っていた。だが、彼らは70年代に育った人間だ。ニクソン大統領とベトナム戦争の時代のあとで、誰が権力にかかわるものを信じられるというのだろう。アメリカはもちろん、演劇についても、何もかも。だからこそ、80年代に過去の演技メソッドは一新され、ポスト・フロイト的な、観客をその場に引き込むような演技へと変容していった。画家のエリック・フィッシュルが当時描いていた作品のように。

どの分野であれ、当時のニューヨークでアーティストであることはつまり、疫病の蔓延におびえながら生きるようなもので、周囲で起きる出来事を作品の中に綴るのが彼らの日常だった。イーストヴィレッジのピラミッドクラブで催された、ジョン・ケリーがやつれたモナリザに扮した前衛的パフォーマンスから、ジーン・バリー主演の『ラ・カージュ・オ・フォール』のような華麗なミュージカルまで、当時のあらゆる演劇には、かすかに死の匂いが漂っていた。この世代のアーティストの作品の根底には死の概念が横たわっていたのだ。

 ディスコブームは下火になり、伝説的な“スタジオ54”もすっかりさびれていた。だが映画界では、80年代に入って初めての名作と呼べる『アメリカン・ジゴロ』(’80)が公開された。監督はポール・シュレイダー、主演は若手俳優だったリチャード・ギア。ギアはこの映画の前に、ブロードウェイで1979年に公演された、マーティン・シャーマン原作の戯曲『ベント』にも出演している。ナチスに迫害された同性愛者の悲劇を演じきったギアは、すでに成熟した演技力を備えていた。

『アメリカン・ジゴロ』以降、ニューヨークの演劇界では、レパートリーシアター(複数の演目を、毎日または数日おきに替えて上演する劇場)から映画界へ、俳優の“貸し出し”が行われるようになった。キャシー・ベイツ、ラターニャ・リチャードソン・ジャクソンとその夫のサミュエル・L・ジャクソン、アマンダ・プラマー、サラ・ジェシカ・パーカーがその一例だ。舞台を経験した彼らは、テクノロジー主導の映画撮影で、単に“コマ”として扱われないためにはどうすべきかを心得ていた。カメラを自分に向けさせ、レンズ越しにそのムードや、スリのように鋭い眼光をとらえさせることができたのだ。

そんな演技を誰より鮮やかにやってのけたのが、名優ウィレム・デフォーである。彼はダウンタウンにある劇団ウースターグループで、つねにひっそりと時間をかけて丹念に演技の練習をしていた。来る日も来る日も脱出の練習に明け暮れていた伝説の奇術師ハリー・フーディーニのように。デフォーは2012年のインタビューでこう語っている。「何かを少しだけ恐れているときにこそ、最高のものが生み出せるんだ」。その理由がわかるような気がする。そう、あの時代には、恐れるべきことがたくさんあったのだ。

 時は変わり2014年。僕はレストランで、すっかり痩せ細った晩年のマイク・ニコルズと昼食をとっていた。どこか物悲しいランチだったが、俳優や彼らの演技の話をしてどうにか気分を盛り上げた。僕もニコルズも何度か仕事をしたことがあり、ともに大絶賛している俳優のネイサン・レインについて話をしたあと、ふと僕はため息をついて彼に尋ねた。「あなたは何よりも彼らのことをいちばん愛しているんでしょうね」。ニコルズはあの澄んだ快活な瞳を潤ませて、僕を見つめてつぶやいた。「君にはわからないだろうが、私に残されているのは、彼らのことぐらいなんだよ」

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