BY YOSHIO SUZUKI
それは、オノ・ヨーコ本人からの国際電話での依頼だった。ジョン・レノンが5年間の沈黙を破り新アルバムを制作中で、そのジャケット写真を篠山紀信に撮ってもらいたい、と。結果的に遺作になってしまったが、ジョンとヨーコの曲がほぼ交互に入る合作『ダブル・ファンタジー』である。ジャケットはキスをするジョンとヨーコ。
急な依頼を受けた篠山は、その直前にアメリカ西海岸での取材があったので、ロサンゼルスからニューヨークへと向かった。「以前にも、1974年にセントラルパークで彼女を撮ったんです。その写真を気に入ってくれていて、今度はふたりを撮影してほしいと思ったんでしょう。僕はジョンとはそのときが初対面でした」
1980年9月15日早朝、単身ニューヨークに着き、ホテルにチェックインをすませた篠山は、午後にはふたりがレコーディング中のスタジオに向かった。ジョンが「僕の人生は君の手の中にあるのさ」と歌う曲、『Woman』のレコーディング中だった。
「ショーン(息子)がスタジオに来ていて、“ショーンの歌ができたから聴かせよう”って『Beautiful Boy』をかけたりもしました。夕方近くにヨーコが急にジャケット用の写真を撮ろうと言って、セントラルパークに向かいました。スタッフもいない。3人だけ。池の近くのベンチに座ったふたり。『キスをしてみましょう』と提案しました。一番ハッピーだった瞬間でしょう。ヨーコには威厳と気品があり、ジョンは温和な人柄。そういうものはちゃんと写ります」
そのあと3人で会食。仕事の電話に追われ、ヨーコはしばしば席をはずすため、篠山はジョンとふたりきりになる。話していて同い年の40歳だと気づいて、ジョンがこんなことを話してくれた。
「僕も40歳になった。人生も半分をすぎたから、ヨーコと一緒に新しいアルバムを作ることにしたんだ」
その84日後、ジョンは自宅玄関先で凶弾に斃(たお)れた。生きていれば今年の10月9日に80歳の誕生日を迎えるはずだった。
横尾忠則とオノ・ヨーコ、ジョン・レノンとの出会いは1971年、ニューヨークでだった。
「1969年、パリ青年ビエンナーレでグランプリをもらい、その副賞としてパリ滞在招待を受けました。ピカソがアトリエにしていた“洗濯船” の建物に隣接しているパラダイスホテルに2カ月投宿し、そろそろ期限が切れる頃、ニューヨーク近代美術館(MoMA)での個展が決まったという電報を受け取り、ロンドンでしこたまファッションを買ってニューヨークへ。すぐ、ジャスパー・ジョーンズに電話で『来た』と伝えたら、『サンクスギビングデーのパーティをするのですぐ来い、君に紹介したいいい人がいるからね』と言われたんです」
当時、画家のジャスパー・ジョーンズは大きな銀行だった建物をアトリエにしていた。横尾が到着すると、10人くらい先客がいて、しばらくした頃、黒ずくめの服にベレー帽のヨーコが、一歩遅れて、グレーのスーツのジョンが入ってきた。その髪は短くカットされていた。ふたりはジャスパーのところに行って、ひと言ふた言話していた。
「ジャスパーが僕のほうを指さし、ふたりが僕のところにやってきました。びっくりしました。最初から知っている人同士のような雰囲気。まあ、すでにふたりは僕のことを知っていたんですね」
広く細長いテーブルでディナーが始まった。
「ヨーコとジョンが中央で、僕はジョンの横に座らされました。ジョンの右手の親指が、まるで指圧師の指みたいにまん丸ですごく大きいのを見て、この人は相当ギターを弾いていると思いました。一夜の天才ではないとね」
その日はそれだけだったが、ヨーコは家に遊びに来るようにと横尾に電話番号を渡した。何度かためらいつつも電話をすると、ヨーコが出て、今からすぐいらっしゃいというので遊びに行った。
「特にヨーコさんは日本のことを聞きたがりました。ベッドの脇には日本の週刊誌などが山積みでした。批判記事を書いたこの人、どういう人、とかですね。そのあと夕食をともに。ベッドインしたふたりの前に板を渡して、テイクアウトした自然食、乾物やマメ、あまりおいしくはなかったですね。4~5時間くらいいて3人でフォトセッションもしました。僕がヨーコさんとばかり話をしているので、ジョンが横から邪魔をします。『ハッケヨイ、ノコッタ、ノコッタ』と言って。プレスリーの『ブルー・ハワイ』をヘッドホンで聴かせ、ここがスゴいと教えてくれたり、ピアノを弾いたりしていました」
帰りにはTシャツ、レコード、写真などお土産をもらった。
「翌日またヨーコさんから電話があり、デヴィッド・フロスト・ショーに一緒に出てほしいと言われ、迎えが来てテレビ局へ行きました。公開ライブ放送だったので、紙ヒコーキを作って飛ばすパフォーマンスをステージでするなど、いろいろありました」
横尾はまた、ジョンの活動を見て、「ジョンの歌のバックには、ヨーコがいる」と誰よりも早く見抜いていた。
「『イマジン』はヨーコの詩をなぞっているし、彼女は声のパフォーマンスを以前からやっていました。『アビイ・ロード』のレコーディングのときも、ヨーコは離れたところにいたけれど、その頃からジョンによって音楽に興味をもたらされていたわけだし」
2017年6月14日、全米音楽出版社協会はジョン・レノン作詞作曲としてきた「イマジン」の共作者として、オノ・ヨーコをクレジットに追加することを発表した。ジョンは生前、BBCのインタビューで「レノン/オノとクレジットされるべきだ」と語っていた。突然、発表を知らされたヨーコは涙ぐんでいたとショーンが語っている。
「1974年にヨーコさんがプラスティック・オノ・バンドを連れて日本に来ました。長い髪を振り乱し『キョーコキョーコキョーコ』と叫ぶ。お嬢さん(前夫との娘)の名を泣き叫ぶ歌を歌ったとき、鬼気迫るものがあったんです。裸の母性、生む性としての哀しみというか、いろんなものが伝わってきて非常に感動し、そのことを当時の『ニューミュージック・マガジン』に書いたんです。それを読んだヨーコさんから『ぜひお目にかかりたい』と連絡があって。それが最初です」
音楽評論家、作詞家の湯川れい子は世間では強い女性の象徴のように語られていたオノ・ヨーコに会い、なんて傷つきやすい人なのだろうと感じたという。
「ヨーコさんは発する声もクールですし、無言で拒絶する雰囲気を醸し出します。そのことが、たぶん必要以上に相手に警戒心をもたせてしまい、強さとして受け止められるのだと思うんです。鎧を幾重にも着こんだ中身は、本当はやさしくて柔らか。英語も完璧で東洋の思想にも精通。そんな彼女だから、深い母性と愛情でジョンを満たせたのでしょう」
繊細さと、舞台で「キョーコ」と叫ぶ母性の共存。
「歌で彼女の裸をいきなり見てしまった感動なんです。観客を前に素っ裸になってしまったヨーコさんと、初対面で直接向き合ったヨーコさんとの間には距離があるわけです。そこに私自身がどう近づけるのか。それがいつもヨーコさんと会うときのテーマでした」
アート、パフォーマンス、ステージ。そういう場であれば強くなれるのだとヨーコは語っている。彼女の有名な作品に《カット・ピース》(1964年)がある。舞台上に座っているヨーコの着ている服を全裸になるまで観客が切り取るというものだ。
「ああいうことがやれるのは、そこで捨て身になって、一切、自分を空(くう)にできるということでしょう。そういう強さ。それは柔らかくて受け身になれるからできたし、女性だからできたと思うんです」
湯川はニューヨークのダコタ・ハウスに招かれたこともあった。ジョンの席の正面の壁に禅僧、白隠(はくいん)の禅画「円相図」が掛かっていた。
「これ何? と聞くと、ヨーコさんは、“ジョンに『これが全宇宙であり、生命なのよ』と説明した”と。『私たちはみんなこの中でひとつにつながっていて、だからこれはすべての存在、命なのだ』と」
別居したジョンから何回も「もう帰っていいか」と電話がくる。そのたびにヨーコは「まだだと思う」と繰り返したが、エルトン・ジョンのコンサートで再会したとき、帰宅を許した。「ジョンが帰ってくる日のためにヨーコさんが用意した花柄のパジャマがあって、それをジョンに着せたら喜んで家の中を跳びはねていたそうです」
西洋と東洋、ジェンダーほか、さまざまな異なるものを持つふたり。ともにアーティストであり、どちらかが補完するような関係ではなかった。だからこそ「WAR IS OVER ! IF YOU WANT IT(争いは終わる。そう望めば)」と大きな声で言うことができたのだ。
2000~2001年、ニューヨークのジャパン・ソサエティで『YES YOKO ONO』展が開催された。キュレーターのアレクサンダー・モンローは旧知の仲の、当時、水戸芸術館現代美術センターで芸術監督を務めていた逢坂恵理子(現・国立新美術館長)に巡回の打診をした。「即刻、返事をしました。水戸ですぐにでもやりたいです、って。いろいろ難航もしたのですが、そのうち、韓国のリウム美術館にも巡回することによって作品の輸送費が抑えられるなど幸運が重なり、結果、水戸芸術館、広島市現代美術館、東京都現代美術館、鹿児島県霧島アートの森、滋賀県立近代美術館で開催が実現しました」
水戸芸術館では来場者にアンケートをとっていた。
「『“ビートルズを解散させた女”としかオノ・ヨーコのことを見ていなかったけれども、ビートルズと出会う前から、これだけ創造的な活動をしていた人だということがよくわかりました。彼女に対する考え方も変わりました』という回答がありました。オノさんは世界で最も知られている日本人女性とは言われているけど、本当のことを知っている人はそれまで少なかったのですね」
自身の実像についても、活動についても、オノ・ヨーコは声高には語ってこなかったところがある。
「オノさんによって、ジョンは自らを解放して本来の姿になったと私は思います。ふたりの関係はどういうものですかって聞いたときに、“陰と陽。互いに必要としていてすごくいい関係だった”と」
オノ・ヨーコは2009年のベネチア・ビエンナーレで長年の功績を称える生涯業績部門金獅子賞を受賞している。
「ジョン・レノンのパートナーとしてではなく、コンセプチュアルアーティストとして美術界を切り拓き、日本と西洋を結びつけてきた表現が評価されたんですね。オノさんは新しく早すぎたところがありました。今でこそ彼女の代表作《グレープフルーツ》に共感する人は多いですが、当初は想像力を引き出す言葉を書いた紙が壁に貼ってあるだけですから、セザンヌの絵やロダンの彫刻が美術だと
思っていた1960年代の人には、簡単には向き合えなかったでしょう。美術大学で学んできた人とは違う、本当の意味での自由と発想の豊かさを見る側に問いかける作品でした」
社会活動家とも少し違う。ひとりひとりの思いを想像力で結び、平和を希求する志を共有していこうとする。特別な人にだけわかるものではなく、誰にでもわかる言葉や方法で表現されている。
2011年のヨコハマトリエンナーレ。開催告知の記者発表会は3月11日、開始15分前に東日本大震災が起きた。「4月初旬、ニューヨークでオノさんは8月のオープンまで3カ月しかないのに、予定していた作品ではなく『日本にエールを送りたいから、新作を作る』と言ってくれたんです。その作品が《TELEPHONE IN MAZE》。アクリルの迷路を進むと真ん中に電話があって、オノさんから直接かかってくる作品。いつかかってくるかわからないのに長蛇の列ができて、彼女の声に皆、勇気づけられました。オノさんには、ニューヨークとロンドンと日本の時差表をお渡ししたんですが、たまに間違えて時間外にリーン、リーン。そのときは迷路をわかっているから私が最短距離を走っていく。『オノさん、今、こちらは夜7時ですよ』『あら、逢坂さん? そうなの』。そう言い合ってなごみました」
『DOUBLE FANTASY―John&Yoko』
ジョン・レノン&オノ・ヨーコ、彼らの言葉、音楽、アート作品、世界に発したメッセージや身の回りのものなど、貴重な展示品でたどるふたりの創作活動と人生の物語。2018〜2019年、『ジョンの故郷であるリバプールのために』とヨーコ自身も深く関わり、観客70万人を動員した展覧会が、ジョンの生誕80年、没後40年でもある今年、ヨーコの故郷、東京で開催される。前衛芸術を切り拓いたヨーコと世界的ロックスターのジョンの誕生から出会い、今日までの軌跡をたどる
会期:10月9日(金)〜2021年1月11日(月・祝)
会場:ソニーミュージック六本木ミュージアム
住所:東京都港区六本木5-6-20
開館時間:10:00〜18:00(金・土曜~20:00)
11月3日(火)、23日(月)~18:00、2021年1月11日(月)~20:00
(入場は閉館の30分前まで)
休館日:12月31日(木)、2021年1月1日(金)
入館料(税込):一般 ¥2,600、大学生・専門学生 ¥2,100、高校・中学生 ¥1,200、小学生以下 無料
※ 別途、前売料金あり
公式サイト
※ 新型コロナウイルスの感染・拡散防止のための入場制限等は、公式サイトをご確認ください。
映画『イマジン』
10月9日(金)より、TOHOシネマズ日比谷ほか、全国順次公開
1971年発表の名盤『イマジン』の収録曲それぞれに映像を作った初のビデオ・アルバムとも言われている。ジョンとヨーコが監督、制作