劇作家であるノッテージは、複雑な内面を持つ登場人物を通し、社会の闇に隠された真実をあぶり出すような筆力で長年脚光を浴び、活躍してきた。彼女は今、新作のオペラ、ミュージカル、戯曲、映画の脚本の執筆をこなしながら、相変わらず、業界を改革する使命にも燃えている。多彩で奥深いその作品には、彼女の全人格が余すところなく表現されている

BY SUSAN DOMINUS, PHOTOGRAPHS BY JOSHUA KISSI, STYLED BY IAN BRADLEY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 この日の午後、ノッテージはオムレツに似たイランの卵料理であるククサブジを作るべく、キッチンで野菜の下準備に追われていた。ターメリックとエチオピアのスパイスをブレンドしたバルバレをたっぷり使って調理するのだ。キッチンは改装していないと事前に彼女から聞いていたし、エアコンもついていないが、このキッチンを含め、築150年の彼女の家のあらゆる場所から、歴史の豊かさと重みが伝わってくる。たとえば、彼女の祖母も使った90年ものの鋳鉄のフライパン。ノッテージはこのフライパンでカリフラワーと玉ねぎを大量に調理している。また、彼女の両親が60年代や70年代に蒐集し始めたノーマン・ルイスやロマール・ベアデンら黒人画家の絵画が飾られ、ノッテージの夫がしつらえた明るい黄色がかった室内照明が、ぴったりの雰囲気を作り出している。

 ノッテージがこの家で育った当時は、ボーラムヒルは完全に労働者階級の街で、住民の人種はさまざまだったが、白人よりも黒人とラテン系が多かった。今ではその比率が逆転している。彼女の両親は、彼女いわく「不思議なぐらいに面白い人たち」で、ともに公務員だった。両親は旅行が好きなインテリで、芸術と音楽を愛し、ブルックリンのビリー・ホリデイ劇場で演劇を観たり、マンハッタンのセント・マークス・プレイハウスでニグロ・アンサンブル・カンパニーのパフォーマンスを鑑賞することを幼い娘にすすめていた。

彼女の母親は公立学校の教師で、父親はコロンビア大学を卒業後、心理学者として働いていたが、予期せぬ事故で何年も寝たきりの生活になり、キャリアを中断せざるを得なくなった(彼は2017年に亡くなるまでノッテージとともに暮らしていた)。ノッテージには弟がひとりおり、彼はブルックリンの地方検事補を務めている。子ども時代の彼女は本好きな少女で、週に5日はベビーシッターをして働き、玄関先の階段に、近所の友人で現在売れっ子の小説家となったジョナサン・レセムと並んで座っていた。彼らは同じ通りに住んでいる人々の生活のストーリーを、はっきり見えている部分も、そうでない部分も含めて理解しようとしていた。

 1997年にノッテージは再びこのタウンハウスに引っ越してきた。「とてもつらかった時期」と彼女は語る。当時、彼女は1950年代を舞台にした戯曲『Crumbs From the Table of Joy(団欒のパンくず)』で注目されていた。アメリカの南部で育った10代の黒人の少女が母の死後、家族とともに北部に移住し、その少女の視点で語られる物語だ。その頃ノッテージは妊娠しており、世界中を旅しながら、現在58歳になった夫のガーバーとともに映画『Side Streets(サイド・ストリーツ)』を作るために資金集めをしている最中だった。「ちょうど、妊娠6カ月で流産したばかりだった」と彼女は言う。「トラウマになるような出来事が怒濤のように押し寄せた。流産がわかった日――今でもこの電話のことをよく覚えているけど――母に電話をかけて流産のことを伝えようとしたら、母が『今あなたに電話をしようと思っていたところ。私、筋萎縮性側索硬化症(ALS)だと診断されたの』と。ふたりで泣いたのを覚えている。話をすることすらできなかった」。ノッテージは実際に悲痛な声を出して、大げさに泣き声を上げる真似をし、やがて悲しげに小さく笑った。

 実家に戻って、その年の後半に亡くなることになる母の世話をする前に、『Crumbs From the Table of Joy』の製作を監修する必要があった。この劇はもともと1995年にニューヨークで初公演を迎えており、その後カリフォルニアでも上演されることになっていたのだ。「そのときは、まだ流産をひきずっていて、身体も本調子ではなかったけど…… 誰からも特に何も言われなかった」と彼女は言う。その後すぐに彼女が再び妊娠すると、人々は彼女にものすごく勇気があるねと言った。「そう言われて『勇気があるって、どういう意味? 人が子どもを産むのは、別に珍しいことでも何でもないのに』と思った」。

アメリカの演劇業界は母親にとって働きやすい場所ではないと彼女は感じている。女性として、そして黒人として、その上、母としての試練を受け止めるか、または、演劇界を力ずくで変えるべく問題提起しなければならないわけだが、そのかわり、彼女は約7年もの間、戯曲の立案や執筆をせず、主に自分の母親と娘ルビーの世話に献身的に没頭した。その娘は現在24歳になり、ブラウン大学を最近卒業した(ブラウン大学はノッテージと夫の母校でもある。夫婦にはさらに12歳の息子、メルカムもいる)。戯曲の執筆から離れていた時期があっても、多くの作家たちと違い、ノッテージは引退してしまうことはなかった。そして2003年には『Intimate Apparel』を上演する。これは、20世紀初頭のニューヨークでお針子として働いていた彼女の曾祖母の写真からインスピレーションを得て執筆したものだ。彼女はこの作品でさらに称賛され、同作品はアメリカの演劇界で最も数多く上演された作品のひとつとなった。

 それ以来、母、劇作家、そして2014年からコロンビア大学で教鞭を執っている教授としても、ノッテージは新しいロールモデルとして道を拓いてきた。そんな中、彼女のレガシーの最も偉大な点は、彼女が創造してきた黒人女優の代名詞ともいえる役柄の数々だろう。『The Watering Hole』でノッテージとともに演出を担当したミランダ・ハイモンは、『Intimate Apparel』は演劇を学ぶうえでの教育的意義が非常に大きかったと語る。若い黒人女子学生として大学で演劇を学んでいたハイモンにとって、自分の能力を十分に発揮できる現代的な役柄はそう多くなかったからだ。実際、この作品のヒロインのエスターという役は、ほかの人種のどんな役柄と比べても、その心理描写の複雑さと哀愁という点で抜きんでている。エスターは孤独だが威厳に満ちた生活を送っており、結局、愛を得るために自己犠牲を伴う危険な道を選ぶが、その間、観客たちは彼女にずっと感情移入したままだ。「演劇界の歴史から見ると、エスターのような役柄は多くはない」とハイモンは言う。「人種的にも、ジェンダーの側面からも、そして主役という観点から見ても珍しい」。この作品は地方の劇場にとってはパラダイムシフトを意味した。『Intimate Apparel』が全米の劇場で何十回も上演されるほど好評を博すと、劇場の経営者たちは黒人女性を含む黒人の劇作家たちが実際に成功を収めることができるのだ、と気づいた。

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 ノッテージの作品は基本的にいつも労働者階級の人々に焦点を当てており、その多くは黒人だ。彼女の作品に特権階級的なところは一切なく、誰もが気軽に鑑賞できる。彼女はいろいろな意味で伝統的な作家で、作品は一般的にプロセニアム・アーチ(額縁舞台)を持つ劇場で上演され、話の筋は非常に複雑だが、決して抽象的ではない。同時にポストモダンの繊細な輪郭も備えており、作品の時代設定が昔であっても、みずみずしく新鮮な印象を与えるのだ。『Intimate Apparel』にはテネシー・ウィリアムズの戯曲の影響も散見されるが、それと同時に、ノッテージの脚本の多くには『ザ・ジェファーソンズ』(1975~1985年)や『Good Times(グッド・タイムズ)』(1974~1979年)や『チアーズ』(1982~1993年)など、シチュエーションコメディのテレビドラマを観て育った人にとっては自然なユーモアや物語の展開が宿っている。2004年の作品『Fabulation(作り話)』では舞台指導のト書きもユニークだ(「ちゃんと聞いてますよ」と多忙な広報担当の重役が、不満を持つ客に言う。だが脚本には「彼女は実際には聞いていない」とカギカッコつきで書かれているのだ)。1930年代の映画のシーンが劇中に出てくる『By the Way, Meet Vera Stark』では、ノッテージは架空のドキュメンタリー映画のシーンとテレビのトークショーの映像を合わせて流す。これは第一幕で観客の眼前ですでに起きたある出来事について、第二幕で学者たちがコメントするシーンにおいて、アート批評家特有の口調をパロディ化したものだ。

 彼女の戯曲の構成は挑戦的ではないものの、彼女が取り扱う題材は、演者と観客の両方にとって容易に飲み込める種類のものではない。ノッテージの物語のあらすじにはヘイトクライム(『Sweat』)や暴力的なレイプ(『Ruined』)も含まれている。後者の作品が2010年にロンドンのアルメイダ劇場で上演されたとき、主役のママ・ナディを演じたジェニー・ジュールスは、ノッテージの作品を、自分が演じた中でも最高難度だと捉えている。ママ・ナディは内戦を生き抜いた賢い事業主の女性だ。彼女は、生きるには過酷すぎる戦時中の環境で、愛する者のためにどんな手を使ってでも、最大限の力を尽くして生き延びる。「リンの作品を表現するには、自分のうぬぼれをかなぐり捨てて、持てるすべての力を使って、自らの醜さや痛みや心に潜む妖怪や美しさのすべてを体現しなければならない」とジュールスは言う。「それができてやっと、彼女の創造のパワーの深淵の表面をなぞることができるのかもしれない」

 物語を書く才能はノッテージにとって生まれつきのものかもしれないが、彼女が描く役柄の人格の複雑さは徹底したリサーチによるものだ。彼女が『Sweat』のリサーチを開始したのは、2011年の9月に始まった「Occupy Wall Street(ウォール街を占拠せよ)」のデモのあとだ。このデモがきっかけで、アメリカが経済の停滞によってどう変革してきたのかについて彼女は疑問を抱く。そこで彼女が調査の対象に選んだのが、フィラデルフィアから96㎞ほど離れた人口約8万8,000人の、かつて工場街として栄えたレディングだった。この人口規模の街の中で、最も貧しい場所であり、ニューヨークから車で行ける距離にあるからだ。結局、ノッテージは2年半にわたり、助手のトラヴィス・ルモント・バレンジャーとともにこの街に通い続け、住民にインタビューを敢行した(バレンジャーは今『MJ』のプロデューサーのひとりだ)。グローバリゼーションから取り残された人々の忸怩(じくじ)たる思いや、心の渇きを十分理解するために。

 取材を始めた初期の頃、彼女はまったくの部外者であり、非白人の女性である自分が、とあるバーに入っていったときのとてつもない居心地の悪さを覚えている。「まるで西部劇に出てくるような場所だった」と彼女は言う。「私たちがスウィング扉を開けて中に入ると、全員が沈黙した。あれは今まで訪れたどんな場所よりキツかった」。バーの中では喧嘩が始まり、テーブルの端でコカインを鼻から吸っている者もいた。彼女とバレンジャーは着いてすぐに店を出た。しかしノッテージはバレンジャーに店に戻らなくては、と言った。結局ふたりは店に戻り、ノッテージはバーテンダーと長時間じっくり話し込んだ。トランプが大統領選に出馬するよりもずっと前に、こうして何年も現場でリサーチをして、アメリカの白人労働者階級の特権というものがもはや保障されなくなった時代に、人種間の緊張が一触即発の状態を生む環境をつぶさに観察した。だがそれだけではなく、『Sweat』は、アメリカン・ドリームが失われたことにより、あらゆる人種の人々がどんなふうに打ちのめされているのかを、共感を込めて浮き彫りにもしている。

 ノッテージの戯曲の登場人物たちは人間くさく、思いやりがあり、たいてい大きな人間的欠陥がある――それによってとんでもない窮地に自分自身や仲間を追い込んでしまうのだ。だが、舞台の上に、最低ひとりは抜群に優秀な女性の登場人物がいる。彼女たちは、バーの経営者や、美しい下着を作るお針子や、世界で最もおいしいサンドイッチを作る料理人だったりする。「もうずっと長い間、黒人女性は、たとえどんなに素晴らしい結果を出しても、その才能を過小評価されてきた」とノッテージは言い、なぜ黒人女性の才能を世に示すことに力を注いできたかを説明する。「どんなにずば抜けた才能があろうと、無視されてしまうから――まるで透明人間のように」

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