劇作家であるノッテージは、複雑な内面を持つ登場人物を通し、社会の闇に隠された真実をあぶり出すような筆力で長年脚光を浴び、活躍してきた。彼女は今、新作のオペラ、ミュージカル、戯曲、映画の脚本の執筆をこなしながら、相変わらず、業界を改革する使命にも燃えている。多彩で奥深いその作品には、彼女の全人格が余すところなく表現されている

BY SUSAN DOMINUS, PHOTOGRAPHS BY JOSHUA KISSI, STYLED BY IAN BRADLEY, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

 玉ねぎが飴色になると、ノッテージは今度はパセリを刻み始めた。こういう比較的単純な作業は、キッチンの客、つまり私でも安心して協力できそうだが、ノッテージは自ら細心の注意を払って刻んでいる。彼女のやり方以外で刻むと、雑なだけでなく、間違った方法で刻むことになると言わんばかりの真剣さだ。パセリをひと房ずつ丁寧に分け、さらにナイフで葉と茎を分離する。まるで、緑を大事に扱うことで、味がさらによくなるかのように(「君が焦っているのがわかる」と“クライデの店”の料理長のモントレロウスが若い従業員に言う。若い従業員は料理長に認めてもらいたい一心で、作ったばかりのサンドイッチに自作のスペシャルソースを加えていた)。

『Clyde’s』では、ノッテージの最初のブロードウェイ作品である『Sweat』が描き残した題材を扱っている。厳密には続編ではないが、前作で刑務所に送られ、いま再起を果たそうとしている同じ登場人物がこの作品に出てくる。今回の作品では、登場人物たちの人生は、迷路に入り込んでしまい、角を曲がるたびに次々と行き止まりにぶつかるような設定で、延々と続く苦しみとの格闘が描かれ(ドラッグ中毒、別れたあとも重荷となる元配偶者の存在、犯罪歴など)、はっきりした出口が見えない。この作品の演出を務めるケイト・ホリスキーがノッテージと最初に組んだのは、2003年のボルチモアのセンター・ステージで上演された『Intimate Apparel』だった。ホリスキーは、今回の作品は階級格差と人種格差が根底にあるが、そのテーマと、新型コロナウイルスが蔓延する間、心身がすり減るような仕事に従事していた多くの人々が仕事を辞めたこととの共通点を感じずにはいられないと言う。「この背後にある考えは」とホリスキーは言う。「人々は最悪の状況を脱するためなら、完全なる未知の状況のほうをあえて選択するということ」。たとえ彼らの人生がひっくり返ろうと、どこに向かっているのか不確かだろうと「彼らはもうひとつの可能性を信じている」。ホリスキーにとって『Clyde’s』とは、またしても、大衆が気づく前にノッテージが世の中の動きを察知して把握した実例なのだ。

 その後、ククサブジができ上がるのを待つ間、ノッテージは昨年の春以降のこと――そして、彼女が経験したさまざまなトラウマが彼女の作品に影響を与え続けていることを話し始めた。「私たち有色人種の人間にとって、ジョージ・フロイドが殺害されたことがまず一番大きかった」と彼女は言う。「あの事件は、ずっとそこにあった傷を覆っていたバンドエイドがはがされた瞬間だった」。彼女にとって、あの事件のあとに続いたBLM(ブラック・ライヴズ・マター)をはじめとするカルチャーのうねりは演劇界に対する深い再評価のきっかけとなった。そしてその再評価は必須であると同時に精神的にきついものだった。「はっきりと可視化されただけではなく、自分が生きて経験してきたすべてのトラウマを再び追体験することになった――つまり自分の全身全霊でそれに抗うことになるわけ。で、それが実際に起きると、私は『もうたくさんだ』と思った」と彼女は言う。「そしてそんなことが起きたあとに、自分が属している社会構造を検証して糾弾し、自分をぞんざいに扱って傷つけてきたやり方を見直すことになる」。

彼女いわく、彼女は何年もの間、クリエイティブな仕事に携わる有色人種の仲間と協業しようとしてきたという。たとえばアメリカ人の監督セレット・スコットもそのひとりだ。だが、権力を牛耳る白人男性たちから、彼らは経験不足で実力に欠けるとさんざん言われてきたという。「硬直して融通が利かない組織に対抗しようとすると、個人的に何度もこういうことにぶつかってきた。例を挙げたらきりがないほど。権力を握る者たちが、自分たちの権力に近づくのにふさわしい人間を勝手に判断しているから」と彼女は言う。

 彼女は自分の類い稀な成功を認識しているが、その成功ですらも責任が伴い、重荷がずっしりと彼女の肩にのしかかっている。彼女いわく、彼女が再び検証しようとしているのは「自分が共犯者だったせいで、自分と仲間が傷つけられる構造を容認してきた」ことだという。彼女は『We See You, White American Theater』の提言を強い賛同の意を込めてツイートした。「アメリカの物語の形を決めるのは、ストーリーテラーだ。だが、あまりにも長い間、白人の演劇コミュニティは、私たちの物語を完全な形で伝えることを否定し、検閲し、阻止してきた」と彼女はツイートに書いた。

「私たちの最終目標とは」と彼女はいま語る。「劇場の生態系を変えること」。「そしてあまりに多くの場合」と彼女は続ける。「人は自分が好きなことをやるときに、搾取されている事実については考えない。毎週ちゃんと舞台の仕事が入っている俳優ですら、生計を立てるのは難しい。そしてそんな状況は理不尽だ。私は成功した劇作家だけど、家のローンを払い、子どもの大学の学費を払うために、フルタイムの教員の仕事に就かなければ経済的にやっていけない」。テレビ番組の脚本を書くという選択肢もあるが、それですら、ほとんどの黒人ライターにとっては最近やっと手が届くようになった仕事だと彼女は言う。「有色人種の女性である自分には、そんなチャンスはまったくなかった」。「人々は私のストーリーに興味を示さなかった。企画を送ったことを覚えているし、今なら大ヒットするテーマだけど、企画を見た人たちは目を泳がせただけ。何の興味も示さなかった」

 その日の午後、ノッテージは料理をしながらも、執筆中の20世紀スタジオ配給の映画の脚本が気にかかっていたようだった。テキサス州選挙区で当選した初の黒人女性下院議員のバーバラ・ジョーダンの物語だ(彼女はさまざまな功績で知られるが、なかでもニクソン大統領の弾劾裁判で、下院の司法委員会において憲法を擁護したスピーチをして大反響を呼んだことが最も有名だ)。人権活動のリーダーだったジョーダンは、一部の批評家たちから簡単に妥協しがちだと思われていた。同時に彼女はある女性との数十年にわたる個人的な関係について公にしなかった。59歳で志半ばで終わったジョーダンの生涯を、ノッテージは「大勝利の結末」で終わる方向ではなかったと見ている。正義の立証や、興奮を呼んだスピーチ、そして人権意識に希薄な彼女の政敵たちに勝利したことを含めたとしても。

 ノッテージは話をしながらも、自分が思いついたアイデアを口に出して、あるひとつのプロジェクト(映画の脚本)に関わりながら、同時にほかのことも並行してこなしている(食事の用意や取材など)。彼女の娘がのちに私にこう教えてくれた。テレビでリアリティショーを観ているときに、画面の中の話の筋に感化されたかのように、ノッテージはいきなり自分の企画用のメモを慌てて書きだすのだという。朝にバーバラ・ジョーダンの脚本を書いていたかと思うと、午後には新しい戯曲に走り書きを加え、夜には『Intimate Apparel』のオペラの台詞を添削しているという。「ほかの仕事を後回しにするための手段として、別のプロジェクトの作業をしてしまう」と彼女は言う。「全体の進行具合によっても状況は違うけど」

 彼女が現在抱えているすべてのプロジェクトの中で最も困難なのは――作家生命を左右するリスクの大きさからいっても、そして、そのリスクの中で、どう構成するのかという意味でも――『MJ』の脚本を書く仕事だ。ジュークボックスのように次々と歌が流れるミュージカルでは、秀逸な脚本が話題になることはほとんどない。さらに主題も最初から賛否両論だ。2019年のドキュメンタリー作品『ネバーランドにさよならを』でイギリス人映画監督のダン・リードが詳細に描いたように、マイケル・ジャクソンは児童虐待で訴えられた人物だからだ。

 「脚本はもう書き上げた」と彼女は言う。「でもミュージカルの場合、本当に台本ができ上がるのは、リハーサルの間。舞台でやってみるまでどうなるかわからない」。このミュージカルの設定は1992年で、ジャクソンが「デンジャラス」ツアーに出発する前の2日間を描いている。このツアーは開始されたが、彼が鎮痛剤依存を告白したことで結局中止になった。また彼は、児童虐待の疑いをかけられたことが原因で鎮痛剤依存に陥ったと語っていた。「私たちがアートを作る理由のひとつは」と彼女は言う。「私たちが探求する物語や登場人物の複雑さを受け入れて咀嚼するためであり、マイケル・ジャクソンもほかの人物と変わらないと思う」。この劇では、ジャクソンと告発者たちの間に実際に何が起きたのかを探ることは一切していない。この作品が問うのはアートについてであり、罪についてではない。「私は裁判官や陪審員ではない」とノッテージは言う。「この仕事の過程において、私の役割はアーティストとしての彼を理解するということ」

 そうこうするうちにククサブジがオーブンから取り出され、ダイニングテーブルの上にサラダと一緒にのせられた。ククサブジはおいしい一品だった。フリッタータよりも複雑な味で、厚みがあり、三角形に切った料理は次々に平らげられていった。だが、ノッテージは塩は足りている?とまだ心配していた。彼女が注意を払えば払うほど、さらにいい味になりそうだ。

『Intimate Apparel』のオペラ版の演出を務めるバートレット・シャーは、ノッテージと彼女自身が起こそうとしている演劇界の変革を、劇作家のジョージ・バーナード・ショーと比較する。バーナード・ショーは過去の演劇界を代表する最も典型的で模範的な人物のひとりだ。「リンには登場人物の人格を掘り下げるだけでなく、アイデアを構築する偉大な力がある」とシャーは言う。「バーナード・ショーは登場人物の枠を超えて存在する大きな力を、巧みに、正確に言い当てていた。それはリンにしても常に同様だ。彼女の描く人物はこの世界と人生を象徴する存在だが、同時にそこには常に、より大きくて政治的な、人間の根幹に関わる社会的な疑問が投げかけられている。それは舞台の上のすべての役者と観客に向けて問われているのだ」

 バーナード・ショーの1903年の作品『人と超人』に出てくる登場人物のひとり、真のアーティストは「妻にひもじい思いをさせ、子どもたちを裸足で生活させ、70代の母親を働かせて生活費を稼がせ、自分は芸術に夢中になって働こうともしない」ような人間だ。だがノッテージは、家族の面倒を見るために演劇界から何年も離れていた。さらに彼女は素晴らしい作品を書いただけでなく、アーティストであるひとりの女性として、新しい方法を自ら実践することで、業界の変革に尽力してきた。もうひとつ進行中の彼女のプロジェクトで、彼女は自身のオペラ作品のこれまでの業績と、母親として成し遂げてきたことを組み合わせている。ノッテージと彼女の娘は、作曲家のゴードンとともに『This House(この家)』というオペラ作品に取り組んでいる。これは娘のルビーが大学の学部生のときに幽霊の話を印象主義の戯曲として書いたものだ。「常識的な人間は自分を世界に合わせようとする」とバーナード・ショーは1903年に出版された『革命主義者のための格言』で書いている。「常識のない者は自分に世の中を合わせる。よって、すべての進歩は常識のない者によって作り出される」と。ノッテージは長年、演劇界で独自の道を切り拓いてきた。そして今、その道が常識的に感じられるまでになった。

 食事のあと、ノッテージは緑が豊かに茂る裏庭を案内してくれた。木箱や鉢に4種類のトマトやさやいんげんやナスが植えられており、あちこちに苺が群生し、ローズマリーが束になって生えている。日当たりのいい庭ですべての植物が元気よく育っている。ルビーは最近この庭に隠された二つの井戸につまずいたと言う。ノッテージは自分が子どもだった頃からその井戸がこの庭にあったことを思い出した。

 私たちは朝の遅めの時間から昼食の準備を始め、気がつくともう午後遅い時間になっていた。ノッテージは私を玄関まで送ってくれ、食事の準備に予想以上に時間がかかってしまったことを謝り、その理由を擁護する必要があると思っているようだった。「私はゆっくり進んでいくのが苦にならないタイプ」と彼女は私に言う。後日、彼女から送られてきたテキストメッセージがその意味を補足していた。「一番先にゴールにたどり着くことは重要じゃない。いつかたどり着くことを知っているならば。目的地までの途中の過程をじっくり観察して味わうと、もっといいアートができるはずだから」

HAIR BY SUSAN OLUDELE. MAKEUP BY ERNEST ROBINSON. SET DESIGN BY JILL NICHOLLS.

DIGITAL TECH: TRE HENRY. PHOTO ASSISTANTS: CHRIS RIGUEUR, RASHIDA ZAGON. MANICURIST: AKANE AWAJI MIKHAYLOV AT SUSAN PRICE NYC. SET ASSISTANTS: TODD KNOPKE, JAY JANSEN. TAILOR: IRIS TABORSKY TASA. PRODUCTION ASSISTANT: RYAN RILEY. STYLIST’S ASSISTANT: CHARLES NDIOMU. MAHARAM’S COTTON VELVET IN FUCHSIA. MAHARAM’S ALLOY IN BALTIC. TEXTILES COURTESY OF MAHARAM.

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