INTERVIEWS BY NICK HARAMIS, PHOTOGRAPH BY KATY GRANNAN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
ジョーン・バエズ(シンガーソングライター/ビジュアル・アーティスト)
孫娘のジャズミンから、ラナのことは聞いていた。2019年にラナ本人から、バークレーで一緒に歌わないかと誘われた。「どうして? あなたのコンサートの観客は、私のひ孫くらいの年齢でしょう?」というのが私の反応だった。すると彼女は「あなたの歌は彼らにはもったいないくらい」と言った。
ラナと私はほぼ正反対だ。駆け出しだった頃の私はステージにほかの誰かを立たせたりはしなかった。マイクが2本あって、1本は私が使い、もう1本は私のギターの音を拾うのに使った。裸足でステージに立ち、もの悲しいフォークソングを歌っていた。歌手になって最初の10年は自分で歌詞を書いたことすらなかったけれど、ラナは最初から自分で書いている。
私は3年前に歌うのをやめた。何か違うことをやるときがきたと思ったから。ミュージシャンとして60年間過ごしたあとに、今度は絵を描くことに挑戦した。画家の友人が、肩の力を抜いてたくさん失敗する必要があると教えてくれた。うまく描けないときはプールに絵を2回投げ込んで、面白い作品になるかどうかを試している。ホースで絵に水をかけたりもする。
もし誰かが私から何か学びたいと思うなら、音楽という媒体を超えて、人権や公民権とどう関わってきたかをみてほしい、と伝えている。私の歌声は生まれつき与えられたものだけれど、本当の意味での才能は、それをどう使ったか、というところにあるから。私自身を題材にしたドキュメンタリー映画(『Joan Baez I Am a Noise』、2023年)の製作が、ちょうど終わったところだ。この映画では、1966年にキング牧師と一緒にミシシッピ州のグレナダをデモ行進する私の映像が出てくる。別のシーンでは、私が両親に宛てて書いた手紙の中の、「私は世界を救いたい」という一節が映し出される。ラナはそんなふうに大風呂敷を広げて政治的なメッセージを伝えることはしない。バークレーのコンサートでは私を舞台上に立たせて、彼女のかわりに、政治的なメッセージを送る役を私に背負わせた。でもカラフルな色彩とキラキラ光るライトが入り乱れるステージで、彼女はある瞬間、確かに、裸足になっていたと思う。
ラナ・デル・レイ(シンガーソングライター)
3年前にバークレーで私のコンサートがあり、私はジョーンと一緒に『ダイヤモンド・アンド・ラスト』(1975年)を歌いたいと思っていた。彼女はサンフランシスコから車で1時間ほど南に下った場所に住んでいると言った。そして、もし私が彼女の自宅を見つけることができて、さらにその場で、この曲のハーモニーの高音部分を歌うことができたら、舞台に一緒に立ってもいいと言ってくれた。彼女が教えてくれたおおざっぱな地図と家の色、庭に鶏が放し飼いになっているという情報だけを頼りに何とかたどり着いた。彼女の目の前で歌のオーディションを受けたが、彼女は私が歌っている途中でストップをかけた。その厳しいまなざしは、私がちゃんと歌えていないことを暗黙のうちに伝えていた。ひと通り終わると彼女は「OK、これなら大丈夫。あなたと一緒に歌うことにする」と言った。
コンサートが中盤にさしかかった頃、私は観客に向かってこう言った。「これからある人がステージに来てくれます。この人は私が知っている中で最も心やさしい歌手であり、60年代と70年代における最も重要な女性シンガーです。彼女と私は一緒に『ダイヤモンド・アンド・ラスト』を歌います」。終演後、私とジョーンはアフロ・カリビアン音楽が流れる社交ダンスクラブに繰り出した。するとジョーンは私に、自分が踊り終わるまで、踊るのをやめないでと言った。そのときのことを歌ったのが『Dance Till We Die』(2021年)という私の曲だ。
本当の意味で成功するための秘訣は、心の動きを常に全身全霊で感じているかを確かめることだと思う。私はそれをジョーンから学んだ。最近、私は彼女にこう言った。「私のこの人生において、そして、たとえ生まれ変わったとしても、私はあなたのような偉大な人と肩を並べて一緒にステージに立てるような存在じゃないってことを、身にしみてわかっている。そして私がそう思っているということを、どうか知っておいてほしい」。すると彼女はこう答えた。「ちょっと、やめてよ」
INTERVIEWS HAVE BEEN EDITED AND CONDENSED. HAIR AND MAKEUP: JULIE MORGAN