BY SUSAN DOMINUS, PHOTOGRAPH BY SEAN DONNOLA, TRANSLATED BY T JAPAN

映画『マイ・ディナー・ウィズ・アンドレ』(1981年)ではアンドレ・グレゴリーと共演。
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私たちが劇場の外で立って待っていたとき、彼は私にやさしく微笑みながら、この頼みを口に出してはっきりと言った。だがその表情には謝罪とあきらめに似た何かが漂っていた。他人の感情というのはやっかいなもので、努力して扱わなければならず、私たちがその日歩いてきたような氷が張った道のように、注意深くその間をくぐり抜けなければならないのだと言わんばかりに。彼のリクエストを聞いたとき、最初はおおげさだなと感じ、神経質すぎるのではとすら思った。だが筋道立てて考えると、彼の頼みの裏にははっきりとした論理が見えてきた。それは、真の意味でエンパシーの才能に恵まれた希有な人だけがもつロジックだった。舞台の上に自ら立って、人間とは何かを人々に見せようとする人だけがもつ、弱さや脆(もろ)さの深淵を理解するためには、ここまで解像度の高いエンパシーが必要なのだ。
ショーンが戯曲を書く道のりを自ら発見する前に、彼はまずハーバードで歴史を専攻したあと(彼はハーバードの同窓会誌で同校のエリート性を非難している)、インドに行って英語を教え、オックスフォード大学で哲学、政治学、経済学を学び、外交官になるつもりでいた。「もし当時の僕に会ったら『ものすごく真面目な人だな』と感じたと思うよ」とショーンは言う。それは今、彼に会った人が感じる第一印象とはまったく違う――映画に出ていた面白いヤツというのが、多くの人がもつ彼の現在のイメージだ。オックスフォード在学中から彼はすでに戯曲を書き始めていた。書かなければと感じたからで、ほかに理由はなかった。彼は書き上げた戯曲を自分の憧れの人たちに郵送した。その後、彼は自分の作品をショーン家の友人でもあったライター兼批評家のレナータ・アドラーに見せた。彼女は彼の戯曲――想像力に富んでいて文学的であると同時にユーモアに満ちている――を独創性があると感じ、最近では「音楽のよう――純粋さの塊だ」と評している。アドラーがショーンを、当時すでに前衛的な監督として知られていたアンドレ・グレゴリーに紹介した。グレゴリーは彼女の意見に同意したが、ほかの監督たちはそうではなかった。
ショーンが深く尊敬していた実験劇場の監督であるピーター・ブルックが、1971年に彼の戯曲を読んでもいいと言ってくれた。その結果、ショーンがブルックから受け取ったのは短く手厳しい批評だった。ショーンは半世紀以上たった今でも、その批評を一語一句すべて暗記している。「誰かが書いた作品について意味のあるコメントをしようとするなら、少なくとも同情の念をもたなければならない」とショーンはブルックの批評を暗唱する。「だが」――彼はここで語りの速度をぐっと落とした。まるで、創造の魂に刃が突き立てられるのを予見するかのように――「私はあなたの戯曲の外側にとどまる」。この言葉は今でも彼に暗い影を落としているようだが、グレゴリー(グレゴリーが自分に対してもっている自信はショーンが自分に対してもつ自信よりも大きいかもしれない)は気にしなかった。グレゴリーのグループであるザ・マンハッタン・プロジェクトに所属する俳優の中には、ショーンの戯曲を元にした芝居をやるべきか否かを議論する者たちもいたが、グレゴリーはショーンの戯曲作品の監督にとりかかり、舞台づくりをさっさと開始した。
ショーンが劇作家としてのキャリアを開始した初期の頃は、借金を抱え、ひたすら山積する事務仕事に追われて消耗していた――と彼は1983年にエスクァイア誌にドン・シェウェイ記者が執筆した記事の中で語っている。「実際のところ」とショーンは当時を振り返って語った。「かかってくる電話の半分に返事をするのが精いっぱいで、作業は半分も片づかず、送られてくる請求書のうちなんとか払えたのは半分ほど。必死で頑張ったけどカツカツの生活を辛うじて維持するだけでやっとの状態だった。そのうえ、自分の作品を書く時間を確保したいとなれば、常に戦闘態勢だった。15分間だけでも自分のために使いたいなら、モンスターや殺人者にならなきゃダメだと感じてたよ!」。ショーンの経済状況は映画『マイ・ディナー・ウィズ・アンドレ』公開後の何年かの間に少しずつ改善していった。この映画の中でアーティスト役のショーンが最初に登場して「今、自分の頭の中にあるのは、金のことだけだ」と愚痴を言う場面がある。10歳の頃は文学界の巨匠の息子として裕福な生活を送り、芸術家への道を踏み出したのに、大人になっていざアーティストになると、パッとしない灰色の毎日が続いているという対比が描かれている。30代半ばになっても、劇作家として思ったより成功していないという事実が、ショーンにとっては驚きだった。当時の彼自身は――恐らく、彼の家庭環境や受けてきた教育や、幼い頃から彼の内側にあった自身の芸術的価値観への揺るぎない信念からすれば――これまで積み上げてきたキャリアの長さからしても、自分の作品はもっと広く世間から認められていていいはずなのに、と感じていた。
ショーンは当時のニューヨークの社会階層では珍しい位置に属していた。彼の親しい友人たちは、キッシンジャー一家と感謝祭をともに過ごしたり、彼の父が勤務するザ・ニューヨーカー誌のスタッフとして出世したりしていた。だが、彼自身はあまりに貧乏で、タクシーの運転手になることを真剣に考えていた。彼のガールフレンドは実際にウェイトレスとして働いていた。ショーンは暮らしに困窮する毎日を送っていたかもしれないが、当時はまだマンハッタンで実験的なアーティストたちが経済的な苦しさを味わいながらも、なんとか生きていける時代だった――ショーンや彼の友人たちがアート関係のプロジェクトを立ち上げれば、たとえ観客の数は少なくとも、主要な新聞に批評記事が載った。だからアーティストたちは自分たちが作品を生み出しているのだと感じることができたし、ニューヨークの街の中に彼らの確固たる居場所があった。

テレビドラマ『グッド・ワイフ』(2014年)でジュリアナ・マルグリーズと共演。
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マキャベリの喜劇『マンドラゴラ』(1524年)がニューヨークのパブリック・シアターで1977年に上演されたとき、ショーンは初めて俳優として舞台に立ち、それをウディ・アレンの配役エージェントが見たことがきっかけで、劇作家だった彼は映画やテレビの仕事に進出することになった。『マンドラゴラ』の脚本を翻訳したショーンは、この舞台劇の監督から役にぴったりだと抜擢されて、ぶつぶつつぶやいてばかりいるおかしな召使い役を演じることになったのだ。ショーンは『マンハッタン』でダイアン・キートンの元夫役として、卓越した性的テクニックをもつ男性を演じて、短い出番ながらも強烈な印象を残した。それによってほかの配役エージェントからも声がかかり、テレビ番組の『コスビー・ショー』や『グッド・ワイフ』に複数回出演した。30代半ばからは性格俳優として活躍することになり、ショーンは借金を返すことができた。彼いわく、彼と彼のパートナーで短編小説作家として名声を得たデボラ・アイゼンバーグのふたりは、チェルシー地区(彼らは今でもここに住んでいる)で清貧生活を送ることにそれほど抵抗はなかった。だが、俳優の仕事を始めてからギャラを稼げるようになったことは重要だった。「心地よい中流の暮らしを取るか、戯曲を書く道を取るか」の選択を金輪際迫られなくてすむからだという。「これでもう二度と誰かに『いいかい、君の問題はね、君が書いている劇の内容なんだよ――もっと楽しい戯曲を書けないのか? そうすれば中流の生活が手に入るんだよ!』って言われるような事態に追い込まれなくてすむ」。カルチャーシーンにおいて、上流と下流の両方で活躍する人は特殊だ。たとえば俳優のジェーン・リンチが映画やテレビの仕事を引き受けたのも、表現舞踊という、高評価を受けつつも観客の数が極めて少ない舞台の振り付けの仕事を続けるためだった。
もちろん、エリート大学で教育を受けたことや恵まれた家庭環境だけがショーンに自信を与えたわけではない。彼の初期の作品のほとんどは酷評されたが、称賛されるのに値すると信じ、いつか偉大な作品として認識されるはずだと彼が考えたのは結果的に正しかった。「70歳ぐらいになるまでは、僕は間違っていた」と彼は言う。「でもそのぐらいの年齢になってから、より多くの人に尊敬されていると感じられるようになったんだ」。彼いわく、彼が世の中から正当な評価をされていないとパートナーのアイゼンバーグに愚痴を言っても、彼女はもう相手にしなくなったそうだ。
とはいえ、そんなショーンですら、今でも自分が思うような芸術を生み出すためには奮闘しなければならない。『蛾の日々』の制作プロダクションの資金繰りが難航したときは、彼が個人的に培ってきた大規模な人的ネットワークのすべてを片っ端からあたって、資金を集めなければならなかった。「知り合い全員に聞いて回ったよ。『誰かお金持ちを知らない?』って」と彼は私に言う(スコット・ルーディンとバリー・ディラーのふたりがこの劇のプロデューサーを務めている)。彼の父親とは違い、ショーンはお金に関するトピックに気後れしない自分を誇りに思っているようだった――そして、愛すべき欠点だらけの人間たちを描いたこの物語を世に出すために、自分の力を発揮して資金のハードルを乗り越えられたことを誇りに思っているようにも見えた。
ショーンとグレゴリーはヘンリック・イプセンの戯曲『棟梁ソルネス(The Master Builder)』の映画化を計画し、ふたりでリハーサルに15年ほど費やしたのち、ついにジョナサン・デミ監督を起用し2013年に映画化した経緯があるだけに、『蛾の日々』のリハーサルも数週間だけではなく、1年半のスパンで断続的に行なっていた。ショーンがそのリハーサルを欠席したのはたった1回だけだ。息子役を演じたジョン・アーリー(38歳)にとってこの芝居のリハーサルは、自分の俳優人生の中で、ダントツで最も意味のある経験だったと言う。「この芝居を経験してしまうと、これまで自分がやってきた演技のほとんどが恥ずかしくてしょうがない」とアーリーは私に言った。「台詞を暗記するのと、台詞を知っているのは、違うんだ」
ドナルド・トランプが再選されたとき、ショーンはこんな個人的な題材を扱った劇を上演するべきタイミングではないのではないかと一瞬迷った。「僕がこの戯曲を書いたときはバイデン政権だったんだ!」と彼は私に言う。「最初はすごく動揺したよ。『殺人的なトランプ政権とその結果起きた悪夢のような現実を具体的に批判するような戯曲を書けばよかった』と思ったから。でも今は『いや待てよ。トランプの取り巻きたち――とトランプ自身――は自分たち以外の人類への同情を寄せることに、たとえ暴力を使ってでも反対の立場を貫いている』と感じる。それなら、この、ささやかだけど、傷ついた人間たちの気持ちに寄り添いつつ書いた劇を上演するということは……政治的な立ち位置を表明することになるぞ、と」。芝居にそこまで注意深く意識を込めることも、彼の視点からすれば、権力者たちへの鋭い批判になるわけだ。「芸術作品を創造するというプロジェクトそのものが、ある価値観を世の中に発信するということ。僕たちのやり方は理性的と言えると思う。そしてそんな活動が、このとんでもない時代に生きている僕たちなりの意思表示なんだ」
グレゴリーの監督としての才能はダメ出しにあるのではなく、実際に彼が役者に細かい指示を出すことはほとんどない、とショーンは言う。ショーンから見たグレゴリーの才能とは、穏やかな温和さ、他人のアイデアを許容する包容力、活力にあふれてイキイキしているところだという。アーリーいわく、ショーンもグレゴリーと同じような態度でリハーサルに臨むため、時には雰囲気が親密すぎて居心地悪く感じるほどだという。「演技をするときに、劇作家本人と、顔と顔をつきあわせて目をじっと見つめ合うと、まるで彼に向かって直接演技をしているような気持ちになる」とアーリーは言う。

映画『プリンセス・ブライド・ストーリー』(1987年)でビジニの衣装をまとって。
20TH CENTURY FOX VIA CAPITAL PICTURES
ショーンにとって、今世界中で起きている出来事の多くは、残酷で無情であるだけでなく、奇妙でもある。だからこそ「信じられない」という言葉が彼の人生とは切っても切れないという事実が、もはや単なる偶然だとは思えない(実際、この言葉は彼が脚本を書いた映画『マイ・ディナー・ウィズ・アンドレ』の中でショーンが演じた人物の台詞としても出てくる。「今、誰もが意味のある人生を送ることができるなんて、信じられない」)。
2022年に米国の掲示板サイト、レディット(Reddit)のスレッドに、参加者のひとりが、ファンが彼のことをジョークにしたり、またはファンが通りすぎるときにひと言叫んで去っていくのを迷惑だと思っているか、と質問した。「彼らに悪気はないとわかってる」とショーンはコメントを返信した。「でも、誰にとっても過小評価されるのはうれしいことじゃないよね」。すると、別の参加者がショーンにこう反論した。それは単なる軽い冗談をはるかに超えた深いコメントだった。ショーンの作品を愛するひとりとして、彼は「信じられない!」というあの台詞こそが「現実世界の壁に小さく空いた亀裂のようなものだった。そしてその亀裂が扉の役割を果たし、その向こう側に広がる神秘に満ちた、あなたがつくり出すワクワクする世界を見ることができたんだ」と。
ショーンは昨年春にウースター・グループが制作し、リチャード・フォアマンが戯曲を書いた『Symphony of Rats(シンフォニー・オブ・ラッツ)』を劇場に観に行ったときに、観客のひとりから写真撮影をせがまれた。「ごめんね、この芸術の要塞の中で、写真はちょっと」と彼は渋った。彼は、前衛芸術を担う俳優仲間たちの目の前で、ポップカルチャーのセレブリティの役割を担う自分が露呈してしまったのを、恥ずかしがっているようだった。「彼はお高くとまってるから」とエリザベス・ルコンプトが愛情を込めて言った。まるでこれ以上の褒め言葉はないと言わんばかりに。それでも、ケイト・ヴァルクはショーンに大衆から認められていることをポジティブに受け取ったほうがいいと伝えた。「ほら、遠慮はいらないから」と彼女は彼に言った。「ファンがしてほしいことをしてあげなくちゃ」
そしてその次の瞬間、少なくとも、彼はそれを実行したのだった。
※カタカナの人名表記は、編集部の判断により日本で広く使われている表記を使用しています。
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