世界が注目する刺繍作家、沖潤子。魂を解き放つ作品が生み出される経緯を、作家・光野桃が尋ねる

BY MOMO MITSUNO

 2009年の初夏、バッグや服を作って卸していた青山のセレクトショップで初めての個展を開くことになった。転機はそこに訪れる。個展を観た知人の一人から、クラフトの世界ではなく、もっと違う方向へ行けるのではないか、と言われたのだ。
 知人は沖さんに、スペインを代表する画家、アントニ・タピエスの画集を見せた。「タピエスは、フランコ政権に抵抗し、内面を表現して作風がどんどん変わっていった画家。その情熱の塊のような作品にすごいショックを受けました。わたしはこっちへ行きたい、こっちがどっちかわからないけれど、とにかくこっちへ行きたい、と思ったんです」。それから意識が変わった。仕入れ先に気に入られる優等生的なものではなく、作るべき、自分にしかできないものは何か―。ちょうど芽衣さんも独立して家を出た。そのタイミングで夫とも別れ、ひとりで生きることを決意する。そうしなければ、メラメラと燃えている創作への種火を自分で吹き消すことになってしまう、と直観したからだ。46歳のときだった。それ以降、沖さんは、目的を持たずに作ること、頭で考えない、作為的にしないことを自分に課してきたという。
 沖さんの作品は、ひとの心を解き放つ力をもつ。それはなぜだろう。ひとつひとつの針目を飛ばさずに刺すことでしか進めない、時間の確実さだろうか。一度止めてもまた刺し、切ったり貼ったりしてまったく違うものができ上がる、布と糸の自在さだろうか。おそらく沖さん自身が格闘しながら、根源的な自分と向き合う旅を続けているということなのだろう。二度の離婚、巣立つ娘への喪失感に見舞われたときも、「状況の奴隷になりたくない、ネガティブな感情に宿られてたまるか、と手を動かしつづけました。それでどれほど満たされたかわかりません」と沖さんは言う。

―こうなったらもう、わたしはわたしに忠実でなくてどうする。それだけが私にできる唯一の仕事なのです―
(『PUNK』「刊行によせて」より抜粋)
針と糸を持つその姿は、神話の中の原初の母のようにも見える。

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