日本のファッション、そしてデザインを世界に向けて発信しつづけた三宅一生。2022年に逝去したデザイナーが遺したものを、彼の志を受け継ぐ者たちの言葉を通して、今、振り返る。ひとり目は、「ISSEY MIYAKE」の現デザイナー、近藤悟史

BY MAKIKO TAKAHASHI, PHOTOGRAPHS BY YUKI KUMAGAI, STYLED BY NAOMI SHIMIZU, HAIR & MAKEUP BY HIROKO ISHIKAWA, MODEL BY YUMEMI ISHIDA, EDITED BY JUN ISHIDA

 つい先日、引っ越しの片づけで古い取材ノートをめくったら、昨年に亡くなった三宅一生のインタビュー時のメモが現れた。2007年秋。機能と汎用性、美的感覚に富んだ服づくりで世界的に活躍したデザイナーである三宅について、回顧的な記事を書くために改めて来し方を聞いたときのものだった。

 ファッションを志す多摩美術大学生だった1960年、日本で行われた国際デザイン会議で「議題にファッションが不在」と事務局に質問状を出したこと。大学卒業後にパリで修業中の60年代末、自由を求めて市民が声を上げた五月革命や米ヒッピー運動に遭遇。「多くの人が自由で心地よく、自分らしくいられる服を作ろう」と決めたこと。

 帰国して1970年に会社を設立。人間の服は一枚の布で覆うことであると気づき、身体と布の間の空間と身体の動きが服の形を作るという「一枚の布」の考え方を発想の原点に。そのために身体についての勉強に励み、’73年からパリ・コレに参加。だが、当時は洋装の歴史を持たない日本人としての限界を感じ、「やればやるほどむなしさを感じた」という。

 そうした疑問から「ジーンズのように誰でもいつでも着られる服」として、’88年から独自の製法でひだをとった「プリーツ」を研究開発。日本のハイテク技術による合成繊維を用い、プロダクトデザインとして発展させる。「砂漠で水を見つけたようでした」と謙虚にユーモアを交えて語る言葉がノートに記されていた。

 その後も、買った人がハサミを入れて仕上げる筒状ニットの「A-POC」、幾何学的な形状に折り畳める「132 5. ISSEY MIYAKE」を生んだ。「8 ~10年でひとつの仕事をまとめて、次を探す。デザイナーはその時代に対して責任があると思うから」

 ’99年に「ISSEY MIYAKE」のデザインを後任に渡したあとも、東京に開いたギャラリーで「デザインとは何か」を追求した。探究しつづけたのは、「再生と再創造」や「人間の未来を作る美」。その創造の源には幼少期の被爆体験があった。「壊すのではなくつくることへ。美や喜びを喚起してくれるものへ目を向けようとしてきた」と『ニューヨーク・タイムズ』紙への寄稿で明かした。

 ノートの最後にはその哲学が。「常に面白い仕事をやりたい。見たことのないことや、やり方で。それを成し遂げるのに人との出会いが重要」。出会い、育む。優れた人材育成でも知られる三宅。その姿勢や物を作る多くの人たちへのまなざしの深さは、亡くなった今も確かに届き続けている。

「一生さんは何をおいても希望を届けていたのだと思う。そんな未来への希望をしっかり表現していければ」──近藤悟史

画像: デザインチームが手で制作した彫刻のトルソーを一枚の布で表現したシリーズに、さらにプリントを施した「TORSO JUXTAPOSE」のドレス。 ドレス¥132,000/イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE) TEL:03-5454-1705 靴¥44,000/ルック ブティック事業部(レペット) TEL:03-6439-1673

デザインチームが手で制作した彫刻のトルソーを一枚の布で表現したシリーズに、さらにプリントを施した「TORSO JUXTAPOSE」のドレス。

ドレス¥132,000/イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE) TEL:03-5454-1705 靴¥44,000/ルック ブティック事業部(レペット) TEL:03-6439-1673

「常に前に進みなさい」。ISSEY MIYAKEの現デザイナー、近藤悟史は三宅によくそう助言されたという。「好奇心と自由さを持ち、ものづくりのプロセスを大事にすること」。「最後の最後まで諦めずに考え続けること」。忘れられない言葉だ。

 近藤はそんな教えを基本に、近作でも植物から生の力強さを抽出し、静寂と高揚など自分の中の感覚を掘り下げて新しい手法や造形を生み出してきた。

 イッセイ ミヤケの自由な社風に憧れて入社。「PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE」などを手がけるなか、「一生さんの普段の何げない会話の中に学ぶことが多く、その刺激が自分の原動力になった」と話す。社員みんなが楽しみながら、「まだ見ぬ美」を探し求めて丁寧に開発していくという組織を三宅が作ったことにも感謝する。

 近藤のものづくりにかける熱意も三宅の教え。プリーツひとつに何度も熱加工してひだの具合を探ったり、東レとの提携による100%植物由来のポリエステル繊維を応用した素材を使用したり。三宅は「君は諦めないのがいいね」と言葉をかけたという。

 三宅が逝去した月の翌月にあったパリ・コレで近藤は、その功績を脈々と受け継ぎ進化させた作品で、大きな拍手を受けた。今後も「服を通して、人々の生活を豊かにすること、美や喜びを届けるという強い信念を受け継いでいきたい」という。また、「一生さんは何をおいても希望を届けていたのだと思う。そんな未来への希望をしっかり表現していければ」とも語る。

近藤悟史
1984年生まれ。2007年イッセイ ミヤケに入社し、PLEATS PLEASE ISSEYMIYAKEのデザインチームに参加、担当デザイナーに。HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE担当デザイナーを経て、’19年ISSEY MIYAKEデザイナー就任。’23年1 月、新店舗「ISSEYMIYAKE GINZA / 442」オープン。

三宅一生(みやけ いっせい)
1938年広島県生まれ。多摩美術大学を卒業後、’65年に渡仏し、パリの洋裁組合の学校を経てジバンシィなどで働く。’70年に帰国。’73年からパリ・コレに参加。「一枚の布」という考え方をもとに、日本のハイテク技術とデザインを融合した服づくりを貫く。代表作は「PLEATSPLEASE ISSEY MIYAKE」や「A-POC」など。2022年8月に肝細胞がんのため逝去。

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