BY HANYA YANAGIHARA, PHOTOGRAPHS BY KYOKO HAMADA, TRANSLATED BY T JAPAN
それはクリスマスのことだった。私は地球上でいちばん猫だらけの場所である青島に行く予定だった。東京から南西に約500マイル、瀬戸内海に浮かぶ青島。 4年前の朝日新聞によると、この島は約51万平方メートル(東京ドーム約10個分)にも満たない面積で、住んでいる人間は6人、全員が高齢者である。そして数えきれないほどの猫──数百匹とも言われているが正確な数は誰も知らない──が暮らしているのだ。レストランもなければ、ゲストハウスもない。ここにたどり着くには、四国の長浜港から1日2便のフェリーに乗って35分という手段しかない。私と友人で雑誌編集者のミホコは、長浜港まで車で約1時間の松山市に数日前から滞在していた。ここは江戸時代には大名が住んでいて、現在はみかんの産地としても知られる中堅都市だ。
数日前から全国的に強風が吹き荒れ(東京の空港では、福岡行きの飛行機が「風の影響で東京に戻ることがありますのでご了承ください」とアナウンスされていた)、ミホコがフェリーが定刻に出るかどうか港に電話すると、港の責任者から「雪と風の影響で波の流れが異常に強く、前日中止になったフェリーは今日も中止になる」と言われた。「明日はどうなるんですか?」とミホコが尋ねると、「何とも言えない」と責任者は言った。「出航するかもしれないし、しないかもしれない」──これは、とても日本的な回答だ。
今回四国に来たのは、猫だらけの島を見て、たくさん写真を撮って、猫好きの友人たちに自慢するためだった。彼らがどんなに羨ましがるか、想像するのが楽しかったのだ。ミホコもがっかりしていた。ホテルの隣のコンビニで、重い袋に入ったキャットフードとおやつを買ってきたのだが、それを東京に持ち帰って、自分の飼い猫であるムンシータにあげるはめになってしまった。
「心配しないで 」とミホコは言った。彼女はすでに気を取り直して、私を励ますモードに入っている。「日本には、猫がたくさんいる場所がほかにもいろいろあるんだから」。「でも、青島の猫が見たかったの」と私は嘆いた。その時点で私たちは夕食を食べていた。私の絶望は、アメリカではもう存在しないが占領後に流行したアメリカンスタイルのコーヒーショップでのブランチから、全国に12か所しか残っていない、江戸時代に建造された天守閣が現存する松山城(1627年築)を訪れるまで続いたのだった。
一日中、私がすねたり、神や天候や港の責任者に対して断続的に暴言を吐いたりしていると、ミホコは辛抱強く道端にいる猫を指差して、「ほら、あそこの祠の近くで体を舐めている子がいる」とか、「切れ長の目でこちらを見ている子がいるよ」などと言ったり、猫のトリビアを教えてくれたりした。20世紀初頭の社会を猫の語り口で風刺した『吾輩は猫である』(1906年)の作者である夏目漱石は、日本の偉大な近代作家のひとりだが、松山の中学で英語を教えていたことがあるそうだ。土産物屋では、漱石の顔が焼き印されたクッキーが売られていた。
翌日、フェリーが出なかったので私たちは東京に戻り、夜には日本の猫についてのメールを送り、日本に10ほどある猫島や猫のテーマパーク、猫神社に簡単に行く方法はないかと考えていた(そのほとんどは東京よりも西に位置している)。しかし、どれも電車で行くには遠すぎるし、風が吹き続けているので、どの島にも行けるかどうかもわからない。
そんな私の必死さに、ミホコは戸惑い始めているようだった。彼女にとっては、日本は猫大国なのだ。お金を払えば猫と一緒にコーヒーが飲める猫カフェができるほど、猫は日本にとって重要な存在なのだ。東京にいながら青島に行く必要があるのか? すでに猫の島にいるのに、わざわざ猫だらけの島に行く必要があるのだろうか? 日本にいることは、すでに猫に囲まれているということなのだ──そのことに気づけばいいだけなのだった。
天ぷら、桜の木、味噌など、日本人が自分たちのものだと思いがちな多くのものと同様、猫は輸入品であった。動物学者の今泉忠明は、最初の猫は6世紀にインドから中国を経由してシルクロードの新商品としてやってきたと指摘している(他の歴史家は朝鮮半島経由でやってきたとしている)。その猫はすぐに何らかの形で働かされていたと考えられる。日本は古くから農業国であり、農家や穀倉地帯ではネズミを追い払うために猫が大切にされていただろう。だが同時に、日本は宮廷文化圏でもあり、猫は宮中の女性たちに娯楽を提供し、飛び跳ねたり、後をついて回ったり、戯れたり、毛づくろいするなど、猫がその種が誕生したときから行ってきたあらゆる仕草を見て喜んだことだろう。
14世紀には、『枕草子』、『源氏物語』、『徒然草』などの著名な書物に猫が登場するようになった(『源氏物語』では、猫が重要な場面で活躍する。猫が逃げまどう間に御簾を引っ張り、ある大臣の子息が簾の向こうにいる若き姫君を垣間見て、絶望的な恋に落ちるのである)。猫は、その後の時代、特に江戸と明治の重要な絵画や文学作品にも登場する。歌川広重の『名所江戸百景』(1857年)の「浅草田圃酉の町詣」は、窓の外を見つめるふくよかな白猫が、鑑賞者に背を向けて描かれている。布にくるまれた漆塗りの髪飾りが畳の上に置かれているところから、飼い主である花魁と同じように、甘やかされ、慕われながら囚われの身であることが伝わってくる。
この国の最も永続的な2つの猫のアイコンは、数世紀を隔てて生み出された。1974年に誕生したハローキティは、第一次カワイイ文化の大使となり、そのイラストは消しゴムやエプロンから、生理用品にまでプリントされて世界中に出荷された(ハローキティの公式プロフィールによれば、日本ではなくロンドン郊外に住んでおり、作者によれば、猫ではなく人間である)。しかしハローキティや、それよりも先に人気を博していたドラえもん(青くて耳のない猫型ロボット)よりもはるか昔に、「招き猫」が誕生していたのである。
招き猫は、首から鈴を下げ、前足を耳元まで上げて挨拶しているトロンとした目の猫の置物で、その多くは白い陶器製だ。日本ではよく見かけるものなので、しばらくすると見慣れて目に入ってこなくなるかもしれない。松山から戻って数日後、私はミホコと東京都内の世田谷に出かけた。そこには江戸時代の寺院、豪徳寺があり、招き猫を祀っているのだ。
雲ひとつない、よく晴れて寒さの厳しい12月のある日。最寄り駅から寺に向かって歩いた世田谷の街並みは、現代の東京のパッチワーク的な性質をよく表していた。ロンドンやニューヨークと違って、この地の建物のほとんどは、第二次世界大戦時に首都が爆撃で破壊され、戦後の経済が大きく刷新されたときに建てられたもので、見た感じは地味な印象だ。高層ビルが建ち並ぶ大通りから一本入ると、そこは郊外の通りだ。2階建ての民家が立ち並び、車道には小さな車が連なり、生垣には艶めく葉をたずさえた椿、柿の木には雄鶏サイズのカラスがとまっており、その不穏な鳴き声が街のサウンドトラックのひとつになっている。
15分ほど歩くと豪徳寺の外周を囲む高い石垣が現れ、ほぼ1ブロック分を占めている。豪徳寺は単なる寺院ではなく、徳川幕府に仕えた幕臣、井伊直弼の埋葬地でもある。しかし、この寺は神話と結びついたほうが、より好ましい。──むかしむかし、小さくて貧しい寺があった。和尚さんは寺の維持に頭を悩ませていた。彼は少ない食料を飼い猫に分け与え、献身的に世話をしていた。ある日、和尚さんは猫に言った。「私を助けたければ、どうか寺に幸運を運んできておくれ 」。
数ヵ月後、侍の一団が寺に近づいてきた。通り過ぎようとしたとき、猫が手招きしているのが見えた。侍たちは驚いて境内に入るとちょうど雨が降ってきた。和尚にお茶をご馳走になった侍たちは和尚からいきさつを聞いて感動し、自分たちが体験したことを他の人たちも体験できるようにと、寺に土地とお金を寄進した。やがて猫が死ぬと、和尚は猫が寺にもたらした幸運を称えることにした。こうして招き猫が生まれ、この寺が招き猫を祀るようになったのだ(寺が参拝客に配る資料にはそう書かれているが、「私が聞いた話とは違う」とミホコは言う。「ある日、旅人の一団が寺の前を通りかかったところ雨が降り始め、手招きしている猫に気がついた。そのおかげで雨宿りできたので、招き猫は幸運とおもてなしのしるしなのだ」)。
日本に行ったことのある人なら、どの町にも少なくともひとつの仏教寺院と神社があることを知っている。そのほとんどは、きれいに掃除された庭と暗い本堂があるが、どれも元旦にだけ開かれるような質素なものだ。しかし、中には豊かな寺もある。庭はよく手入れされ、木々は切りそろえられ、竹垣は青々としている。豪徳寺は豊かな寺である。参道の中央に、井伊家の紋である橘が金で押された、大きくて華やかな鉄製の香炉に出会った。猫好きの巡礼者が何十年にもわたってお賽銭とともに幸運を祈願したり、ほかの多くの商売に精通した寺院と同様に、陶器の招き猫という魅力的な商品を販売したりしているため、このような豊かな場所になっているのだ。招き猫は一番大きなもので高さ1フィート(約30㎝)、一番小さなものはわずか1インチ(約2.5㎝)といったところだ。
寺には、参拝者が購入し、名前や願い事を書き込んだり、幸運を祈るために奉納していった何千もの招き猫を陳列する棚がいくつもある。こんなにたくさんの猫が一か所に集まっている様子は驚くべきもので、午後の日差しが差し込む静けさと、猫の表情が読めないことから、夜になると猫たちが一斉に動き出し、本物の猫に変身して境内を静かに徘徊し、夜明け前になると陶器の姿に戻るといったイメージが容易に想像できるのだ。日本はコロナ禍によって数年間にわたる厳しい渡航規制が敷かれていたが、つい最近海外からの観光客の受け入れを再開したところだ。その日は韓国やフィリピンの観光客が数人、ビジネスライクに自撮りをしているだけで、ほとんど人がいなかった。
私とミホコは、招き猫を置くのにちょうどいい場所を探して棚の間をねり歩き、最終的に寺の窓枠の下に猫を置いた。屋外にもかかわらず、猫たちはみな清潔で、緋色に塗られた首輪も鮮やかだった。風雨にさらされた猫たちの頭上には、日本では「もみじ」と呼ばれる小さな楓の葉がベレー帽のように数枚落ちており、額には薄汚れた跡がある。また前足を上げた姿は、猫が前足を顔にこすりつけて舐めるしぐさに似ているので、より生き生きとした様子に見える。観光客が招き猫に出会うとき、猫たちは手招きしているのではなく、自分の欲求を満たすためにそうしているのであり、その自分勝手さこそが、猫好きの憧れの対象なのだ。
おそらく招き猫を倒してしまうからだと思うが、この寺には実物の猫はいなかった。これだけの数の無機物が無防備に棚に置かれているのを見ると、どんなに律儀な猫でも耐えられないだろう。もし本物の猫が寺院に入り込んでいたら、前足を一振りしただけで何千もの人々の希望が粉々に散り、境内は砕けた陶器であふれかえることだろう。
もちろん、猫を愛する文化は日本だけのものではないし、ほかの誰よりも猫を愛していると断言することもできない。しかし日本人は、ほかの誰よりも猫を神話化することに時間を費やしてきたと言うことはできるかもしれない。日本人は猫に対して、愛よりももっと複雑で、それゆえに強力なもの、つまり好意と同時に恐怖と畏怖の念を抱いているようだ。日本には神聖な動物がいる。特に鹿は、日本固有の信仰体系である神道において、神の使いとされることが多い。猫は、狐や狸など、なだめなければならない動物とは別のグループに近いと言えるかもしれない。
日本人は狐に警戒心を抱いており、東アジアではキツネは変身する動物であると考えられている。悪意があるわけではないが、悪ふざけ好きなので、彼らを上機嫌にさせるために多くの時間が費やされる。稲荷神社は、財宝、家内、米、酒、狐を守る神として知られる稲荷神を祀る神社で、経営者や主婦層に人気がある。しかし稲荷の様々な恩恵は、いつしか狐に象徴されるようになった。米を好むのは稲荷ではなく狐であり、彼らは縁起を担ぐものだ。
京都の伏見稲荷大社は15世紀に建てられた日本有数の美しい神社で、何十体もの狐の石像があり、その足元に狐の好物とされる油揚げでご飯を包んだ「いなり寿司」を供えていく人がいる。狐は美しい女性の姿をしていることでも知られており、遊びや金銭のために不運な男を誘惑することがある。私は、最近まで東京に住んでいた友人のビターと伏見稲荷に行ったことがあるのだが、彼はすれ違う女性の3人目ごとに、それが変装した狐だと確信したようだった。黒いプリーツのロングスカートをはいた若くて美しい女性が私たちの前を通り過ぎたとき、彼は「あの子を見たか?」とささやいた。「彼女は狐に違いない」。そして、アナグマ、正確には日本の狸はファルスタッフ的な存在で、腹が大きく陽気で、酔っ払っていて遊び好き(一般的な狸のイメージは旅人の笠をかぶり、酒瓶を持っている)だが、頭が悪く頼りにならない。彼らもまた変身する者と考えられているが、その目的は、より多くの食べ物と酒を得たり、より多くの無害ないたずらをするためなど、悪意はなく利己的なものだ。
たいていの場合、これらの動物は人間と平和に共存している(適切な敬意を払う限りは。松山を散策していたとき、狸を祀る一時しのぎの神社を通りかかった。高さ30㎝ほどの狸の古びた石像があり、その脇には野草の花束が2つほど置かれ、小さな酒樽が置かれているだけだった。地味で素朴なものだったが、ミホコは立ち止まって軽くお辞儀をしたし、ほかの通行人もそうだった) 。しかし時々、人間の過失によらず、このカテゴリーの生き物が激怒したり憑依したりすると、突然、それまでの猫は猫ではなくなる── それは化け物(鬼)なのだ。
日本では、鬼の話をするのに多くの時間を費やすことになる。鬼の話が出ても、その口調はたいていカジュアルであり、事実に即しているかのようなのだ。以前、ビターと私は京都の森の中にあるお寺からトレッキングで下山する途中、中年のツアーガイドを連れた老夫婦とすれ違った。「夜、ここに来るのはやめたほうがいいですよ。森にはいろいろなものが出るから 」と、そのガイドは陽気に話し、その夫婦は 至って普通に「そうだね 」と返事していた。ソフトウェアエンジニアであり、悪魔を熱心に信仰するビターは、ガイドの女性が選んだ「魔物」という言葉にいささか衝撃を受けていた。
猫は特に魔物になりやすい。妖怪や幽霊という意味を持つということで、「鬼」という言葉で表現されることが多い。2021年に出版された『Kaibyo: The Supernatural Cats ofJapan(怪猫:日本における超常現象の猫)』の著者であるザック・ダビソンは、「怪猫」を5つのカテゴリーに分類している。「尾が分かれた猫又、姿を変える化け猫、猫と人間のハイブリッド猫娘、招き猫、死体泥棒の火車(その正体は猫とされている)」。猫ほど魔物のバリエーションが多い動物はほかにはないと、彼は(少し感心しながら)指摘している。
この分類の中で、悪性の程度はさまざまだ。その中でも最もよく知られているのが、化け猫である。しかし、化け猫とは何なのだろう? 人間のようになった猫なのだろうか。それとも、ある日突然、後ろ足で立ち上がり憑依を宣言する猫なのだろうか(伝統的な浮世絵では、化け猫はしばしば巨大化し、マストドンのように誇張された牙と、野性的で嬉々とした黄色い目で描かれている)。果たしてそれは、私たちに大きな害をもたらすものなのか、それとも単に警戒心を抱かせるだけのものなのか。
ここで、否定できないが非常に主観的である民間伝承の限界にぶつかる。これはどこの国でも言えることだが、おそらく日本では最も顕著であろう。例えば、ほとんどの動物や一部の人間が妖怪になることは誰もが認めるところだが、その方法と理由については誰も同意していない。しかし、ある人は、座敷童子に対する一種の回答として、化け猫が進化したのだという。かつて日本のある地方には、子供が多すぎて養えない場合に行われる口べらしのための嬰児殺しの習慣があった。そして死んだ赤ん坊は幽霊になって帰ってくることが多く、座敷童子が家の壁を揺らしながら鳴き声をあげる。化け猫の鳴き声が人間の赤ちゃんに似ており、命を奪われた赤ちゃんよりも、猫に取り憑かれる方がずっと気持ちが楽ということだった。
しかし「そんな話は聞いたことがない」とビターは言った。「自分が聞いたのは、猫が10年以上生きるようになると、とても大きくなって鬼になるという話だよ」。「“鬼になる "ってどういうこと?」と、私は尋ねた。「年老いているから鬼になるんだよ」と彼は言った。「つまり、10歳以上の猫は鬼になる可能性が高いか、その途上にある、ということ?」「イエス」(ビターには2匹の猫を飼っているが、そのうちの1匹は10歳で、おそらくもうすぐ鬼になるのだろうとビターは言った。日本の民俗学では、超高齢の生き物は一般に魔物に変身しやすいと考えられており、そのような考えが広まった江戸時代には、猫にとって10歳はまさに老齢であった)。
しかし、この猫の複雑な評判は、予測不可能な生き物を尊重する日本の文化において、猫が重要であることのさらなる証拠と解釈することもできる。猫は、日本に届いた最古の仏教経典の守護神であったという説がある。釈迦が死んだとき、公に弔えなかった動物は蛇と猫の2匹だけであったという。ほかの国や文化では、このことで猫を敬遠することがあったかもしれないが、日本人はそうはしなかった。むしろ、紀元前に釈迦が亡くなって何世紀も経ってからこのことを知ったことで、人々の目に猫が写るようになったようだ。日本人のように礼儀作法を重んじる文化圏では、実は同時に反抗心というものも密かに重視され、猫には羨ましいほどの反抗心、立派な自己主張が見られるといえるのかもしれない。言うことをきかず気まぐれ、そんな生き物がここにいる。自分自身の不可解な道をあえて選ぶ生き物、そして、大切にすべき生き物であり、同時に恐れるべき生き物でもあった。
6世紀、日本にやってきた文化を揺るがすものは、猫だけではない。もうひとつは、仏教である。仏教よりも前に、日本には神道があった。多くの信仰体系では、神聖なものをひとつとは言わないまでも、いくつかの存在や形に限定しようとするが、神道はその逆を行く。あなたの考え方しだいでそれは寛大でもあり、困惑にもなる。神道では、人、動物、岩や木など、あらゆるものが神となりうるからだ。日本の整理収納術の第一人者である近藤麻理恵は、ゴミ箱行きになりそうなモノについて、「これは私に喜びをもたらすか?」──こんな判断をする権利を人間に与えている。神道では、すべてのものが、ほかのものに対して同じ質問をすることができるようだ。
日本で動物に人格が与えられているのは、間違いなく神道によるところだ。キリスト教やユダヤ教、イスラム教の物語において、動物が占める割合がいかに小さいかを思い知らされる。これらの宗教の関心事は人間の魂だ。しかし神道では、人間は生き物の宇宙の中に置かれ、人間の方がほかの生き物より重要であるとすれば、それはほんのわずかのことなのだ。
仏教は日本中に急速に広まったが、神道を駆逐することはなく、むしろ神道を受け入れるだけの十分な弾力性があった。この2つの制度は、想像力豊かで活気に満ちた民俗的な伝統とともに、互いに影響し合い、豊かにして、独特の融合した文化を作り上げた。この文化は、民族主義信仰の象徴として作り直した神道を外国の介入による仏教から正式に分離し、仏教寺院と神社に儀式や慣習を区別するよう政府が1868年に命じるまで続いたのである。アメリカ海軍提督マシュー・ペリーが、千年ものあいだ鎖国していた日本を西洋に開かせたのは、そのわずか15年前のことだ。その次の世紀に頂点に達することになる日本のナショナリズムの感情は、このころからすでに醸成されていたのだ。
しかし、「神仏分離」と呼ばれる分離政策にもかかわらず、国民の日常生活にはほとんど影響がなかった。仏教の僧侶や寺院は葬儀や先祖供養を行い、人々は神社で祈りを捧げ続けた。日本において仏教が死を意味するのであれば、神道は生を意味する。
青島のような場所が存在する理由のひとつも、間違いなく神道だ。日本には数多くの猫島だけでなく、猿島もあれば、兎島もあり、鹿の島もある。さらに鹿の都、奈良は8世紀の首都で、1000頭以上のニホンジカが生息している。彼らはメインパークである奈良公園を支配し、ときどき観光客を小突いて襲いかかろうとするが、看板で彼らに敵対しないよう警告されている。奈良の鹿は、追いかけてくるようなエキサイティングな面もあるが、一般的に日本では、動物はそこにいるものであり、彼らを受け入れるのが自分たちの仕事であるという考え方があるようだ。
私は、人間が自然界に対して行ったことを考えると、日本には人間であることに奇妙な相反する感情があるように感じてきた。宮崎駿監督は、『もののけ姫』(1997年)と『千と千尋の神隠し』(2001年)で、人間と動物の間の上下関係が不安定な、ポストヒューマンの日本のビジョンを描いている。『千と千尋の神隠し』では、20世紀末の銭湯を舞台に、人間は罰として動物に変身させられるが、動物たち(中にはキメラもいる)は人間の上司でもあり、人間を働かせたり罰を与えたりする責任を負っている。その中で、神々は恐ろしくもあり、陽気でもあり、みんな風呂に入りたがっていて、人間たちを好奇心を持って観察している。
最近この映画を改めて観て思ったのは、青島の人間(今は5人になってしまったが)は、猫たちに餌をやるのが仕事だということだ。四国にはボランティア団体があり、海が穏やかなときに追加の餌や物資を運んでくれる。しかし、この5人が島を去るべきだとは誰も言わない。青島は彼らの家であり、猫たちに餌をやるのは彼らの義務だからだ。猫は自立しているが、猿や狐、鹿とは違うのだ。彼らは人間を頼っており、また私たちが作りだすゴミがネズミを呼びよせるのだ。
青島は、現代の食物連鎖の逆を行くような場所である。少なすぎる人間に少なすぎるゴミ、少なすぎるネズミに、多すぎる猫。その関係性は、宮崎の悪夢か、宮崎のファンタジーか、その区別がつかないようなものであった。 猫たちは人間を人質にしているのか、それとも人間に世話をする特権があるのか。青島では誰が本当の責任者なのか? それとも、青島の状況を上下関係で考えるのは間違いなのか? 青島は、神道的な共生の典型例であり、状況に応じて、ある日、人間が主導権を握り、ある日、目覚めるともう主導権を握っていないことに気づくのだろうか? 人間の時代は終わりに近づいているのかもしれない。私たちが奪った動物から、私たちは動物へと戻されるのだ。
豪徳寺のあと、私とミホコは、猫の社会をもう一度探そうと思い、電車に乗って都内の北部にある谷中という地域に向かった。谷中は、根津や千駄木を含む谷根千という大きな地域の3分の1にあたる。かつては田んぼで、戦時中はほとんど爆撃を免れた地域で、現在は20世紀半ばの木造の家、近所の小さなお寺など、戦前の首都のタイムカプセルのような佇まいだ。東京の人はこのような街を「下町」と呼ぶ。「下町」とは、ダウンタウンのことだが、より雰囲気のある「古い町」という意味であり、どの地域にも豆腐屋や昔ながらの蝋引きの傘の専門店、ガラス瓶に入ったカリカリのおせんべいを売るせんべい屋があった時代の記憶をたずさえている。
車も少なく、歩行者専用道路やアーケードも多く、静かできれいなこの地域は、猫でも有名で、生きている猫はもちろん、猫の土産物や猫の形のお菓子を売る店も多い。10年ほど前にビターと一緒にここを訪れたとき──彼の“もうすぐ鬼になりそうな”飼い猫がまだ仔猫だったころ──彼が猫柄の手ぬぐいを2枚買って店を出たら、歩道の真ん中で猫の群れが休んでいるところに出くわした。ビターは膝をついて悲鳴のような歓声をあげ、ほかの通行人も同じように声をあげた。しかし、猫たちは、その注目をものともしない様子だった。オレンジ色の毛玉のような佇まいで日向ぼっこをし(日本の猫の多くはオレンジ色がかった茶トラか三毛柄だ)、尻尾の先をフリフリしてあくびをし、私たちを無視したのである。その素っ気なさもまた、猫好きにとってはたまらない一面だ。
しかし、今回は猫がどこにもいなかった。八百屋の日よけの上に、異様に大きくてハンサムな白猫が乗っていて、下の通りを眺めているのをやっと見つけたときには興奮したが、近づいてみると、それは偽物だった。糸状の通りを歩いていると、ガラス繊維やプラスチック製の猫が、日よけやバルコニーの上から、冬大根やトマトのような色をした京人参の陳列棚を覗き込んでいるのに気づいた。気まぐれな行動で大混乱を引き起こすかもしれないのを阻止してくれる置き物の猫に、感謝するべきだろう。誰が作ったのか、本質的な猫らしさを見事に表現しているものだった。
日も暮れたころ、ミホコと私は喫茶店に行き、猫がいないことについて話し合った。東京都は以前は、野良犬や野良猫などの殺処分を実践していた。彼らは人道的な施策だと主張しようとしたのかもしれない。つまり、猫たちが無制限に繁殖すれば、すべての猫に餌が行き渡らなくなり、多くの猫たちが餓死してしまう(その後、私は、猫が少ないからこそ貴重なのだとも考えた。奈良の鹿もそうだ。私たちが動物を大切にし続けるためには、ある種の管理が必要であり、それは私たちも管理されているということを政府が理解しているかのようだった)。しかし、喫茶店の店員に猫はどこに行ってしまったのかと尋ねると、彼女は平気な顔をして「寒いからよ」と言った。「どこかにいるわよ」──しかし、それがどこなのかは彼女は教えてくれなかったし、私たちも尋ねることはしなかった。猫たちは一時的にいなくなっただけで、猫らしく隠れているのだと思えば──まるで一時帰国を許されたかのように、ここからそう遠くないところにある居心地のいい家で谷根千の猫たちが眠り、鳴き、春を待ち、再びレンガの歩道に寝転んで崇拝者たちに囲まれているところを想像すれば、より慰めになるのだった。
あるいは、猫たちは私たちの知らないことを知っていると考えることもできるかもしれない。1,400万人の人口を擁する東京は世界有数の大都市であるが、日本の他の地域では人がいなくなりつつある。毎年、欧米のメディアでは、日本の小さな町や村を捨てて大都市に行く若者が増えているという暗い記事が掲載される。最も心を打つ記事のひとつは、2015年に『Foreign Affairs』に掲載された、四国の僻地の村「名頃」に関するものだ。当時、住民は35人しかおらず、そのほとんどが高齢者だった。村人のひとりが、等身大のぬいぐるみのようなかかし人形を縫って服を着せ、故郷を再現するために、かつて人々が働き、料理し、遊んでいた庭や家、通りに設置した。名頃にはもう子どもがいないから学校はもう必要なかったが、彼女は学校の教室を、本物の生徒の代わりに綿入れと糸で作った人形でいっぱいにした。やがてこの物語は、その諦観、悲しみ、ペーソスにおいておごそかな印象を与えるものだが、西洋人がこのような超越した孤独の物語を見せられたときにやりがちな「不思議な日本人」の証拠としての役割を担ってしまったのだった。
しかし、この統計は否定しがたいものだ。日本は先進国の中で最も高齢化が進んでいる社会だ。総務省が昨年発表したデータでは、65歳以上の人口は29.1%だが、2040年には35%になると予想している。今世紀中には日本は超高齢化し、毎年新しい命が生まれても、人間という生き物は少なくなっていく。化け猫が私たちを怖がらせるのではなく、私たちが化け猫を怖がらせ、私たちが鬼になるのだ。青島はもともと猫の島ではなかった。かつては多くの住人が住み、その中心は漁師たちで、猫を連れてきてはネズミ取りをしていたのだ。しかし、人間はある時期から代替が効かなくなったが、猫にはそのような問題は起こらなかった。そして今、原住民は侵入者に取って代わられたのだ。
翌週、私はニューヨークへ戻る飛行機の中で、東へ流れる窓の外を見ていた。東京はあまりにも広大で、上空から見ると、コンクリートのグリッドが幾重にも現れ、無限に広がっているように見える。私の眼下のどこかに青島があり、そこには5人の人間と数え切れないほどの猫がいて、また私の眼下のどこかに谷根千の猫や日本中の猫たちがいた。青島では餌を待ち、谷根千では天候の変化を待っている(と、私は信じたい)。猫は待ち方を知っている。そして、人間が餌を与えることを望むが、猫は生き延びる方法も知っている。
私は、猫の人生における人間の重要性を過大評価していたのではないか、すべての猫がそうなのではないかと考えさせられた。2017年に行われた古代の猫のミトコンドリアDNAの研究によると、羊や犬や馬など、現在私たちが一緒に暮らしている他のほとんどの動物とは異なり、猫は自分自身を家畜化していたという。 現代の家猫と野生の同胞との間には、ほとんど遺伝的な違いがない。つまり、猫は私たちを許容し、人間とともに生きていくことを決めたのだ。それを私たちが決めたと考えるのは、人間特有の思い上がりというものだ。そして、いずれは逆に──私たち人間はもはや楽しい仲間ではない、私たちとの交わりは終わりだ、という判断を猫たちが下す可能性もあるということだ。そのとき、彼らはどこへ行くのだろう。彼らだけが知っている別の惑星か? まだ海から湧き出ることのない別の島なのか?
もしかしたら、いつの日か日本列島から人間がいなくなる日が来るかもしれない。ここには猿が、あそこには鹿が、その間には兎がいるだけだろう。そして彼らの周りには、風の強い空っぽの小島や、長い間朽ち果てていた村に、何百万匹もの猫がいるはずだ。彼らは森に入り、巨大な杉の木によじ登り、自分から降りるのが怖くて鳴くのだ。猫たちは、人間の大きくて不器用な体、絶え間なく話すこと、夜目が利かず嗅覚が悪いこと、猫という神話を読み解こうとすること、猫への愛情を恋しがるのだろうか? 猫たちは、私たちが彼らに魅了されたことを説明するために構築した神話や芸術や物語を気にも留めず、私たちと猫の関係を記録する行為は一方的なものだったのだ。
それとも、猫にとっては訪問者でしかない人間のことは忘れて、別の種族のもとに住み着くのだろうか。猫を飼ったことのある人は、自分の人生を猫の数で計ることがある。猫の寿命は平均12~14年だから、運がよければ、人間の人生においては、仔猫時代から死ぬまで次から次へと6匹の猫を飼うことができるかもしれない。
しかし、もし猫が時間を計れるとしたら、どうやって計るのだろう? もしかしたら、その前に生きてきた人間の人生によって、1、2、3、4というように計ることができるかもしれない。1世紀、2世紀、3世紀、4世紀......延々と数え、瞬きし、ついに飽きるまで。そして、どこか別の場所を探しに行くのだ。どこでもいい。どこに行っても、彼らは王様になれる。彼らの前足が落ちたところには新しい神話が生まれ、彼らのひげが触れたところには、新しい種類の崇拝者が生まれる。日本は終わりではなく、始まりに過ぎなかったのだ。
*この記事は2023年5月14日に T Magazine に掲載された英文記事を翻訳したものです。