BY MEGAN O’GRADY, PAINTING BY WANGARI MATHENGE, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
芸術家同士の友情の逸話は、しばしばラブストーリーとして語られることが多い。偶然の出会いや、お互いに電流が流れるような初対面、そしてすべてを変えてしまうような、神秘的な共通認識などがそうだ。
1967年の夏の日、ニューヨークの書店で、ロバート・メイプルソープとパティ・スミスは偶然に出会った。ともに20歳のふたりは、美と永遠の生命に飢えていた。「彼の内なる宇宙を丸ごと知らなくては、という気持ちにさせられた」。スミスは2010年に出版された『ジャスト・キッズ』の中でそう書いている。1940年のある午後、当時まだ10代だった作家のジェイムズ・ボールドウィンは、グリニッチビレッジにある画家のビューフォード・ディレイニーのスタジオの扉を叩いた。ボールドウィンは1985年出版のエッセイ集『The Price of the Ticket(チケットの値段)』の中で、ディレイニーとの出会いをこう語っている。「私の人生で生まれて初めて見た、黒人男性でもアーティストになれるという、生きて歩いている証拠が彼だった」。
だが、必ずしもいつも雷に打たれるような邂逅ばかりではない。1917年に記された日記の中で、当時35歳だった作家のヴァージニア・ウルフは、夕食会で会ったニュージーランド生まれのモダニスト作家キャサリン・マンスフィールドについての印象を歯に衣着せずにこう書いている。「彼女はまるで、散歩に連れ出されたジャコウネコみたいな臭いがした」。ウルフは、マンスフィールドが驚くほど「凡庸」だったと記したうえで、こう書き残している。「そんな初対面の印象が消えると、彼女は実際、非常に知的で、得体の知れない魅力があり、それだけで十分友情に価した」。
マンスフィールドは当時、ウルフより若く、かつ、すでに作家としての名声を得ていた。ウルフは、そんなマンスフィールドへの憧れがその後、自分の中で瞬く間に膨らんでいくことをまだ知らなかった。お互いの間での文通や、文学の構想を語り合う情熱に満ちた知的なやりとりを、ウルフはこよなく愛した。1918年には、ウルフが経営するホガースプレス社から、マンスフィールドの傑作小説『Prelude(プレリュード)』が発売された。この小説は、ニュージーランドのある家族が故郷を離れて旅立つ物語で、主題が登場人物の意識の間を漂うように展開されていく。そして、マンスフィールドがウルフに対して沈黙し、距離を取るようになると、ウルフは傷ついた。旧友のはずのマンスフィールドが、1919年にウルフの2作目の小説『夜と昼』について好意的ではない批評を書くと、ウルフの心の傷はいっそう深まった。
マンスフィールドは、新世界が書き手に新しい要求をつきつけている今、作家たちは「私たちの新しい思想や感情のために、新しい表現や新しい型」を創造する義務を負うと書いた。これはつまり、ウルフが時代の要求に応えられていないと暗に示唆していた。ウルフの名誉のためにつけ加えると、ふたりの確執が薄れた頃に、ウルフはマンスフィールドにこれまでの態度についての説明を求めている。ウルフの次作の小説『ジェイコブの部屋』(1922年)では、のちにウルフの作風として知られるようになる、さまざまな断片的な場面をちりばめて内面描写を行う、新しいスタイルを打ち出した。ウルフはその後『ダロウェイ夫人』(1925年)と『燈台へ』(1927年)を書き、第一次世界大戦が近づく中、現実世界に存在する暴力が登場人物の内面に共鳴する様子を描いた。

アート作品の説明:この号の記事のために、私たちは友情をテーマにした作品を依頼し、選んだ。作品は原稿の内容をそのままビジュアルにしたものではない。上の作品は《The Ascendants XI(先祖たち11/旧約聖書『伝道の書』3章1-8節へのオマージュ)》(2021年)。シカゴを拠点とするワンガリ・マゼンゲが本誌のためだけに制作。マゼンゲはこう語る。「民族離散の中で、流浪の苦しみを癒やすものは何かということに個人的に興味がある。ここにいるふたりは異世界に行きたいのかもしれない。だが、今は彼らは自分たちのためにしつらえた空間で静かに心地よく座っている。あなたは誰と一緒にいると安全だと感じるのか? 彼らの存在を当たり前だと思っているかもしれないが、彼らは実は非常に大切な存在なのだ」
WANGARI MATHENGE, “THE ASCENDANTS XI (HOMAGE TO ECCLESIASTES THREE, ONE THROUGH EIGHT),” 2021, OIL ON CANVAS, COURTESY OF THE ARTIST AND ROBERTS PROJECTS. PHOTO BY BRIAN GRIFFIN
友情というものは――フェイスブック上の友ではなく、リアルな友人のことだが―― ある種のロマンスだと私は確信するようになった。そして、幻滅するような現実にさらされたときに、友情の真価が問われると信じている(思想家のラルフ・ワルド・エマーソンは「友の木霊になるよりも、友のすぐそばに生えるイラクサ<註:刺がある植物であることから、耳の痛いこともきちんと言ってくれる存在という意味>であれ」と記している)。同時に、真の友とは、移り変わる世界の中で、私たちの理想をそっと見守ってくれる頼れる存在でもある。また、どんな逆境でも自分のことを信じる手助けをしてくれる存在かもしれない。
芸術とは、完全な自己責任において、自分というものの輪郭をつくり上げる繊細な作業であり、その行為は結局のところ、ほとんどが想像力頼みだ。あらゆる創造的な営みにつきものの、作り手の内面の葛藤は、時として非常に厳しいものだ。才能がなかなか認められなかったり、経済的に不安定だったり、世の中に役立たないものを作っているのではないかという自己疑念だったり。そんなときに自分以外の誰かが、自分のことを信じてくれるだけで、大きく違う。私は1922年発行のマージェリー・ウィリアムズの児童書『ビロードのうさぎ』のことを思い出す。この作品の中で、ぬいぐるみのうさぎは、男の子に大事にされることによって自分は本物のうさぎだと信じるようになる。たとえ、後ろ足で軽々と跳び上がることができる森のうさぎたちが何と揶揄しようとも。
私たちは誰もが、自分の夢が日々の仕事や学生ローンや、家庭の制約や親しげな俗人などに阻まれて消滅していく痛みを知っている。アーティストの自己概念は、自分だけが信じる数々の神話の強度に依存していると言えるだろう。私たちの能力を信じ、やる気に火をつけてくれる人たちが周囲にいれば、自分はできるんだ、という意識が湧いてくる。
パティ・スミスいわく、彼女とロバート・メイプルソープの関係は運命的であり、両者がアウトサイダーであるという認識に根ざしていたという。そんなふたりはアート界において、既成のものとは違った何かを打ち立てるのだという決意に満ちていた(スミスとメイプルソープは恋人同士でもあったが、メイプルソープがゲイだったことで恋愛関係が終わったあとも、ふたりの友情は何年も続いた)。「彼を見ていると」と、スミスは、メイプルソープの死のほぼ20年後に出版した回顧録に書いている。「大事なのは作品なんだと理解できた。神によってインスパイアされた言葉が束ねられて一編の詩になり、紙にスケッチされた色と黒鉛が織りなす模様が、彼の動きをはっきり映し出す。そうやって作品の中で信仰と表現の完璧なバランスが実現する」。
ふたりは信仰と強い意志で、何年も貧しい生活を乗り切った。ゴキブリが出るようなアパートメントにふたりで住み、堅くなったパンを分け合って食べた。スミスの本の中で私が好きなエピソードがある。美術館の入場券を1枚買うためにふたりで貯金をし、順番にひとりずつ展覧会を観に行ったことを回想する部分だ。「いつかふたりで一緒に会場に入ろう。そしてそのとき展示されているのは僕たちの作品だ」と彼は彼女に言ったと、スミスは書いている。スミスの1975年のデビュー・アルバム『ホーセス』のジャケット写真を撮影したのはもちろんメイプルソープだ。その写真の中で、スミスは袖の部分を切り落とした真っ白なシャツを着て佇んでいる。この1枚のショットで彼女はいきなりアイコンになった(「シャツにシミがついてないか確認しろよ」と彼は彼女に言った)。

ウィッドライン・カデットの作品《Ice Cream for Dessert on Lu’s Birthday(ルーの誕生日にアイスクリームのデザート)》(2017年)
WIDLINE CADET, “ICE CREAM FOR DESSERT ON LU’S BIRTHDAY,” 2017, DISPOSABLE CAMERA
牧師の継子であるジェイムズ・ボールドウィンは、ビューフォード・ディレイニーを父親代わりと感じ、彼の不断の努力と高い倫理観、そして勇気をお手本として仰いでいた。一方、ディレイニーのほうは、ボールドウィンの社会への深い関心や人権問題への取り組みに感化されていた。後年、ディレイニーが精神面で次第に弱っていったときにも、ボールドウィンが彼を支えたようだ。
1984年に文学雑誌『パリ・レヴュー』に掲載されたインタビューでボールドウィンが、グリニッチビレッジの街角でディレイニーと信号が変わるのを待っていた瞬間のことを以下のように語っていて、この部分は今まで幾度となく引用されている。「彼はむこうを指さして『見てごらん』と言った。私が見ると、そこには水しかなかった。すると彼は『もう一度見て』と言った。そのとおりにすると、水の上に油が浮いていて、水たまりに街が反射しているのが見えた。それは私にとって非常に驚くべき発見だった。言葉では説明できない。彼は私にものを見るということを教えてくれ、見たものをどうやって信じるかを教えてくれた。画家たちは作家に、いかにして世界を見るかをしばしば教えてくれた。そしてそんな体験を味わうと、世界がまったく違って見えるんだ」
先入観を強く持たずに世界を見る方法を私に教えてくれた人々のことを考えてみると―― その方法とは、期待に沿うように、見たものの印象をすり替えるのではなく、自分が見たままを信じることだ―― 彼らはいつも私に本音で直言してくれる人々だということがわかる。私たちが、自分の主観にとらわれた牢獄から解放されるのは非常に稀な経験であり、それは芸術そのものとのワクワクするような出会いと似ている。他人の思考や、気の利いた言い回しや視点の中に、はっとするものを発見する瞬間だ。
アーティストたちの体験談を知ると、誰かと真にクリエイティブで親密な関係をつくり出すことは可能なのだと思えてくる。たとえば画家のサイ・トゥオンブリーと写真家のサリー・マンのことを考えてみよう。ふたりは、世代や表現分野は違えど、都会のアート界の中心から地理的に遠い、自分たちの故郷であるヴァージニア州のレキシントンに魅力を感じ、活動拠点を構えている。また、アーティストのマン・レイとマルセル・デュシャンは、最初は共通の言語を持っていなかったが、あるとき、ふたりはお互いいたずら好きであることに気づいた。
時にはそんな絆によって、文字どおり命拾いすることもある。1967年に、アメリカの画家ロバート・ラウシェンバーグは、彼の友人で協業者であり、ダンス界の星であるイヴォンヌ・レイナーが腸の病気で緊急手術を受けて入院していたデンバーの病院に慌てて見舞いに行った。彼女がやっと退院すると、彼が療養の面倒をみた。医療保険が治療費をカバーするのに十分ではないときに、友情がまさに命を救う役割を果たしたのだ。
クリエイティブな天才は常に孤高な存在だという神話は、いまだに根強く残っているが、西洋の芸術や文学は、その多くが学校やグループや運動を通じて伝えられてきた。印象派や1920年代のハーレム・ルネサンス(ニューヨーク市ハーレム地区で花開いたアフリカ系アメリカ人の文化芸術復興運動)、そして1960年代の前衛芸術運動のフルクサスや、合同展覧会を開催したシカゴの6人の芸術家たち、ヘアリー・フーなど。さらにはLAの黒人映画製作者を中心としたLA Rebellionやエイズ撲滅のためのAct Up運動など、私たちの美意識の歴史は、時代が共有する繊細さや仲間内でしか通じないジョーク、夕食会での熱い議論や、先人たちが築き上げたものを焼き払ってしまいたいというよくある欲望に根ざしてきた。
私たちは先人たちが書き残した手紙や日記や宣言を読み、彼らがいかにして伝統をつくり上げてきたのかを観察するうちに、先人の存在が、彼らの小説や戯曲や映画の登場人物のごとくリアルに感じられるようになる。そんな偉人たちの中でも、自己信頼を提唱し、孤高の思索で知られるラルフ・ワルド・エマーソンでさえ「私たちの知的な活動力は愛情によって増幅する」と1841年出版のエッセイ『友情』で述べている。「学者は座して書き、何年かけて瞑想しても、優れた思想や幸福な表現に到達することはできないが、友人に手紙を書くことは必要だ。するとたちまち温かい思いに満ちあふれ、その思いが手を通じて言葉を紡いでいく」。
エマーソンが、彼の友人であり、トランセンデンタリズム思想(註:1830年代中頃からアメリカのニューイングランドで広まった思想。神はすべての自然と人間に宿るとエマーソンは提唱した)の仲間であり弟子のヘンリー・デイヴィッド・ソローの存在なしに、文学界に同じ足跡を残したことを想像するのは難しい。同様にミッシェルなしのロミー(註:高校の同窓会を描いたコメディ映画『ロミーとミッシェルの場合』)や、トードなしのフロッグ(註:絵本の『がまくんとかえるくん』シリーズ)、そしてライナス・ヴァン・ぺルトなしのチャーリー・ブラウンや、ルイーズなしのテルマを想像するのも難しい。

シキースの作品《To Be Held(抱きしめられて)》(2021年)
SHIKEITH, “TO BE HELD,” 2021
原稿の締めきりが迫っているときに、仕事をする代わりに友人にメールを書いているのにふと気づくと、私はエマーソンの言葉を思い出す。芸術は、友人との会話に似て、心の中にある種の反応を呼び起こす空間をつくり出してくれる。その空間に私たちは世界と自分たちの境界線を引くのかもしれない。そして、後世に語り継がれるブロマンス(註:男性同士の、性的な関わりのない近しい関係)が主要な思想やアイデアのもとである一方、ライバル関係にあるふたりも多い。たとえばウィレム・デ・クーニングとジャクソン・ポロックや、アンディ・ウォーホルとジャン=ミシェル・バスキアなどだ。競争相手の彼らの間で交わされる知的なやりとりが、お互いを飛躍させる重要なカギとなっていたようだ。
また、最初から、周囲の誰からもアーティストになると期待されていなかった人たちの間の友情ほど、私を感動させるものはない。1957年にボストンの文章講座で出会い、のちにともに詩人となるマキシン・クミンとアン・セクストンのふたりが、子どもたちが学校に行っている数時間の間だけ、20世紀半ばの郊外に住む母親の役割から解放されて、家族に内緒で引いた2本目の電話回線を通じて、朝書き上げたばかりの第一稿を批評し合っている光景を想像するのが私は好きだ。この第2回線の電話での交信は彼女たちにとって命綱だった。受話器から聞こえてくる声が創作に欠かせない励ましだった。芸術と同様に、友情はふたりを社会の片隅にいる存在から、陽のあたる存在へと変えていく力強い機会を提供した。
それは現代でも同じだ。キャシー・パク・ホンの2020年出版のエッセイ『An Education(エデュケーション)』を読んでほしい。オーバリン大学で出会ったふたりの親しい友人について書かれている文章だ。作者を含めた3人はアジア系移民の娘で、それぞれアーティストをめざしている。彼女たちはアート界の主流である白人風の作品とは違うクリエイティブな作品を手がけようとしていた。「私たちは、何よりもまずアーティストとして扱われたいと要求した唯一の存在だった」とホンは書いている。このエッセイにはこの3人の関係が激しく移り変わるさまが描かれている。そしてそれは彼女たちの存在をかけた闘いそのものだ。
オードリー・ロードとパット・パーカーというふたりの詩人かつ知識人の場合は、互いの物理的距離を超えて、友情によって綴られた往復書簡が文学として昇華した形だ。ニューヨーク在住のロードとカリフォルニアに住むパーカー。ふたりは15年間にわたる手紙のやりとりの中で、アドバイスを与え合い、取り組んでいる作品や読んだ本のことを話し合った(同時に金銭的なことや健康状態などの話題も)。ふたりは黒人でレズビアンでフェミニストとして共通の目的意識を持ち、美しい詩的な感情表現とアクティビズムの両立に全力を注いでいた。「ねえパット、私たちはふたりともすごく無防備な女性だと思う」と1988年2月にロードはパーカー宛ての手紙に書いている。それはパーカーが45歳で乳がんによって死亡する1年前のことで、ふたりはそれぞれ乳がんで闘病していた。「私たちは無防備だからこそ、最大の力を出すことができた。無防備だから力強い女性になれた。それは失敗ではない。あなたを愛してる」。今手紙を読み返すと、ロードの文は詩そのものだ。「もしあなたが今後私に連絡してきて/私があなたの声を聞くことができないとしたら/これらの言葉は/無言のうちに/まだ/私たちの間に/存在している」
彼女たちの往復書簡には、ほかの作家仲間や恋人たちについて言及した言葉もたくさんある。そんな彼女たちの手紙は、何度も推敲された回想録では表現できない友情の真実を内包している。それはつまり、友情とは、ほとんどの人間にとって、ずっと動かないひとつの星のような存在ではなく、絶えず動き続けている関係性の宇宙の中に存在するということだ。
映画『フォーエバー・フレンズ』で使われたベット・ミドラーの曲「愛は翼にのって」の中の「あなたが風になって、私の翼を運んでくれるから」という歌詞は、この際忘れてしまおう。あなたが子どもを産んだばかりのとき、吹雪の中、食料品を届けに来てくれる友は、あなたが書いた映画の脚本の感想を綴ってくれる友とは、必ずしも同じ人物ではないかもしれない。あなたの服が似合っていないと指摘してくれる友は、あなたが申し込んだ奨学金の申請が却下されて落ち込んでいるときに、励ましてくれる友ではないかもしれない。パンデミックと社会に大きく広がる不均衡によって、私たちのかつての生活がズタズタに分断され、他者とのつながりを失い、切羽詰まった人々が憤りや陰謀論に蝕まれてしまうとき、私たちはかつてないほどお互いの存在を支えとして必要としている。

ナイマ・グリーンの作品《Kamra and Sonya in Woodridge(ウッドリッジのカムラとソニャ)》(2020年)
NAIMA GREEN, “KAMRA AND SONYA IN WOODRIDGE” , 2020

ナイマ・グリーンの作品《Activation Residency as a Personal Paradise(個人を尊重する天国、アクティベーション・レジデンシー)》(2020年)
NAIMA GREEN, “ACTIVATION RESIDENCY AS A PERSONAL PARADISE” , 2020
別の見方をすると、私たちは、お互いの人生において相手がどれだけ重要な位置を占めているかについて、これまでのつき合いの歴史や親密さの結晶である思い出が一度に押し寄せてくるような瞬間を経ないと、改めて感謝することはないのかもしれない。だからこそ、幼い頃の友人についてネットで検索して、それぞれの人生がどう変遷しているのかが気になる。また、だからこそ私たちは、親しい友人の伴侶が亡くなると、まるで自分の親しい人が亡くなったように感じる。まるでもうひとりの自分が経験しているように、誰かの人生をリアルに感じ、それに倫理的な責任を感じてしまうのだ。
つまりそれはこういうことだ。もしあなたの友の伴侶が、非常に稀な種類の脳腫瘍を患い入院しているとしよう。あなたの友が自分のパートナーは助かると思うかとあなたに聞いたとき、あなたはその問いに正直に答えなければならない。また、それは、友が伴侶の死を悼むのをそばで聞き、葬儀に必要な準備を手助けすることを意味するだろう。喪失の悲しみをたったひとりで味わわなくてすむのだと知ることが、悲しみの渦中にある人間にとっては唯一の慰めだから。そして、あなたもきっとその場にいたいはずだ。なぜなら、将来、あなたがその友と同じ立場に立つこともあり得るからだ。そしてそれが人生というものだ。
フィクション作品でも友情は主要なテーマとなってきているが(このトレンドに大きく寄与したのが2012年から2015年にかけて出版されたエレナ・フェッランテの4部作小説『ナポリの物語』だ。もっともトニ・モリスンの1973年の小説『スーラ』が友情ブームの先駆けだが)、テレビ番組ではずっと以前から友情が主要テーマの時代が続いてきた。『ラバーン&シャーリー』(1976-’83年)や『ふたりは友達? ウィル&グレイス』(1998-2006年)、また『Living Single(リビング・シングル)』(1993-’98年)や『セックス・アンド・ザ・シティ』(1998-2004年)などの番組が、21世紀はどんな社会になるかを、私たちに前もって教えてくれていたのは事実だ。
つまりそれは、人生とは核家族を中心にしたコメディ・ドラマではなく、私たちを成長させる経験や、いざというときに助けてくれるセーフティネットや判断基準などが、友人たちや近所の住人やルームメイトや昔の同級生や職場の同僚たちとの関わりの中で形作られていくということを示唆している。友情というものには独特の基準があり、何度も繰り返して放送するテレビという媒体にはぴったりだ。内容やトーンを変えて何シーズンでも継続できる。しかも、結婚で物語が完結してしまうことがない。「友人同士は、恋人同士とは違って、相手の存在が救いだと意識的に考えることは稀だが、無意識下では、それに近い思いをお互いに抱いているものなのだ」と2008年発行の『ポエトリー』誌に掲載された記事で批評家のヴィヴィアン・ゴーニックが書いている。親密さがいつしか薄れ、テレビ番組が打ち切りになっても、誰かが私たちを信じているという感覚は、私たちの再構築された感情のDNAに刻み込まれている。
アーティスト間の友情の物語の多くは、どちらかが亡くなったあとに、生き残ったほうの友の手によって書かれ、お互いの思い出や出来事などが、在りし日を偲ぶトーンで綴られている。もしあなたが私と似た種類の人間なら、それらを読むと、家族や文化が私たちの命綱にならない場合、友人というものは一体どこまで私たちを救うことができるのかと考えてしまうだろう。熱を持った創造性が燻(くすぶ)ったまま、上から何かで重しをされているように感じるとき、また、富裕層だけが美を独占しているように感じるとき、芸術は私たちを救ってくれるのだろうか? ロードやディレイニー、そしてウルフやメイプルソープやセクストンやその他大勢のアーティストたちが惜しまれながらこの世を去った。彼らが残した素晴らしい作品が、私たちを救えるか?
その質問の答えはイエスだ。そしてしばらくの間、私たちの友の力を借りればいい。本当のところ、ひとりで自分を救える者などいない。人知を超えた領域に踏み込むには、人類が互いに重なり合って築き上げたやぐらと永遠と、慈愛に満ちた目撃者が必要だ。そしてその目撃者とは、旅の同伴者であり、暗い森の中で灯りをかざし、私たちに語りかける。まるで今、私たちが友と語り合っているように。