うとまれ、邪魔者扱いされてきた「雑草」たちが、いまにわかに注目を浴びている。皿の上からフラワーアレンジメント界まで席巻する、雑草の魅力とは

BY LIGAYA MISHAN, PHOTOGRAPHS BY GUIDO CASTAGNOLI, FLOWERS STYLED BY MARY LENNOX, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICE

 望まれないもの、不必要なもの――それが雑草の定義である。雑草は栄養を与えてくれるわけではなく、美をもたらすわけでもない。私たちの生活になんら貢献することのない彼らは、価値のない植物と見なされてきた。しかし、そもそも雑草は生きるために人間を必要としないのだから、どうして人間を助ける必要があるだろう? 雑草はかすかな風にも種子を運ばせ、どんな過酷な条件の土地にも根を下ろし、はびこることができる。彼らは人間の文明からは完全に離れたところで、たくましく自立して生きている。そして人類の覇権をあざわらうかのように、地球をわが物としている。さらに困ったことに、雑草は略奪者だ。私たちが価値をおき、頼りにしている植物から土地と日光を横取りして彼らを追い出し、生存を脅かす。やみくもにはびこることで、私たち人間の生存までをも脅かす。

画像: これまで敬遠されてきた、野性的なタンポポ、侵略的なイタドリ、トゲのあるイラクサが脚光を浴びている。雑草を使った雲形アレンジメントは、ベルリンのフローリスト「メアリー・レノックス」のルビー・バーバーのトレードマークだ。 写真は複数のアレンジメントを組み合わせたもの。左から、ヒモゲイトウ(紐鶏頭)と生や乾燥の野草のアレンジ。日陰の存在から、温室育ちの高級生花にも負けない存在になったハグマノキをふんだんに使った作品。そして「アン女王のレース」とも呼ばれるノラニンジンの花

これまで敬遠されてきた、野性的なタンポポ、侵略的なイタドリ、トゲのあるイラクサが脚光を浴びている。雑草を使った雲形アレンジメントは、ベルリンのフローリスト「メアリー・レノックス」のルビー・バーバーのトレードマークだ。
写真は複数のアレンジメントを組み合わせたもの。左から、ヒモゲイトウ(紐鶏頭)と生や乾燥の野草のアレンジ。日陰の存在から、温室育ちの高級生花にも負けない存在になったハグマノキをふんだんに使った作品。そして「アン女王のレース」とも呼ばれるノラニンジンの花

 雑草は単独で現れることはなく、必ず大群をなしてやってくる。まるで13世紀に東欧を侵略したモンゴル軍のように猛烈な勢いで広がるのだ。「いつでも庭師の三歩先を行き、地下に潜って移動し、何百万という数の種子をつけて、行く手をふさぐものすべてを窒息させるのです」と語るのは、英国の作家でランドスケープ・デザイナーのイザベル・バナーマンだ。彼女の夫でパートナーのジュリアン・バナーマンはもう少し控えめな表現で、「造園の仕事はパーティを開くのと少し似ています。私たちが雑草と呼ぶものは、招かれざる客なのです」と言う。スウェーデンの作家でイラストレーターのエルサ・ベスコフの絵本『リーサの庭の花まつり』(原題は『Blomsterfesten i Täppan』で1914年刊行)で、雑草はまさに招かれざる客として描かれている。登場する暴れ者のアザミやハコベ、イラクサやゴボウは「悪党や物乞い、ならず者たち」で、咲き誇るスミレや蘭の花を庭の外にある溝からにらみつけ、「私たちだって花なのよ!」と叫ぶ。

 しかし、そんな「ならず者たち」の時代がついにやってきた。今や雑草は嫌がられないどころか主賓としてもてなされ、家の前庭や庭園に生い茂ることを認められている。そしてほかの「立派な花」とともに、豪華なフラワーアレンジメントやもじゃもじゃしたブーケに加わり、レストランで出される10品コースの料理に森や野原の香りを運んでいる。だがこれがまったく新しい現象かといえば、そうでもない。20世紀半ば、イギリスで花店を営んでいた、鉄道職員の娘のコンスタンス・スプライは、上流階級の人々の結婚式や社交界デビューの舞踏会の会場を素朴なヤマニンジンの小房で飾りつけて有名になった。また、英国の著名なガーデン・デザイナーで今年の5月に亡くなったベス・チャトは、初めて参加した園芸品評会で在来種の植物を出品し、審査員のひとりに雑草だと嘲笑されて失格になりかけた。だが今、もやもやした紫色の煙のようなハグマノキ(スモークツリー)やミモザの小さな花房、静止した靄(もや)のように小さな花を密集して咲かせるノラニンジンといった野性的な植物が注目を集めていることは、もっと大きな文化的現象を物語っている。

 ロサンゼルスのフローラル・デザイン・スタジオ「ISAISA」のソフィア・モレノ=ブンヘは、「私たちが美しいと思うもの」が変わりつつある、と語る。彼女が雑草に心惹かれるのは、それがどこにでもあるのに、誰の目にも映らないからだ。たとえば、春になると町の丘を覆って鮮やかな黄色に染めるノハラガラシ。当たり前のように景色に溶け込んでいるこの花は、花瓶に生けると思いがけず、わくわくするほど斬新なものになる。またオーストラリアで生まれ、ベルリンに植物のコンサルティング会社「メアリー・レノックス」を創設したフローラル・デザイナーのルビー・バーバーの作品は見る者の既成概念を打ち破る。そのアレンジメントの中では、彼女が「植物界のいじめっこたち」と呼ぶ雑草が、手を触れたら壊れそうなほど繊細に見える。バーバーが使うのは、空き地に生い茂り、安っぽいアレンジメントに多用される外来種のカスミソウの細い枝や、通常なら捨てられてしまうようなさまざまな植物だ。

 そんな雑草でこしらえた巨大な雲形のブーケをシャンデリアのように逆さまに吊るすと、小花のあいだのスペースが透かし模様のように浮かび上がる。毛皮にも羽根のようにも見えるシロガネヨシの花穂はふわふわと漂い、生来の野蛮な性質を隠している――パンパスグラスとも呼ばれるこの植物は、ほかの植物の生育地や、絶滅の危機に瀕した在来種の樹木を脅かすため、オーストラリアの一部地域では販売を禁止されているのだ。バーバーの夢は、白い綿毛をつけた種子が飛散する寸前のタンポポの綿帽子でブライダルブーケを作ることだ。彼女の空想の中のブーケは、「花嫁がバージンロードを歩くと、綿毛のひとつひとつが未来の夢を運ぶようにふわふわと漂っていく」のだという。そして綿毛に包まれ運ばれた100個もの種子が、新しい世代を育んでいくのだ。

 雑草がにわかにバラや蘭と同格に扱われるようになり、いつの時代も人気のシャクヤクやラナンキュラスと同じようにもてはやされているのは、昨今の政治的混乱と並行して、伝統的なヒエラルキーが覆されていることの表れなのかもしれない。思想家のラルフ・ワルド・エマーソンは、雑草とは「その美点がまだ発見されていない植物」だと言ったが、雑草という呼称自体、すでに軽蔑的な意味合いを含んでいる。アメリカの詩人ルイーズ・グリックは1992年の「ウィッチグラス」という詩の中で、題名となったこの雑草の視点から、目の敵にされ、根こそぎにされる者の気持ちをつづっている。

わたしがそれほど憎らしいなら
名前などつけることはない
それとも必要なのか?
けなすための
新しい言葉が
世の中の悪のすべてを
ひとつの種族のせいにするために

 痛めつけられ、ぼろぼろになりながらも決してくじけることのない植物が今こうして人々に受け入れられていることは、周到に完璧に仕上げられたインスタグラム投稿や、作家で活動家のマイケル・ポーランが「性と死を除去した自然」と呼ぶ、非の打ちどころなく刈り込まれた芝生のような、一点の汚れもなく整えられたものに対する人々の不信感を示唆してもいる。

「これは恐れを知らない負け犬たちの物語なのです」と言うのは、NY在住のフローラル・デザイナー、エミリー・トンプソンだ。彼女のアレンジメントは、ひとつの物語を思わせる。そこには意外な出会いがあり、イラクサ、ゴボウ、トウワタ、野ぶどう、ガマなどの好戦的なキャラクターが登場する。彼女は「均一さと優れた性質を求めて改良された」品種には興味がない。それよりも、ちくちくしたトゲに触れると血が出るサルトリイバラのように、冷酷で厄介な性質の植物を好む。「雑草」というレッテルを無視して、すべての植物は平等だと主張するフローリストもいるが、トンプソンはイメージが悪いからこそ、雑草をあえて使おうとする。雑草を恐ろしい怪物とは思わないが、その“怪物的な”性質を誇張するのが好きだという。

画像: 靄のようなノラニンジンの白い花と開花後の種子

靄のようなノラニンジンの白い花と開花後の種子

 何本かの小枝を添えることで、失われた牧歌的な田園風景への憧憬をほのめかすより、雑草の侵略的な力を前面に出すほうが面白いと思うからだ。「彼らのせっかくの生命力を薄めてしまうなんて、退屈だもの」と彼女は言う。

 雑草で作られた花束には、ありのままの飾らぬ自然の気配がある。それは、「作為的でなく、人の手を介さないところで生命を育んできた草花だからこその信頼性」だとトンプソンは言う。昨今、どこでどのように作られた食材なのかが何よりも重視されるようになった料理の世界でも同様で、皿にのせられた雑草たちはいかにも本物の自然らしさを醸し出している。

「“雑草”なんて存在しないと私は思っています」とデンマーク生まれのシェフ、エスベン・ホムボー・バングは言う。彼はオスロにあるレストラン「Maaemo(マエモ)」で、ノルウェーの森林とフィヨルドの調和を表現した料理を生み出している。「野生のタンポポは、白トリュフと同じくらい珍重されていますよ」とバング。

 NYにある人気の和食レストラン「Shuko(シューコ)」のシェフ、ジミー・ラウは、子どもの頃は中国の福建省で母親と野草を摘んでいたが、今は食材を求めてセントラルパークを歩き回っている。口に入れるとラディッシュのようなぴりっとした味がするナズナ。木の実のような風味のハコベ。ワームウッド(ニガヨモギ)の親戚のヨモギは、少し苦みのあるさわやかな味わいだ。オッタチカタバミはほのかにライムのような香りがあり、イタドリの筒状のシャキシャキとした茎はルバーブのようにみずみずしく、酸味がある。これらの食材は酢の物や天ぷら(その黄金色の軽やかな衣から、雑草の輪郭が透き通って見える)になって、195ドルもする「Shuko」の懐石料理のメニューに採り入れられている。

 ところで、イタドリという雑草は、(イタドリを主食とする昆虫が存在する日本以外の地域では)手に負えない災い、凶悪犯として恐れられている。家の裏庭にイタドリが芽を出そうものなら、土地の資産価値は下落してしまう。あたり一帯に生い茂り、野放しにしておけば周辺の植物をいっさい駆逐してしまうからだ。だが、単純に抜いて捨ててしまうのはもったいない、と「Maaemo」のホムボー・バングは言う。「こんなにおいしいんだから、食べたほうがいいでしょう?」

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