BY MICHAEL SNYDER, PHOTOGRAPHS BY JASON SCHMIDT, TRANSLATED BY MIHO NAGANO
ラディックの家のように、チリの建築は、何もない地平線上に置かれたシンプルな箱から、重力や、しばしば明らかな論理すらも否定した彫刻的な形状へと進化してきた。だが、時にショッキングな形をしてはいても、これらの家はその本質の部分において、シンプルさや透明性、厳格なほどに緻密な形、そして過激なまでにムダをそぎ落とすストイックさを求める衝動という点で共通している。
そんな透明性がおそらく最もうまく表現されているのが「カーサ・ガリネロ」、もしくは「鶏小屋ハウス」と呼ばれる質素な建物だ。この家は、コンセプシオンから東に1時間ほど離れた場所にあるフロリダという村の、なだらかな丘の上にある。カーサ・ガリネロは、表面上はよくある田舎の家の姿かたちとそう違わない。約139m²の横に長い長方形で、竹馬のような支柱の上に家全体が乗っている。長方形の短い2辺の壁はガラス張りで、長いほうの2辺の壁は、屋根の素材としてよく使われる、波状のひだがついた白いプラスチックでできている。昼間見ると納屋か動物用の小屋かと間違えてしまうくらい、ありふれた農家の風景に溶け込んでいるが、夜になると、半透明の壁がまるでランタンのように光を放つ。
すでに故人となったエデュアルド・カスティロは、2001年に29歳でこの家を設計した。彼の父、ホアンが1970年に自らの手で建てたシンプルな小屋を建て直すのがその目的だった。カスティロは父から大工の修業を受けており(ホアンは息子カスティロの同僚だったラディックのために家具を何点かつくっている)、父が生きていたら建てただろうと思うような家をつくりたいと考えたのだ。機能的で経済的で、ごく普通だが良質で、最初から最後まで手作業で仕上げた家を。
チリの田舎の中流家庭で育ったカスティロは、誰からも注目を浴びることのない平凡な環境で生きてきた。彼の家、カーサ・ガリネロは、プガやアラベナや、また彼が親しく協業していた同業者のラディックが設計したような力強くて壮大な家とは、似ても似つかないように見える(ちなみに現在、この3人ともサンティアゴの同じビル内に事務所を構えている)。だが、カスティロをPUCで教えていたオヤルスンは言う。「最も単純なことを計算し尽くされた手法で行えば、詩のような崇高なレベルに達することができる。建築におけるこの素材の法則を、ほかの誰よりも見事に体現しているのがエデュアルドだ」
カスティロは、サンティアゴの事務所の近くで車に轢かれ、2017年に45歳で亡くなった。チリで最も将来を約束された若い建築家のひとりと称されながら、彼は生前、片手で数えられるほどしか彼個人のプロジェクトを完成していない。そのひとつがサンティアゴ郊外にある兄の自宅で、もうひとつは1997年の卒業制作であり、彼の両親が所有する土地と道路の境に建つ小さな教会だ。カスティロはそのプロジェクトを「ラニミータ」と名付けた。自動車事故によって亡くなった人々をしのぶ、道路脇の祠(ほこら)という意味の言葉だ。
悲惨なことに、この教会は予言的なプロジェクトとなってしまったわけだが。教会の建物は、カーサ・ガリネロのように落ち着きのあるシンプルなつくりだった。長方形の部屋にとがった屋根がつき、薄く長い材木を水平に並べてつくられていた。このプロジェクトは、チリで一年おきに開かれている国際建築大賞の第12回大会の公共建築部門で1位を受賞した。だが、静かに祈りを捧げられる場所として近隣の人々のあいだで人気だったにもかかわらず、教会は修理されないまま放置され、最後には崩壊してしまった。
2004年にカスティロは「テクスチュアリング」と題したエッセイを書いた。その中で彼は“時というものに罹患した”建造物の“貧困の詳細”について考察し、建造物と建築家はどちらも腐敗と死から決して免れることはないと述べた。エッセイの中盤では、70年前に書かれたネルーダのマニフェストを引用し、“人類の漠然とした不純さ”に目を向けるよう説いたネルーダの考え方を取り上げている。
チリの新世代の建築家たちの作品は多岐にわたるが、彼らは、ネルーダがかつて「不純な詩」と呼んだものに匹敵する「不純な建築」とでも呼ぶべきものをつくり出した。それらの建築は、実体を備え、時の流れによって傷つき、われわれ人間同様、やがてはこの世から消滅するということを知って心を震わせている。「矛盾しているのは、そんな悲劇の中からも命あるものが生まれるということだ」とカスティロは書いている。「それこそが、私が探し求めている建築なのだ」