BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY HENRY BOURNE, TRANSLATED BY HARU HODAKA
イギリス人のプロダクト・デザイナー、トム・ディクソンは、常に自己流で何かを学び、とんでもない領域まで極めてしまう。1970年代にイギリス北部の高校に通っていた頃、彼はろくろの回し方を独学で学び、素焼きの鉢を作った。その1年ほど前には、ヴォックス社製のベースギター、パンサーを手に取り、ファンカポリタンというバンドを結成した。それはちょっとパンクっぽいテイストのディスコバンドで、1980年代初めにはロックバンドのザ・クラッシュの前座として演奏していた。ちょうどその頃、事故でバイクを大破させると、彼はまともな訓練もほとんど受けずに小型のバーナーを手に取ってそれを修理した。それをきっかけに、昼は鉄くずを溶接して家具を作り、夜はライブ活動をして過ごすようになった。
そんな彼の無軌道な創作活動が、モナコ出身のある女性の目を惹いた。1981年のある夜、ファンカポリタンが南仏でライブを行ったとき、モナコ有数の名家の女性が、彼のエネルギーあふれるスタイルに目を留めた。モナコ公国の人口はわずか3万8,400人だが、国民1人当たりが所有する資産額は世界一だ。だが、彼女はそんなモナコ社交界のいわゆる普通の名家の子女とは違っていた。彼女は20代前半にミュージシャンのブライアン・イーノや写真家のロバート・メイプルソープの影響を受け、アヴァンギャルドなものへの造詣を深めていた。
その1~2年後、彼女は雑誌の記事で、ディクソンが音楽活動を離れて、さまざまな分野のデザインを手がけるビジネスを始めたことを知る。現在60歳のディクソンは当時、ロンドンのノッティングヒルあった、いかにもパンクっぽい古ぼけた倉庫を「スペース」と名付け、そこを拠点としていた(彼はそこでほかの職人たちとともに働き、「スペース」はイギリスデザイン界の新時代を担うデザイナーたちを輩出した。彼らは今日もまだ影響力を失ってはいない)。彼女はすぐに彼の作品を蒐集する初期のコレクターのひとりになった。ディクソンの家具は、いかにもつぎはぎな感じや、思いも寄らぬ細部の組み合わせが特徴的だった。たとえば、椅子の背もたれ部分に下水道の古い部品を使ったり、盗んだマンホールの蓋を椅子にしたり。それは、クロームメッキと黒い革に代表される、当時のヤッピーたちの美意識を真っ向から批判するものだった。「彼女は裕福なのにとても謙虚だったし、僕はそこがすごいと思ったんだ」とディクソンは言う。
彼女とディクソンは親しくつき合い、お互いの発想を刺激し合い、会えるときを見つけては行き来していた。そんな彼女は25歳で、子どもの頃から知っていたモナコ人の男性と結婚した。相手は彼女と同じくらいエキセントリックで、ふたりはモンテカルロの港を見渡せる巨大な高層アパートに引っ越した。彼らは世界中を旅し、アメリカのシュルレアリスムの写真家、ジョエル=ピーター・ウィトキンや、イタリアのポスト・メンフィス派の彫刻家、アンドレア・ブランジらと親しくなった。彼らは、ディクソンの作品とともに、20世紀後半に台頭しつつあったその他の急進的なアーティストたちの作品も蒐集した。たとえば、ロンドンを拠点とするデザイナーでアーティストのロン・アラッドや、フランスのドルドーニュ地方を拠点とする家具職人で、巨大な時計やアジアのランタン照明をゴシック風や未来風にアレンジしたアンドレ・デュブレイユの作品なども集めた。「彼女はポスト・ポストモダンのパンクっぽい作品を、ごく初期の段階から受け入れたひとりなんだ」とディクソンは言う。
そんな中、ディクソンは自分の作品で世の中にその存在を知られるようになっていく。曲線が印象的な「Sチェア」を作り、その権利を1990年に家具メーカーのカッペリーニ社に売った。その後、1996年には「ジャック」という名の、積み重ねられるポリエチレン製のランプを製作した。昔懐かしいブリキのおもちゃの漫画版といった形をしている。そうしてディクソンは、インダストリアル・デザインの巨匠となった。1998年には、テレンス・コンラン卿が1960年代に設立したイギリスの大手インテリアショップ、ハビタのクリエイティブ・ディレクターに任命された。2008年までその職を務めたのち、自分の名を冠したブランドを立ち上げ、金属製の(多くの場合、銅製)照明器具や椅子、その他の家具を製作している。