ナタリー・ポートマンと、作家のジョナサン・サフラン・フォアがネット上で再会した。過ぎゆく時の流れと、その中で、お互いがどう変わってきたかを、心機一転、再び語り合うために

PHOTOGRAPHS BY CRAIG MCDEAN, STYLED BY MAX PEARMAIN, TRANSLATED BY MIHO NAGANO

2016年5月27日(金)午前0時21分
ジョナサン・サフラン・フォアより

 ちょうどさっき0時をすぎて、木曜日から金曜日に日付が変わったところだ。まだ5月なのに、もう暑いよ。気温は華氏90°C(摂氏32°C)台前半だ。もう夏が近づいてる。今日はあとでペンシルベニア州のブルーリッジ・サミットまで車で行くんだ。 戦没者追悼記念日の週末を僕の兄弟とその家族たちと過ごす予定だよ。素晴らしいところなんだ。市とか町とか村とかいうより、“国勢調査指定地域”そのもので、義姉の家族が休暇を過ごすのに何十年も通ってる場所なんだ。ブルーリッジ・サミットの特徴は二つあって、ひとつはゲティスバーグに近いってこと(もし4時間かかるドライブの間に息子たちがうるさくしてたら、ゲティスバーグの一日ツアーに連れてくぞって脅すんだ)。そしてもうひとつの目玉は、「サイトR」と呼ばれるレイブン・ロック・マウンテンだ。これは、米国防省のペンタゴンの「地下版」として機能するように造られた基地で、副大統領のチェイニーが好んでお忍びで滞在していた場所なんだって。

 子どもたちを脅かすだけで、実際にこの周辺を探索したことはないんだけど、ゲティスバーグのお膝元だっていうことは、そこにいるだけで、自然と伝わってくるんだよ。南北戦争の戦いを記念して建てられた無数の案内板や、アンティークショップに飾られている当時の弾丸とか、記念品を見てるとね。あそこに行くと、亡霊たちがすーっと出てくるようなオーラがあるんだ。こんなこと書いてて、ちょっとヘンだと自分でも思うんだけど、でもその感覚自体は、少しもバカげたものではなく、無視できるようなものでもないんだ。単に歴史の現場に近い場所だからという だけではないと思う。なにかこうもっとーー空気や地面の中に染みこんでいる特別な何かがあるんだよ。君にとって「特別な何か」を感じる場所ってある?

2016年5月28日(土)午前7時53分
ナタリー・ポートマンより

 あなたは知ってると思うけど、「ヘブライ」という言葉は「ivri」に由来し、これは、たとえば、ヘブライ人のアブラハム、というようにその人が何人かを表すものだったの。そして、ヘブライという言葉はもともと「別の側に渡る」という意味の言葉「la'avor」が語根で、それが転じたもの。これは、ユダヤ人が移動する民族だということと関係があるのだと思うの。もしくは、聖書の中では、アブラハムが最初に川を渡った人だったのかもね。この言葉は、私たちユダヤ人にとって象徴的な状態を表していると思う。ユダヤ人だけでなくて、すべての人間にいえることかもしれないけど、私たちって、望みがひとつかなうと、また新しい望みをもつというのを繰り返してる。ひとつ新しい知識を得るごとに、また新しい疑問が出てくるように。

 私、20代で初めて仏教思想に接したとき、わけがわからなくなったの。今ここで起きている現実に満足すべきなのか? って。そこで初めて気づいたんだけど、私にとってのユダヤ教って、まだ手に入れてないものを渇望し、強く手に入れたいと望む気持ちと深く結びついてるんだって。それは、多分、なぜユダヤ人はイスラエルに複雑な気持ちを抱くのかということと関係してるんだと思う。自分たちが手にしていない、祖国の地というものを求めてやまない気持ちが、宗教の思想そのものの中に組み込まれているのよ。

 じゃあ、もし、祖国の地が手に入ったら、いったい次は何を望むんだろう? 私たちは、まるでいまだに亡命中みたいに「来年こそはエルサレムで会おう」って言い合うけど、多分、エルサレムというのは、決して手に入らないものを表す記号なんじゃないかって気がする。だから、もうすでに手に入れていたとしても、まだずっと探し続けてしまう。すでに結婚してるのに、理想の妻や夫を永遠に探し続けるように。まるで、永遠に、誰かを口説き続けて、いちゃいちゃしてもいるんだけど、決して相手が手には入らないと感じてる状態よね。エルサレムにはオーラがあるし、空気は重い感じがする。まるで都市自体が情熱をうまく転がして、コントロールしているような感じ。

 元彼のひとりが、私のことを「モスクワ」って呼んでたの。彼いわく、私がいつも悲し気な顔をして窓の外を眺めていたからだって。ロシアの小説かチェーホフの戯曲の中に出てくるシーンみたいだから「モスクワ」って。そういうことを言うから、その彼を振っちゃったんだけど、でも確かに彼の言うことも一理あるのよ。私の中には、あそこではもっとよいことがあるに違いない、あそこに行きたいって思い込む傾向がある。

 オズの本の中で、オズの母が同じような行動をとってることが書かれているんだけど、オズはそれを「スラブ系の浪漫的憂鬱」って呼んでるの。それを読んではっとしたの。あ、これは文化的な傾向と結びついてるんだって。落ち込んで、窓から外を眺めてモスクワして、何かを渇望するのは、何らかの文化的な影響があってのことだ、というのは真実だもの(この感情をひと言で言いあてるドイツ語の形容詞があるに違いない)。

 90年代に流行った「憂鬱な顔をしている女の子がおしゃれ」っていう風潮を覚えてる? ほら、『リバイビング・オフィーリア』(※メアリー・パイファー著)や歌手のフィオナ・アップルや、悲しく美しかった女の子たちがたくさんいた時代よ。アップル女史の言葉で言えば、ちょっとぐらい不機嫌で落ち込んでいるほうが、人格が深くて、面白くて、魅力的に見えるって(私、アップルのことはすごく好き)。その後、フランスに住んでみて、90年代と同じ風潮を感じたの。悲しみと文化的に結びついた美というものがフランスにはあった。オズの本を通して、人の気分というものは、いつ、どこで生きているかによっていろんな影響を受けるし、さらに、その時代特有の空気や場所が「気分」というものをどう受け止めているかにも大きく左右されるのだと理解できた。それですごく解放された気がする。つまり、脳細胞の中の物質の配分のみによって気分が決まってしまうわけではないんだということ。

 私、オズの本はもう10年近く原作として読み込んでいるから、今言ったようなことは、相当あとになって気づいたんだけどね(10年といっても、継続して常に読み込んでるわけではなくて、読んでは、2〜3年放置してからまた読み出すという感じだったけど)。オズの本を読むきっかけは、語源研究に興味があったから。私にとって、宗教や国や食べ物よりも、ヘブライ語という言語が、ユダヤ文化との関わりの主軸をなしてるの。言葉と言葉をつなぐ語源を見つけることは、数千年前に作られた詩を解読するのに似ている。時代を超えて、人々の魂をひとつの線で結ぶ作業よね。オズの言語学的な系譜をたどっていく手法には驚愕するわよ。

たとえば、 地球(adama)、男(adam)、血(dam)、赤(adom)、静寂(doomia)というふうに。 語源研究は地味に見えるけど、言葉と言葉の結合というものは、私自身が出産中に感じた、確実に何かとつながっている感じに似てるのよ。それは、これまでの歴史の中で出産してきた女性たちのひとりひとりの中に自分も加わったんだ、という感覚なの。あなたの言葉を借りれば、ワンダーを感じる経験をするってことだと思う。そして、そのワンダーを人々と共有するってこと。自分の周りの人や、自分が体験していることを同時期に体験している人々とだけではなく、砂漠で羊飼いをしながら、同じ星を私たちより何千年か前に眺めつつ、雷は神の怒りだと信じていた人々とも、その経験を共有するってことよ。

 そろそろうちの息子をお風呂場から連れ出さないと。お風呂ではレゴでできたバットマンを恐竜と戦わせたり、バットマンに歌を歌わせたりしてるの。

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