2024年12月中旬、人形浄瑠璃文楽の太夫として活躍している竹本織太夫が、講談師・神田伯山が主任を務めた新宿・末廣亭の寄席に出演した。「文楽」と「講談」という日本が誇るべき伝統芸能をいかにして次世代へと繋ぐのか。それぞれの芸への情熱を二人が語る

BY SHION YAMASHITA, PHOTOGRAPHS BY KAZUYA TOMITA

画像: 神田伯山(左)と竹本織太夫。新宿末廣亭にて

神田伯山(左)と竹本織太夫。新宿末廣亭にて

寄席との運命の出会い

竹本織太夫(以下織太夫) 伯山さんと初めてお目にかかったのは2023年でしたね。私の周りには伯山さんと繋がっている方は何人かいるんですが、なかなか機会がなくて。でも以前から伯山さんのラジオ番組(「神田伯山の問わず語り」)は聴いていたんですよ!

神田伯山(以下伯山) ありがとうございます! 織太夫さんが出演なさっている舞台を拝見した後、“いい芸だったな”と思いながら九龍(ジョー)さんと歩いていたら、道でばったりお目にかかりましたね。共通の知り合いに繋げていただいたご縁でもありますし、僕も織太夫さんの芸は以前から拝見していました。そしてこの度は僕が主任を務めた寄席に3日間出ていただいて、おかげさまで大評判でした。

織太夫 今回出演させていただいて、今から30年程前に初めて東京に出てきた時に、師匠(故・豊竹咲太夫)が最初に連れてきてくれたのがこの新宿末廣亭だったことを思い出しました。僕は六代目ですが、かつて三代目の織太夫が寄席に出演していたそうです。

伯山 義太夫節の方が寄席に出演するのは、それ以来130年ぶりだそうですね。

織太夫 そうなんです。さらに遡ると、二代目の織太夫、のちに六代目(竹本)綱大夫になる方は “八丁荒らし”という異名を取ったくらいで、両国の寄席に出演した際に客が入りすぎて2階を落としたというエピソードもあるんですよ。

伯山 三代目(神田)伯山も“八丁荒らし”と言われていたそうです。織太夫さんがアウェイな寄席という舞台に出演されたことがきっかけとなって、ご覧になった寄席のお客様が文楽を観たり、あるいは文楽のファンが寄席に来たり、そういう交流みたいなものが生まれるわけですが、織太夫さんがフィールドを広げようと意識して行動に移されたのは、コロナ禍の影響が大きいのでしょうか? 伝統芸能を格式でいえば能狂言、次に文楽、歌舞伎、そして講談や落語など寄席の芸と縦にうっすらヒエラルキーがあったのが、コロナ禍を経て、そのヒエラルキーがフラットに、シームレスになってガラッと状況が変わりました。お客様は自分に発信してくれているかどうかを大事にしています。集客などの危機感とともに、織太夫さんが行動に出なければならなくなったというのが現状ですよね。

織太夫 それもですし、昨年は私の師匠である豊竹咲太夫や人形遣いで人間国宝の吉田簑助師匠といった文楽界を支えてきた大スターたちが亡くなられました。そのスターたちの芸を観ていたお客様は、劇場から遠ざかってしまいました。しかも国立劇場は2023年に建て替えのために閉場したので、東京の文楽の拠点を失いました。さらに国立劇場には伝統芸能伝承者養成所がありまして、文楽も毎年、太夫、三味線、人形遣いの研修生を募集するのですが、1972年から始まったこの制度に応募者数が初めてゼロになってしまったんです。文楽は歌舞伎とは違って家制度がありませんから、私のように代々続いている家は珍しいんです。

画像: 竹本織太夫(TAKEMOTO ORITAYU) 1975年大阪生まれ。祖父は文楽三味線の二代目鶴澤道八、伯父は鶴澤清治、実弟は鶴澤清馗。8歳で豊竹咲太夫に入門、豊竹咲甫太夫を名乗る。2018年1月、六代目竹本織太夫の名跡を襲名。NETFLIXで配信中の『阿修羅のごとく』に出演。

竹本織太夫(TAKEMOTO ORITAYU)
1975年大阪生まれ。祖父は文楽三味線の二代目鶴澤道八、伯父は鶴澤清治、実弟は鶴澤清馗。8歳で豊竹咲太夫に入門、豊竹咲甫太夫を名乗る。2018年1月、六代目竹本織太夫の名跡を襲名。NETFLIXで配信中の『阿修羅のごとく』に出演。

感性を磨いた環境

伯山 文楽は実力主義の世界ですから、応募数がゼロというのは深刻な問題ですね。浄瑠璃の家に生まれた織太夫さんは唯一無二の存在なのではないですか?

織太夫 浄瑠璃の家は他にもいくつかあるのですが、ほとんどが絶えています。だから私の場合、自分がなりたくてこの道を選んだというより、祖父母の願望もあって、“なる”という前提で始まりました。

伯山 自分が向いていると思ったのは、いつ頃でしたか?

織太夫 向いているというより、スイッチが入ったのは祖父(文楽三味線の二代目鶴澤道八)の二十七回忌の法要の時で、私は33歳くらいでした。人間国宝になると言われていた祖父はそれを待たずに他界してしまったので、生きていた最後の日付で勲章が追贈されました。法要の時にそれを知って、自分が最速で祖父の思いを叶えることが一番の孝行だと思ったんです。

伯山 前名の初代豊竹咲甫太夫を名乗られたのは小さい頃だと思いますが、6歳からお稽古を始められたんですか?

織太夫 8歳の時に師匠のもとに入門しました。実家が大阪で旅館を営んでいて、婿養子に入った父は料理人でした。母は鶴澤道八の娘でしたが、家には浄瑠璃のプレイヤーはいなかった。しかし古典芸能に触れる機会の多い環境だったので、いろいろな邦楽を聴くことができたのは、かえって良かったと思っています。旅館の2階は昼間は稽古場として使われていて、花柳流や藤間流のお師匠さんがいて「坊ちゃん、おいで」といってお稽古を見せてもらったり、毎週のように東京からいらっしゃる長唄の杵屋の家元の演奏を聴いたり、金剛流のお仕舞の稽古を見せてもらったりしていました。夜は歌舞伎の澤瀉屋さんや中村屋さんなど、公演のために大阪に来ている方々が泊まっていたので、昼も夜も芸の生き字引のような方が常に家の中にいて、その中から自分が学びたいと思うものを吸収できたんです。

画像: 感性を磨いた環境

伯山 織太夫さんはそういうお家に生まれたことで伝統芸能の内側にいて、純粋培養で育ったんですね。僕はサラリーマンの倅で中学生の頃からラジオっ子だったので、伝統芸能には全く興味がありませんでした。ある日「ラジオ深夜便」という番組を聴いていたら(六代目三遊亭)圓生師匠の『御神酒徳利』を耳にして、こんなに面白いんだ!と衝撃を受けました。間や空気感からイマジネーションが広がって、生で聴くのは別としてテレビよりラジオのように耳から入るほうが、芸が伝わるんだという発見があったんです。それが落語という寄席芸との出会いでした。当時は高校生でしたが、それから浅草演芸ホールに聴きに行ったり、(立川)談志師匠の書籍を読み漁ったり、歌舞伎もよく観ていました。そんな中で、痛恨のミスだったのは(古今亭)志ん朝師匠の高座を聴く機会があったのに、気が進まなくて行かなかったことです。その後亡くなられてしまって……。それからは徹底的にアンテナを張って、できる範囲で生で体感するようにしてきました。歌舞伎では(中村)富十郎さんや(中村)勘三郎さん、(坂東)三津五郎さんの舞台はご存命中に拝見できたのですが、当時はまだお金のない高校生だったので3階席でした。あるとき、富十郎さんの響く声が素敵だなと思って、“芸能というものの基本は届くこと”だと教わりました。でも芸というものをより深く体感するには、1階席で観たかったなと思いますね。

外側から見える別の光景

織太夫 伯山さんは落語から入ったのに、講談の道に進まれたのはどんなことがきっかけだったんですか?

伯山 実は、僕の講談との出会いは“面白くねえな”というところから始まっているんです。

織太夫 え、そうなんですか? それは意外ですね。

伯山 100人くらい入るキャパシティの会場なのに30人くらいしかお客さんは入っていなかったですね。内容も新規のお客様ではなく、常連ばかりを相手にしている気がして、とても疎外感を感じました。全く素養のない僕は“この芸は終わるな”と思いながら聴いていたんです。10代の僕は率直に面白くなかったんですね。それでもその後も何度も聴きに行って、“この講談師は面白くないけれど、この人がこんなに一生懸命やっているんだから、講談そのものはひょっとしたら面白いのかもしれない”って思うようになったんです。耳が慣れてくると面白くて、講談という宝の山が、どういうアプローチをしたら世間に受け容れられるのかと考えるようになりました。大学の4年間はいろいろなものを徹底的に観ようと思っていたのですが、その中で談志師匠の『らくだ』を聴いて大変な感銘を受けたんです。「芸は好き嫌い。ただ凄い芸というのは自然と体が反応する」と談志師匠がよく仰っていたのですが、まさにその通りでした。『らくだ』は古典落語ですが、談志師匠の『らくだ』は部分的に講談の手法を用いていることに気づいて、自分が惹かれるのはやはり講談だという結論に至りました。そして講談師になるために調べて、師匠の神田松鯉にたどり着きました。

画像: 神田伯山(KANDA HAKUZAN) 1983年東京都生まれ。2007年、講談師三代目神田松鯉に入門。2012年に二つ目昇進。2018年、第35回浅草芸能新人賞受賞。2020年2月真打ち昇進とともに6代目神田伯山を襲名。TBSラジオ『問わず語りの神田伯山』ほかメディア出演も多数。

神田伯山(KANDA HAKUZAN)
1983年東京都生まれ。2007年、講談師三代目神田松鯉に入門。2012年に二つ目昇進。2018年、第35回浅草芸能新人賞受賞。2020年2月真打ち昇進とともに6代目神田伯山を襲名。TBSラジオ『問わず語りの神田伯山』ほかメディア出演も多数。

織太夫 そして今は本を出されていたり、YouTubeで「神田伯山ティービィー」を配信されたり、私がやってみたいと思っていることをなさっていますね。

伯山 織太夫さんは太夫になるという宿命のもと、才能や環境に恵まれて道を歩んで来られたのでサラリーマンの家で育った僕と当然異なるのですが、最も大きく違うと思うのは、僕は“客の視点が強い”ということなんです。それは自分の財産だと思っています。学生時代に経験値として貯め込んだものですが、例えばお客として考えると、木戸がもたついていたらイライラするし、駅から遠いホールだと雨の日は不便に感じたり、チケット代の設定とかゲスト選びとか、客の視点から考えると問題点が浮かび上がってくるんですよ。独りよがりにならないためにお客の視点を絶対腹の中に入れるんだって、すごく強く思っていましたね。僕がやる企画はその経験が生かされているのかなと思います。だから講談に対しても先人に対しての敬意はありますが、講談のやり方には疑問から入っていく。もっと違うアプローチもあるんじゃないかなと。同時に講談の読み方はここが素晴らしいのでここは絶対に変えないとか、両輪なんですね。そこが織太夫さんとベクトルが違うと思います。織太夫さんは浄瑠璃の語りというものに違和感はないですよね?

織太夫 そうですね。私はいろんな方から愛されて育ってきたので、その人たちの希望を大事にしたいと思っていて、周りからの期待に応えるべく、いい舞台で恩返ししたいと思っています。そのために僕は織太夫を襲名してから自分の好みは捨てました。

伯山 それは面白いですね。

織太夫 咲甫太夫を名乗っていた時は、(七代目竹本)住太夫師匠のここがいいとか、自分の好みで語りを変えて師匠から叱られました。でも織太夫を名乗るということは、暖簾の味を守るということ。そのためには自分の好みは捨てなければならないと思いました。今度、三越劇場で師匠の追善として「浄瑠璃を聴く会」をするのですが、演目になぜ『菅原伝授手習鑑』の『寺子屋』を選んだかというと、師匠と縁があるものだからなんです。松王丸が我が子である小太郎を野辺送りするという場面、「いろは送り」と呼ばれる名曲に「健気な八つや九つで」という言葉があるのですが、師匠から「これは“やっつ”と“奴”をかけているから“八つ”って書いてあるけれど、“やつ”って読まなあかんねんで」と教わりました。師匠はさみしがり屋で派手なことが大好きな方でしたが、亡くなられた時私たちは東京での公演も控えていたので、最後までお見送りすることができなくて、弟子としてとても申し訳ない気持ちでいっぱいなんです。だからご家族にお話して、本来なら大阪で行う法要の代わりに師匠の祥月命日に三越劇場で「いろは送り」をさせていただくことになりました。

伯山 師匠孝行をなさるんですね。その師匠から伝統芸能を継承する上では、名プレイヤーであるとともに名伯楽でもあるという2つの要素が大事だと思っています。織太夫さんは身体的にも才能にも恵まれていてプリンス感があるので、周りにイエスマンが多くないですか(笑)。もっと客の視点といいますか、外側からアドバイスしてくれる存在がいたらより多くの人がこの芸に触れられるのに。

織太夫 それをやっていただけるのが、伯山さんなのかなと思っているんですが(笑)。

伯山 いやいや(笑)。織太夫さんはご自身でもプロデュース能力が高いと思うのですが、文楽への思いがあって、二人三脚で任せられるような人がいたら、最高にすごくなると思います。僕でいえば、妻が元々演芸の主催者なのでまさにそういう存在で、意見が合わないところもありますし、「あんたの芸はたいしたことない」と僕の芸を認めてもくれないのですが(笑)、本質的なところでは意見が合いますし、信頼性は高いです。僕の目標は“かみさんを振り向かせること”なんです。

画像: 外側から見える別の光景

新たなファンを増やす改革

織太夫 客観的な視点でいえば、私の場合は、文楽のマニアやオタク、そして研究者を味方にしています。現代美術家の杉本博司さんが構成、演出、舞台美術を手がけた「杉本文楽 曾根崎心中」では2008年に富山県で見つかった「黒部本」という初版完全本を原点として構成されているのですが、それは日頃は私たちを批判している研究者を味方につけたから実現したんです。

伯山 僕の改革はまた立ち位置が違うんですね。織太夫さんのお考えは尊重しますが、僕自身は評論家などと仲良くしないのは決して悪いことではないと思っています。評論家という存在はとても大事なんですけど、むしろわかり合えなくていいのではないかと。一度ある賞レースで評論家に「お客にはウケてたけど、僕みたいな評論家が唸る芸をやってほしいんだ」と言われて、「あんたが楽しいかどうかなんてどうでもいいんだよ」と面と向かって言った覚えがあります(笑)。僕は文楽にはすごく敬意があるので、養成所への志願者がゼロなんて聞くと、文楽の新規のファンを作らなくてはならないと思うんです。だから、もしもまた寄席に出ていただけるなら、“まくら”ができないのかなと思いました。本編に入る前に、演者の素の言葉を聴きたいなと。文楽は格式を重んじているので難しいことなのかもしれませんが、寄席に来ている人たちの感覚に合わせることでもっと伝わるのかなと。もちろん、文楽の足を引っ張らないように最大限の配慮はさせていただきますが、同時に柔軟にしていただくことで莫大なファンを生む機会にもなると思います。

織太夫 確かに舞台は芸をするだけではないですからね。今回、寄席に出させていただいて「神田伯山ティービィー」に楽屋の様子の動画が流れたことで、僕の立ち居振る舞いや日常会話をご覧いただいて親近感も持っていただけたので、大事なことだと思いました。

伯山 僕自身、学生の頃に講談を聴いた時に、これは新規の人に向けているのだろうかと疑問に思いました。そこには好きな人だけが集まっていて、自分の居場所がないと感じたことがあったんです。僕たちは文楽や講談を好きだと思っている人を増やさなければならないから、それには改革が必要ですよね。今回の芸も最高でしたが、寄席はリレーの芸でもあるので、次回はひと言話していただくだけもいい。それだけで馴染みやすくて、織太夫さんの魅力がさらに伝わるかと思います。なにしろ織太夫さんの芸は最高なんですから。

織太夫 ありがとうございます。過去に二代目と三代目の織太夫が寄席に出ていたこともあるので、どういう形でしていたのかなどを調べて考えます。僕は文楽を神棚に供えられたおはぎに喩えて、「神棚のおはぎをちゃぶ台に降ろす」とよく言っているのですが、神棚では手の届かないおはぎをちゃぶ台におくことは大事だと思っています。“アウェイ“もその一つです。

伯山 ぜひまた寄席への出演をお願いします。結局、“芸は好き嫌い”だから、僕たちの芸で好きを増やしていきましょう。

【竹本織太夫 information】

「浄瑠璃を聴く会 文楽のすゝめ」
会場:三越劇場 東京都中央区日本橋室町1-4-1

公演日時:2025年1月31日(金) 18時30分開演
初世豊竹咲太夫一周忌
祥月命日追善
プレトーク:尾上菊之助+竹本織太夫 司会:桂吉坊
『菅原伝授手習鑑』
寺入りの段 竹本織栄太夫
      鶴澤清方
寺子屋の段 竹本織太夫
      鶴澤清介

公演日時:2025年2月1日(土) 14時開演
初世竹本綱大夫二五〇回忌追善
二世竹本綱大夫二二〇回忌追善
プレトーク:中野信子+竹本織太夫 司会:亀岡典子
『摂州合邦辻』
合邦住家の段
中 竹本織栄太夫
  鶴澤清志郎
奥 竹本織太夫
  鶴澤清馗

問合せ:三越劇場 TEL. 0120-03-9354(10時〜18時)
インターネット予約はこちら

【神田伯山 information】

著作:「講談放浪記」(講談社)、「神田伯山対談集 訊く!」(集英社)
監修:「ひらばのひと」(講談社)
オフィシャルYouTube:「神田伯山ティービィー」
オフィシャルサイト

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