ディアギレフ、ニジンスキー、ファリャ、ピカソ、シャネル、コクトー、ラヴェル、サティ、ガーシュウィンetc…。夜空に輝く星々のように国境を超え、様々な文化を融合し、舞台上に大輪の花々が開いたバレエ・リュス。百年を経て、黄金の泡のグラスの底にいま何を見る?

TEXT BY YUKIHIRO NOTSU, ILLUSTRAION BY YOKO MATSUMOTO

画像1: 指揮者・野津如弘の
音楽と美酒のつれづれノート
Vol.19 バレエ・リュスの綺羅星物語

 前回、1920年代の話をすると予告したが、その熱狂渦巻く時代の前には悲惨な戦争があったことを忘れてはなるまい。1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告し始まった第一次世界大戦である。ヨーロッパ各地を焦土と化したこの戦争は、バレエ・リュスの活動にも大きく影響を及ぼした。ディアギレフは戦火を避けるようにイタリアやスペインでの巡業を行ったほか、アメリカでの公演を模索する。

 1916年には二度のアメリカ公演に加えて、スペインのマドリッド、サン・セバスチャンで公演。1917年は、ローマ、ナポリ、パリ、マドリッドを巡業するヨーロッパのシーズンを終えると、7月に南米公演へ出発。11月には再びヨーロッパへ戻るとバルセロナ、マドリッド、リスボンで公演を開催した。この年は慌ただしいながらも、ニジンスキーの後任として振付を担当するレオニード・マシーンのもと、団の芸術性がモダンな方向へ舵を切り、新たな扉を開いた年にもなった。

 それを物語る作品が、ジャン・コクトーの台本、エリック・サティの音楽にパブロ・ピカソの美術・衣装が合体した《パラード》である。サーカス小屋を舞台に、中国人の奇術師、アメリカ人の少女、フランス人のマネージャー、曲芸を披露する馬役のダンサー、軽業師などが登場し、当時流行していたジャズやラグタイムといったアメリカ生まれの音楽に合わせて踊るといった内容となっている。

 翌1918年になると戦争の影響がますます強まり、公演先がなかなか決まらないという事態に陥る。そんな中、ようやくスペインでの地方巡業が決まった。3年目となる同地での公演である。ディアギレフはスペイン舞踊に魅せられ、スペインを舞台にしたバレエを作りたいと思うようになっていた。こうして生まれたのが、《三角帽子》だ。スペインの作家アラルコンの原作に基づき、マノエル・デ・ファリャの音楽、パブロ・ピカソの美術・衣装というスペイン人によって作り出された徹底的にスペイン的な作品である。主役もスペイン人ダンサーが踊るはずだったが、その踊りがあまりに即興的だったという理由で、振付を担ったマシーンが踊った。1919年に、ロンドンのアルハンブラ劇場で初演を迎える頃には戦争も終結し、バレエ・リュスは、その後、フランスへと活動の場を戻すことになる。

 1920年にパリのオペラ座で初演されたストラヴィンスキーの音楽による《鶯の歌》はアンリ・マティスが美術を手掛け、《プルチネッラ》はピカソが美術を手掛けた。24年になるとディアギレフは「フランス六人組」と呼ばれる作曲家グループのフランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリック、ダリウス・ミヨーら若手の作曲家に音楽を委嘱した。美術を手掛けたのはそれぞれ、マリー・ローランサン、ジョルジュ・ブラック、アンリ・ローランスといった美術史に名を残す豪華な顔ぶれとなっている。

 6月にシャンゼリゼ劇場で初演されたミヨーの《青列車》では、豪華寝台列車に乗ってロンドンやパリからコート・ダジュールにやってきた社交界の人々がスポーツに興じながら週末を過ごす様子が描かれている。衣装を担当したのはココ・シャネル。シャネルがパリに次いで出店したのがノルマンディー地方の海辺のリゾート地ドーヴィル、そして南西フランスのビアリッツだったこと、そしてスポーティーな装いで評判だったことを考えると、まさにうってつけの人選だったといえるだろう。

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音楽と美酒のつれづれノート
Vol.19 バレエ・リュスの綺羅星物語

 さて、1920年代にパリにやって来たアメリカ人音楽家の中に、アーロン・コープランドとジョージ・ガーシュインがいた。コープランドは21~24年にパリに留学し、名伯楽ナディア・ブーランジェに師事した。後年、彼はバレエ音楽を書いて作曲家としての地位を確立。西部開拓時代を舞台にした《ビリー・ザ・キッド》 (1938)、牧場での恋愛模様を描いた《ロデオ》(1942)、開拓時代の東部アメリカのシェイカー教徒の町を舞台にした《アパラチアの春》(1944)が三大バレエとして知られている。

 ガーシュインはラヴェルに師事しようとしたが、ラヴェルから「あなたはすでに一流のガーシュインなのだから、二流のラヴェルになる必要はない」と断られたエピソードは有名である。そんな彼が数度にわたるパリ滞在を元に作曲したのが《パリのアメリカ人》(1928)。パリの騒がしい街並みを描いた冒頭部分からタクシー・ホーン(クラクション)が登場するなどウキウキ感満載の音楽で、このクラクションはフランス車のものでなくては、という強いこだわりがあり、ガーシュイン自身、フランスからわざわざ持ち帰ったそうだ。

 パリで数多くの芸術家たちがめぐり合い、その出会いから多くの素晴らしい作品が生み出された奇跡のような時代も終わりを迎える。バレエ・リュスの主宰ディアギレフは1929年8月に亡くなった。死を看取り、葬儀を出したのは(実際に費用も負担したという)、彼が客死したヴェネツィアにたまたま滞在していたミシア・セールとココ・シャネルだった。10月、ニューヨーク株式市場が暴落。それに端を発する金融危機が世界に波及し、各地で恐慌が発生。狂騒の20年代は名実ともに終わりを迎えたのである。

画像: 20世紀初め、シャンパーニュ愛飲家ウジェーヌ・エメ・サロンが自身のためにつくった至高のシャンパーニュは瞬く間に富裕層の憧れの的となり、1920~30年代には「マキシム」を筆頭にパリの名店に取り入れられ、美食家やエピキュリアンたちを魅了した。こちらはファーストヴィンテージから数えて45代目、ル・メニル・シュール・オジェの単一クリュで育ったシャルドネの単一品種を使用し、最高の年にだけ造られる希少なシャンパーニュである。1905年に初代が生み出した傑作を想起させるような力強さと繊細さを備え、唯一無二のハーモニーを奏でる。バレエ・リュスを創りあげたキラ星のごとくの面々と、時空を超えて、そっと乾杯。「シャンパーニュ・サロン2015」¥198,000 COURTESY OF SALON 問い合わせ ラック・コーポレーション TEL. 03-3586-7501 公式サイトはこちら

20世紀初め、シャンパーニュ愛飲家ウジェーヌ・エメ・サロンが自身のためにつくった至高のシャンパーニュは瞬く間に富裕層の憧れの的となり、1920~30年代には「マキシム」を筆頭にパリの名店に取り入れられ、美食家やエピキュリアンたちを魅了した。こちらはファーストヴィンテージから数えて45代目、ル・メニル・シュール・オジェの単一クリュで育ったシャルドネの単一品種を使用し、最高の年にだけ造られる希少なシャンパーニュである。1905年に初代が生み出した傑作を想起させるような力強さと繊細さを備え、唯一無二のハーモニーを奏でる。バレエ・リュスを創りあげたキラ星のごとくの面々と、時空を超えて、そっと乾杯。「シャンパーニュ・サロン2015」¥198,000

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<参考文献>
シェング・スヘイエン(鈴木晶訳)『ディアギレフ』(2012年、みすず書房)
セルゲイ・グレゴリエフ(薄井憲二監訳、森瑠依子ほか訳)『ディアギレフ・バレエ年代記 1909-29』(2014年、平凡社)
海野弘『華麗なる「バレエ・リュス」と舞台芸術の世界』(2020年、パイ・インターナショナル)

画像: 野津如弘(のつ・ゆきひろ)●1977年宮城県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、東京藝術大学楽理科を経てフィンランド国立シベリウス音楽院指揮科修士課程を最高位で修了。フィンランド放送交響楽団ほか国内外の楽団で客演。現在、常葉大学短期大学部で吹奏楽と指揮法を教える。明快で的確な指導に定評があるとともに、ユニークな選曲と豊かな表現が話題に。 公式サイトはこちら

野津如弘(のつ・ゆきひろ)●1977年宮城県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、東京藝術大学楽理科を経てフィンランド国立シベリウス音楽院指揮科修士課程を最高位で修了。フィンランド放送交響楽団ほか国内外の楽団で客演。現在、常葉大学短期大学部で吹奏楽と指揮法を教える。明快で的確な指導に定評があるとともに、ユニークな選曲と豊かな表現が話題に。
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画像: マツモトヨーコ●画家・イラストレーター 京都市立芸術大学大学院版画専攻修了。「好きなものは各駅停車の旅、海外ドラマ、スパイ小説、動物全般。ときどき客船にっぽん丸のアート教室講師を担当。 公式インスタグラムはこちら

マツモトヨーコ●画家・イラストレーター 京都市立芸術大学大学院版画専攻修了。「好きなものは各駅停車の旅、海外ドラマ、スパイ小説、動物全般。ときどき客船にっぽん丸のアート教室講師を担当。
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