BY RACHEL CORBETT, PHOTOGRAPHES BY DEAN KAUFMAN, TRANSLATED BY G. KAZUO PEÑA(RENDEZVOUS)

ファニタ・マクニーリー。ニューヨークにある自身のスタジオにて、最近の作品に囲まれて
70年代初期、セクシャルマイノリティによる「クィア・アート」の登場によって、アートとセックスに関する議論は一般社会にも広がらざるをえなくなった。性というものを表現する資格は誰にあるのか。それはどういった形をとるべきなのか――? 保守派とキリスト教右派は、ロバート・メイプルソープやデイヴィッド・ヴォイナロヴィッチなど、男性の同性愛者のアーティストに批判的な目を向けた。このふたりはともに、作品を通して男性同士の性的欲望を表現しており、ともに美術館に検閲された経験があった。彼らのような男性器を表現するフェミニストと、クィア・アーティストの主要な第一世代のあいだには、人の気持ちを逆なでするような表現で人体を描写するという、哲学的な共通性があった。
進歩的価値観と保守的価値観の戦いの中で、メイプルソープとヴォイナロヴィッチはリーダー的存在として台頭し、結果、彼らの作品はより多くの人に知られていった。「クィア・アート」が美術館やギャラリーに置かれるに十分な肩書を得た一方で、女性アーティストたちはまだ日陰の存在だった。1989年、男性のヌード写真をフィーチャーしたメイプルソープの個展がワシントンD.C.のコーコラン美術館で開催予定だったが、国会議員の圧力で中止になったことがある。しかし、すぐさま会場をワシントン・プロジェクト・フォー・ザ・アーツに移し、開催することができた。大勢の人々がこの個展を見ようと列をなしたことで、1950年代の価値観に危うく逆戻りするところを、少なくとも一時的には阻止することができたわけだ。その一方で、女性アーティストたちはといえば、新たな評価を受けることも、新たな敬意を得ることもなかった。90年代に浮上した第3次フェミニストたちは、クィア理論家や有色人種
の活動家と手を組み、前の世代のフェミニズムを“異性愛や白人に偏りすぎ、特権的”だとこきおろしていた。
そして、性を描く女性アーティストたちが創作を始めて50年が経った今、社会はようやく彼女たちに追いついた。近頃では、スマホでポルノ動画をストリーミングすることさえできる。また、美術館の展覧スケジュールを計画するキュレーターの多くは、フェミニズム理論に親しみながら大人になった人たちだ。そして、セックスと女性の身体を主題にした多種多様な若い女性アーティストも大勢いる。しかも彼女たちは、その活動を通して評価も勝ち得ている。殺害された女性の写真とハードコア・ポルノ写真をコラージュした作品を作る27歳のダーリア・バヤギッチ。インスタグラムでブラジャーやTバック姿のセルフィーをポストし、架空のペルソナを演じてきた28歳のアマリア・ウルマン。 同じ大学の学生にレイプされたときのマットレスを引きずり回してコロンビア大学のキャンパスを行進するというパフォーマンスを2014年に行った、25歳のエマ・サルコウィッツ。サルコウィッツのこのパフォーマンスは、またたく間に大学のキャンパス内における性的暴行に関する議論の象徴となった。
トンプキンズとバーンスタインの作品が急速に支持を集めているのは、露骨なマテリアルが大量に出回り、簡単にアクセスできるようになったことで、私たちが鈍感になったせいだけではない。現代の若い女性たちが、これらのアーティストがキャリアを始めた当時、自分たちの母親や祖母たちが戦ってきたのと同じ困難に直面しているからだろう。2017年1月に行われたウィメンズ・マーチは、前の世代のフェミニズムにとっては、ある種の団結の場となった。同時にこの行進は、女性たちに行動を呼びかける現在形の運動であり、過去の活動を認める行為でもあった。参加者が掲げていた抗議サインには、女性アーティストたちが過去から現在に至るまでに描いたすべての図像が用いられた。彼女たちを社会から疎遠にし、時が経つにつれて抵抗の時代の象徴となった絵。男性と女性の肉体的機能を解剖学的に描写した、あからさまな絵だ。

(写真左)
1967年ごろのマクニーリー。
PHOTOGRAPH BY MICHAEL SIPORIN, COURTESY OF JUANITA MCNEELY
(写真右)
彼女の自画像のひとつ《TAGGED》2014年
PHOTOGRAPH BY JEAN VONG
COURTESY OF THE ARTIST AND MITCHELL ALGUS GALLERY, NYC