遊び心に溢れ挑発的、探求心に富んでいて神秘的ーー。そんな作品を引っさげ、ダレン・ベイダーは混沌としたわれわれの時代を定義づけるアーティストになった。それはいったいなぜなのか

By Nikil Saval, Portrait by Domingo Milella, Translated by Miho Nagano

 巻き毛で小柄、前かがみに背中を丸めたベイダー。40代前半に突入したことを、仕方なく受け止めている。アートについて真剣な議論をする者につきものの漠然とした表現で、くだけた中にもきめ細かい配慮のある発言をくり出す。

「アートって何だろう? スピリチュアルな存在であり、かつ、実存的な存在だ。僕たちが住むこの世界って何だろう?高度に商業化された社会で、消費社会だ。ではそこに込められた意味を探すことに、どんな意味があるんだろう?」。同時に彼は、こうした真剣な態度に対して、常に異議が唱えられる、そんな時代に私たちが生きていることを知っている。非実用的で使い道のないオブジェが、何百億ドルという価格で取り引きされるアート界において、金銭がいかにバカらしい存在であるか。それを、ベイダーの作品の多くは、しばしば追究してきた。

 ベイダーはこのアート界のカルチャーをある意味、実況中継しているのだ。2015年、彼はクラウドファンディングのウェブサイト、インディゴーゴーで、約1万6,000ドル(約176万円)の募金を集めた。そして、その“金”そのものを、ロンドンのクリスティーズのチャリティ・オークションで競売にかけたのだ。結果的にその“金”は、約1万9,000ドル(約210万円)の値で競り落とされた。

 ベイダーは金銭を、象徴的な存在、あるいは取り引きの手段から、彼の言葉で言うなら「この世の中で、ほかのどんなものでも、それになり得るオブジェ」に替えたのだ。
 彼の作品は遊び心に溢れていて、論理的だ。アートが題材にしていると彼が考えるものを題材にする、それが彼自身のアートなのだと、語ったことがある。そして、現代アートの世界が価値を置くであろうものを取り払うことで、しばしば彼の作品はでき上がっている。

 ベイダーの作品は、別の言葉で言うなら、それを観る者たち(そしてアーティスト本人、ギャラリスト、顧客たち)に挑み、挑発し、アートとは厳密には何なのかを問うものだ。
 多くの、とりわけ裕福なコレクターたちにとって、アートの意味づけには何の危機も生じていないようだ。アート・バーゼルとUBS(註:スイスの銀行)が3月に出版した報告書によれば、2017年の世界のアート市場の総売り上げは637億ドル(約7兆円)に達し、前年比でみると12%上昇している。特に世界中で政治危機が起きているような時代には、特定のアーティストやその作品が、とんでもなく高く評価される。そして人口の99%を占める、私たちのような存在にとっては、現代アートは、ベイダーの言葉を借りれば「変容しやすく根拠に乏しい命題」だという認識がますます強くなっているだろう。

 ベイダーは必ずしも政治的なアーティストではないが、彼のコンセプチュアルな作品は、アート界にはびこる商業主義や説教くさいエリート主義に、継続的な批評を投げかける力がある。その批評がたとえ、どんなにくだらないものであってもだ。

 彼は変なところで生真面目で、どこかしら彷徨(さまよ)える論理学者みたいなところがある。彼の作品は長い時間をかけ、細部にわたって練られた思考の列車のようなものだ。そんな列車が不条理という駅に蒸気を上げながら入ってくる。さらにベイダーは常に、この現実に存在する不条理をも、私たちに突きつけてくる。私たちの生活やスマホの画面を席捲する、オブジェと思考の奇妙な組み合わせという不条理を。さまざまな物を単純に、無秩序に関連づけて、そのバカバカしさを前面に押し出す――たとえば、彼自身についてグーグルで検索し、その検索結果のスクリーンショットを大きく引き延ばして壁に飾ったり、彼の父親のピアノをギャラリーで売ったり――という方法で、彼は意味の本質を探究し、私たちが理解し受け入れられる限界を押し広げているのだ。

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