By Nikil Saval, Portrait by Domingo Milella, Translated by Miho Nagano
<ダレン・ベイダーによる 4 作品>
アーティストは、本誌独占公開のために彼が創作した、 一連の作品用の説明書きのリストを私たちに送ってきた。 私たちはできる限りその指示に沿って任務を遂行した。
シュールレアリズムのビジュアル表現の歴史が、ベイダーの活動の先例になったのは明らかだが、――「解剖台の上でのミシンと雨傘の偶発的な出会い」という、19世紀フランスの詩人イジドール・デュカスの一節は、まるでベイダーの彫刻の説明書きのようだ――ベイダーの作品では、文字で書かれた言葉もまた非常に重要だ。彼の作品のコンセプトには指示書が必須なことが多く、その指示書によって概念が意味をなしてくる。たとえば、2012年の作品《避妊ピルを飲んだオートバイ》(寸法は適宜)の説明書きにはこんな一文が書かれている。「処方箋に従い、ピルはオートバイの燃料タンクの中に配置すべし」
コンセプチュアル・アートのほとんどは、文字で表現された、漠然とした哲学的考察を中心に構築されてきた。ローレンス・ウィナーというアーティストがいる。アフォリズム(註:真実を簡潔に伝える表現。格言)の概念を、ギャラリーや博物館の壁に、塗料やビニールのシールで直接描く作品で知られている(“塵+水をどこかに置く/空と地球の間に”――という具合に)。彼は、自身の作品の価値を決める独自のガイドラインを作り出したことで有名だ。「1.アーティストが作品を構築することもある。2.作品は盗作である可能性もある。3.作品は実存している必要はない」
ウィナーはかつてこう言った。「私の作品を知れば、それはもう君のものだ」
「この作品に何の意味があるのか?」という問いは、コンセプチュアル・アートの言わずもがなの大命題だ。つまり、アートの本質そのものを執拗に問いただすことこそが、コンセプチュアル・アートの最も重要な役割なのだ。これは何か? 何の可能性があるか? どうしてこれが存在する必要があるのか? と。時に答えが見つからないこれらの鋭い質問が、激動の時代に沸き上がってくることは、偶然ではない。マルセル・デュシャンは、1917年、第一次世界大戦の最中に最も有名なレディメイド(註:大量生産されたものをアートとして使うこと)を創造した。男性用小便器をニューヨークでの展覧会で展示しようとしたのだ(その企画は断られたが)。
米国でのコンセプチュアル・アートは、ソル・レウィットやエイドリアン・パイパーなどが牽引し、1960年代の動乱の中から台頭してきた。70年代末から80年代にかけて、今度はネオリベラリズム(註:自由市場経済を求める動き)が勢いよく台頭してくると、アート界を商業化の波が急速に蝕(むしば)んだ。アーティストたちは、自らの創造を金銭に換えることに力を注いだ。そんな変遷を経て、新しいタイプのアートが生まれた。決して売ったり買ったり、あるいは通常の感覚では所有することができないようなアートだ。
ベイダーはアート界の商業化が絶頂に達しようとする頃にデビューした。そしてコンセプチュアル・アート自体を商品化することで、彼はアートの歴史に貢献した。彼の作品のいくつかは、それが実際に売れるまで、作品として完成しない(この場合、コレクターたちが購入するのは、説明書という形をしたアイデアそのものだ)。その作品がどのように売却され、その後どうなるのかは、しばしば作品のストーリーの一部になっている。
コンセプチュアリズムに対して、ベイダーはもうひとつ、さらに重要な貢献をした。それは彼のユーモアのセンスだ。アンドリュー・クレプス・ギャラリーでこの4月に開催された最新の展覧会で、ベイダーは《ローレンス・ウィナー研究と称賛》と題した作品を展示した。ウィナーの語彙を引用し、ウィナー風にシール文字を壁に貼りつけた作品だ。もちろん、ウィナーのアフォリズムを奇っ怪なジョークでひねることも忘れなかった。
「若返れ。さもなくば死ね」とか、エイス・オブ・ベイスの曲の歌詞「人生は理解もしてくれないうえに、いろいろ難題をつきつけてくる」とか。
コンセプチュアル・アート作品の多くは、無表情な見かけの下におかしみを内包しているが、ベイダーの説明書きは、わざと、極限まで感情を抑制した表現で、このジャンルの無意味さをいっそう人々にアピールしている。《牛とベッド》という2012年の作品用のテキスト全文が以下だ。
この作品は二つの要素で構成されている。牛とベッドだ。牛*はオーロックス種(註:絶滅した種)で自由に歩き回っている個体ならどれでもいい。ベッドはどんな種類のベッドでもいい。牛とベッドはお互いそれなりに近距離にあるのが望ましい。大雑把に言って、客が頭を動かさずに両方の要素を見られるような位置がよい。作品に特に時間制限はない。この作品に出てくる牛のほかに、別の牛がいてもよい。つまり、牛=牛たち、であってもまったく構わない。(*註:牛(たち)を人道的に扱うのが大前提だ)
「僕はほかの何であるよりも前に、まず書き手なんだ」とベイダーは言う。「物語を伝えることは僕にはまったくできないから、フィクションを書いたことはない。でも、あらゆる種類のイメージが大好きだ。イメージとは何かを定義する必要があるけれど。僕の作品は、結局のところ、いかに言葉とイメージが影響し合い、お互いに歩み寄っていくかということに尽きる」