食品を素材に「食」を問う
現代のアーティストたち

These Artists Are Creating Work That’s About, and Made From, Food
過去何世紀にもわたり、食品はアートの材料であり主題でもあった。人間にとって欠かせない食べ物という素材と向き合っている、現代のアーティストたちに迫った

BY LIGAYA MISHAN, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

 アイロニーの材料として使われるようになる遥か以前、食べ物は静物画における寓意的なオブジェだった。近世、ヨーロッパのネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに当たる地域)では、静物画は決して人気のジャンルではなかった。最初、批評家たちは静物画を、宗教画や歴史画より教養的価値の低いただの装飾だとして下に見ていた。だが、食べ物にはいつだってストーリーがあるのだ。食べ物は儚い――消費されるか傷んでしまう運命だ。だから、静物画の一種であるヴァニタス、人生の虚しさや死すべき運命を思い出させる絵画にはよく使われた。そして食べ物には文化的な意味合いもあるので、社会階級を定義するのにも使われた。17世紀前半、貿易で栄えたアムステルダムでは、静物画は贅沢なミザンテーヌ(舞台演出)となった。地中海産のレモン、インドのスパイスがふんだんに使われたミンスパイ。こういった物を描いた絵画は、今日のインスタグラムの写真と同じように、細部まで念入りに演出されていた。絵を依頼する、当時増えつつあったブルジョワ商人たちの経済的豊かさを表現するために、リアルさは手放すことになったのだ。

画像: ジーナ・ビーヴァーズの≪Oysters at Grand Central≫(2012年) COURTESY OF GINA BEAVERS. PHOTO:ANDRÉS RAMIREZ

ジーナ・ビーヴァーズの≪Oysters at Grand Central≫(2012年)
COURTESY OF GINA BEAVERS. PHOTO:ANDRÉS RAMIREZ

 こういった考え方――ステータスや富を表すものとしての食べ物――は、現代にも生きている。ギリシャ生まれのアメリカ人アーティスト、ジーナ・ビーヴァーズは、ツヤツヤした生牡蠣や、山と盛られたチキンやワッフルといった食べ物の写真をオンライン上で見つけ、レリーフ・ペインティングに変えている。その作品≪Palate≫(2012年)の表面にはアクリル絵の具が塗りたくられ、軽石やガラスビーズで縁取って厚みがつけられている。でき上がった作品は、きらびやかなソーシャルメディアの写真とは対極的に、リアルな凹凸や水っぽさ、生々しさが、過剰に表現されている。2015年には、カナダのアーティスト、クロエ・ワイズが、ベーグルや白パン、ジャムを塗ったトーストで作ったように見えるハンドバッグに、シャネルやプラダのロゴを貼りつけて作品にした。パロディーの元となったデザイナーズバッグと同様に、彼女の作品は大変な人気を博した。ウレタンではなく本当に“パン”でできていたら、もっと面白かっただろうけれど。

 素材としては、食べ物はユニークな質感と官能を作品に与える。そういった作品では、わかりやすく食べ物を食べ物として扱うわけではない。たとえばアメリカの彫刻家、アンディ・ヨーダが2003年に制作した、ツヤツヤと輝くリコリスでできた高級感のあるウィングチップシューズ。またはフランスとアルジェリアをルーツにもつアーティスト、カデール・アティアが2009年に制作した、サハラ砂漠のムザブの谷にある古代の要塞都市ガルダイアの模型。これはクスクスで作られていて、まるで砂のように見える(崩れても、再建することは禁止されている)。

画像: アンディ・ヨーダーの≪Licorice Shoes≫(2003年)。アーティストの父親が履いていたウィングチップシューズと、祖母が器に入れていたリコリスキャンディの思い出が組み合わさっている © ANDY YODER, COURTESY OF THE ARTIST.

アンディ・ヨーダーの≪Licorice Shoes≫(2003年)。アーティストの父親が履いていたウィングチップシューズと、祖母が器に入れていたリコリスキャンディの思い出が組み合わさっている
© ANDY YODER, COURTESY OF THE ARTIST.

こういった作品のカギとなるのは、その変質の速さだ。たとえば腐敗は避けられないばかりでなく、作品のゴールにもなる。スイスのアーティスト、ウルス・フィッシャーの作品≪Faules Fundament(Rotten Foudation)!≫(1998年)では、腐りつつある果物を土台にしてレンガの壁が建てられている。こういった作品のうつろいやすさは、ときに我々を警戒させ、怖がらせさえする。1997年、腐った魚をスパンコールやビーズで飾りつけた韓国のアーティスト、イ・ブルの≪Majestic Splendor≫がニューヨーク近代美術館に展示されたときは、作品が例の強烈な匂いを発したため、マンハッタンにあるこの美術館からの撤去を余儀なくされた。2018年初めにロンドンのあるギャラリーで開催された新たな展覧会では、その匂いを中和しようと過マンガン酸カリウムをたっぷりかけたところ、ボヤ騒ぎが起こった。

 食べ物は、今一度ヴァニタスとなったのだ。命の儚さと、すべて地球上の価値あるものはいずれ変容するのだと教えてくれる存在となった。このアイディアを、フィッシャーは2015年の展覧会で茶番劇の領域にまで引き上げた。新品の便器の中に熟したフルーツを盛り、豊饒さと、消化の最終地点のことを思い出させる行儀の悪さとを同時に示したのだ。こういった非永続的な材料を用いた作品は、私たちを待ち受ける運命に向き合わせるとともに、しぶしぶ容認させもする。1992年から1997年にかけて、アメリカのアーティストであるゾーイ・レオナルドは、果物の皮を剥いて、まるで元の形に修復しようとしたかのように縫い合わせた。これは彼女の友人でもあったアーティストで、1992年にAIDSで亡くなったデイヴィッド・ヴォイナロヴィッチを偲んでのものだった。展示では、果物の皮はまるでそこに落ちたまま忘れられたかのように床に置かれ、こんなマニフェストを物語っていたー命あるものが朽ち果てるのをただ穏やかに待つのみ。レオナルドは、作品が腐って分解するままにまかせた。

 材料が腐敗する前に、それを消費し尽くすことが作品づくりに欠かせないというタイプのアーティストもいる。ゴームリーがパンのベッドを作ったとき、彼は自分の体の形に合わせて食パンの山を切り抜いたのではなく、歯で噛みちぎった(「自分の体積の分だけパンを食べた」と彼は述べている)。1992年には、アメリカのアーティスト、ジャニーン・アントニが600ポンド(約272kg)の立方体2体を展示した。ひとつはチョコレート、もうひとつはラードでできていて、両方ともアーティスト自身がかじった跡がついている。かじり取られた部分は、ラードは口紅に、チョコレートはハート型容器になった。ときとして、来場者がアート作品を食べるよう求められることもある。1991年にゴンザレス=トレスが制作した、きらきら光る七色の紙に包まれたフルーツフラッシャーキャンディの山がその例だ。これはその年の初頭にAIDS関連疾患で亡くなった彼のパートナーを偲んだ作品で、175ポンド(約79kg)の作品はその身代わりとみなされた。

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