BY LIGAYA MISHAN, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI
ここに1枚の写真がある。16個の卵の黄身がプラスチックの製氷トレイの中に入っていて、ひとつひとつの仕切りからは白身があふれそうだ。トレイの周囲には割れた殻が散乱し、背景にはのっぺりとした青い色が広がっている。構成としてはシンプルで印象的だ。ジョリー・ランチャー(ソフトキャンディの商品名)を彷彿させる色使いは、インスタグラムでもよく見かけるもの。ただし、ソーシャルメディアにあふれる食べ物の写真が訴えかけてくるものが、この写真からは読み取れない。これがおいしいのか、そもそも食べられるのかすら、まったく伝わってこないのだ。鮮やかな色をした黄身は製氷トレイの型にはまって、妙な具合に長方形になり、写真の横長の画面そのものを反映しているかのようだ。食べ物本来の性質は、人工的な演出の脇に追いやられている。殻は黄身から分断され、見た目と実態はかけ離れ、食べ物はその役割を失っている。この写真の中に、食べられそうなものは何ひとつない。
この作品を手がけたのは、ともに31歳のジョージー・キーフェとフィリス・マーで、2人は2014年から写真や自費出版誌、ストップモーション・ビデオの制作などを行ってきた。デュオの名前は「レイジー・マム」。子どもをほったらかしにする“悪い母親”という忌まわしいイメージを喚起させる名前だ。ちゃんとした放課後のおやつを作る代わりに、レイジー・マムはアートに没頭する。つぶれたマスタードのミニパックにクローズアップして写真を撮ったり、1枚のワンダーブレッド(アメリカの大衆的な食パン)をジップロックに詰めてみたり――ライトに照らされたジップロックのしわは、フェルメールの陰影のような効果を生み出している。食べ物を使って制作することは、つまり食べ物で遊ぶことで、これは「やってはいけないと教えられてきたこと」だと言うキーフェ。彼女たちのように、作品の素材、兼テーマとして食品を扱うアメリカ人アーティストは他にもいて、その系譜には何世紀にも及ぶ伝統がある。ただしこの数十年で、その作品の幅とテーマは劇的に広がっている。
この系譜の先達には、スイスの扇動的なアーティスト、ディーター・ロスも含まれる。ロスは1968年に書いた詩的な日記をプリントして、ザワークラウト、ラム肉、バニラプディング(こっそり尿が混ぜられている)といったものを入れた袋に貼りつけた。また、英国の彫刻家、アントニー・ゴームリーはその作品≪Bed≫(1980~’81年)で、600斤もの食パンを積み重ねて、そこに誰かが寝ていた跡のようなくぼみをつくった。1991年の湾岸戦争の際には、キューバ系アメリカ人のアーティスト、フェリックス・ゴンザレス=トレスが、灰色のリコリスキャンディをギャラリーの床にばらまき、銃弾が雨のように降った後を想起させる作品を制作した。
食べ物はまた、シュールレアリストたちの視覚的ジョークとしても長く用いられてきた。たとえば英国のアーティスト、サラ・ルーカスは、1997年の≪Chichen Knichers≫で、開いた状態の生の鶏肉を、自分のアンダーウェアの前に縛りつけてポーズをとった。一方で、食べ物は見た目ではそれと認識できない形でも用いられてきた。アメリカのアーティスト、ダン・コーレンの21世紀初頭のキャンバス画では、絵の具の代わりにチューイングガムが使われている。中国のコンセプチュアルアーティスト、へ・シャンユは、2009年の≪Cola Project≫で、127トンのコカ・コーラを煮詰めてオイルのように黒い残留物を作り、それをインクがわりにして、中世の宋朝時代の絵画を模した絵を描いた。西洋の産業から生まれた製品を、いにしえの中国の象徴に変化させたのだ。
現代のアーティストたちに特有なのは、その作品が、食べ物を執着の対象とみなす文化から生まれ、そしてある意味ではその文化と戦わねばならないということだ。身体感覚から切り離されたソーシャルメディアの世界においては、食べ物はもっぱらビジュアル素材として認識されていて、丁寧に画像処理され、お行儀よく仕上げられた写真の中に収まっている。そこに物質界のリアルさはない。食べ物は想像上のおいしさをまとった状態のままで留め置かれていて、実際にそれを味わうことは叶わない。永遠に満たされない願望の象徴として存在している。これは極めて特権的な視点だ。食料供給が非常に安定しているからこそ、食べ物を生物学的に生き延びるための必要資源としてではなく、エンターテインメントとして見ることができるのだから。こうして助長される軽薄さを、キーフェとマーは警戒している(国連のレポートによると、昨年、栄養失調に苦しんでいる人の数は世界でおよそ8億2100万人にのぼったという)。
レイジー・マムのミッションのひとつは、現代のフード・カルチャーの仰々しさをあざ笑うこと。よそよそしいまでに完璧なフード・スタイリングや、キーフェが言うところの「お皿の上に、あらゆるものをピンセットで置くような」食のプロたちを笑い飛ばすことだ。それにもかかわらず彼女たちの風刺的なイメージは、もっとわかりやすく華やかなインスタグラムのフィードと同じファン層をひきつけているし、2人はデザインホテルグループのエースホテルや、休刊したフードカルチャー誌『Lucky Peach』などでフード・スタイリングの仕事をしてきた。社会に縛りつけられている食の概念を、それに飲み込まれることなしにどうひっくり返し、問いただすのか。これが、レイジー・マムとその同志たちの抱える問題だ。