不条理な資本主義がはびこる美術市場の陰でひそかに行われている作品の取引――芸術家たちの物々交換。それは過去から引き継がれた慣習であり、芸術家同士の健全な競争心を育むものでもある

BY MEGAN O'GRADY, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICES

 1966年、ボブ・ディランはマンハッタンのミッドタウンにあるアンディ・ウォーホルのスタジオ「ファクトリー」を訪ねた。若き異端児であった彼はむっつりした顔で座り、映像ポートレート『スクリーン・テスト』のための被写体となった。これはウォーホルが1964年に制作を開始した短編映画のシリーズで、デニス・ホッパーやイーディ・セジウィックなど多数の有名人が出演した。スターを前にしたウォーホルは舞い上がり、ディランに一枚の絵画を進呈した。

 1963年制作のシルクスクリーンに描かれたエルヴィス・プレスリーのポートレートだ。ディランはプレスリーについて、「彼の音楽を初めて聴いたとき、牢獄から脱出したような気分になった」と語っている(皮肉なことに、このポートレートは映画『燃える平原児』(’60年)の宣伝写真をもとに描かれたもので、プレスリーは保安官のような格好をしている)。ディランはこの絵を受け取ったものの、2メートル以上もあるカンバスを自分のステーションワゴンに積むという難題に直面し、結局は友人の映画監督バーバラ・ルビンに手伝ってもらって車のルーフに縛りつけるはめに。その後、あの絵はどうしたとウォーホルに聞かれ、ディランは自分のマネジャーにあげてしまったことを明かす。「でもアンディ、もう一枚くれたら、同じ失敗は繰り返されないよ」とディランは言ったと伝えられている。

 実際にはディランが絵をソファと交換したことをウォーホルが知ったのは、もっとあとのことだ。この作品は現在、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に展示されている。ウォーホルは「フェラス・タイプ」と呼ばれるエルヴィスのポートレート(アメリカ西海岸で初めてアンディ・ウォーホルの個展を開催したロサンゼルスの「フェラス・ギャラリー」にちなむ)を合計23点制作したが、そのうちの一点が今年5月にクリスティーズが行ったオークションに出品され、5,300万ドルで落札された。ソファのほうがその後どうなったかは、記録に残っていない。

画像: 1907年制作、アンリ・マティスによる娘の肖像画。マティスはこれをパブロ・ピカソとの間で交換した HENRI MATISSE, “MARGUERITE,” 1907, OIL ON CANVAS, FROM PICASSO’S PERSONAL COLLECTION, PHOTO BY ADRIEN DIDIERJEAN © 2019 SUCCESSION H. MATISSE/ARS, N.Y. ©RMN-GRAND PALAIS /ART RESOURCE

1907年制作、アンリ・マティスによる娘の肖像画。マティスはこれをパブロ・ピカソとの間で交換した
HENRI MATISSE, “MARGUERITE,” 1907, OIL ON CANVAS, FROM PICASSO’S PERSONAL COLLECTION, PHOTO BY ADRIEN DIDIERJEAN © 2019 SUCCESSION H. MATISSE/ARS, N.Y. ©RMN-GRAND PALAIS /ART RESOURCE

 昔からクリエイティブな人々の間では、非公式の交換システムがあった。お互いへの称賛の念、同志愛、競争心――あるいはその3つの感情が複雑に混じり合って、贈り物を交換するという習慣だ。パブロ・ピカソは友人でもあり敵でもあったアンリ・マティスと、ポール・ゴーギャンはフィンセント・ファン・ゴッホと作品を交換した。深い友情で結ばれたパウル・クレーとワシリー・カンディンスキーは、誕生日やクリスマスに小さな絵を贈り合った。フランシス・ベーコンとルシアン・フロイドは、論争を繰り返しながらも25年にわたり親密な交際を続け、決定的な仲たがいをする前に、それぞれが相手を描いた肖像画を交換した。

 仲のよい友人同士でも、作品の交換には微妙な問題がつきまとう。そこにはエゴが絡み、拒絶されるのではないかという不安もある。輸送や保管の問題もある。仲買人をはずして直接取引をすると、ルールは流動的になりがちで、時にはそれが不安材料になる。商業主義的な美術市場においては、価格は目まぐるしく変動するからだ。どちらの作品のほうが10年後に価値が高くなるかは誰にもわからない。「芸術作品は、値段がつけられないか、価値がないかのどちらかだ」という、作家で芸術収集家のガートルード・スタインの言葉は有名だ。

画像: フロイドによるベーコンの肖像画。1964年制作。ふたりは交友関係が始まって間もなく作品の交換を始めた LUCIAN FREUD, “FRANCIS BACON,” 1952, PAINTING STOLEN IN 1988 DURING AN EXHIBITION IN BERLIN, ALBUM/ART RESOURCE, N.Y. © THE LUCIAN FREUD ARCHIVE/ALBUM/ORONOZ/NEWSCOM

フロイドによるベーコンの肖像画。1964年制作。ふたりは交友関係が始まって間もなく作品の交換を始めた
LUCIAN FREUD, “FRANCIS BACON,” 1952, PAINTING STOLEN IN 1988 DURING AN EXHIBITION IN BERLIN, ALBUM/ART RESOURCE, N.Y. © THE LUCIAN FREUD ARCHIVE/ALBUM/ORONOZ/NEWSCOM

画像: フランシス・ベーコンによるルシアン・フロイドの肖像画(3作のうちのひとつ) FRANCIS BACON, “THREE STUDIES FOR PORTRAIT OF LUCIAN FREUD,” 1964, [CR 64-01], OIL ON CANVAS © THE ESTATE OF FRANCIS BACON, ALL RIGHTS RESERVED/DACS, LONDON/ARS, N.Y. 2019

フランシス・ベーコンによるルシアン・フロイドの肖像画(3作のうちのひとつ)
FRANCIS BACON, “THREE STUDIES FOR PORTRAIT OF LUCIAN FREUD,” 1964, [CR 64-01], OIL ON CANVAS © THE ESTATE OF FRANCIS BACON, ALL RIGHTS RESERVED/DACS, LONDON/ARS, N.Y. 2019

 しかし、芸術の世界がますます熾烈になる商業主義に支配され、芸術作品の値段が高騰し、作品を手に入れるためにいかがわしい手段を取る人間が増えても、芸術家同士の取引の伝統は変わらず続いている――これは芸術家こそが概して最善のコレクターであることの何よりの証拠だ。芸術家は作品を商品と考えることが少なく、自分の感性や感傷でそばに置きたい作品を選ぶことが多い。物々交換は、どれだけ金を出しても所有できない作品を手に入れるための重要な裏ルートにもなる。若い芸術家の間でこのような取引が今も頻繁に行われているという事実は、芸術界における反資本主義的な意思表示に思える。これはウォーホルの時代よりさらに力をもつようになっている通常の商取引のルート――エージェント、ギャラリー、超富裕層の収集家――からはずれたところで行われ、芸術家自身がパワーをもつことができる取引だ。自分より地位が確立された芸術家から交換を持ちかけられることは、名誉なことであり、自分が認められた証しでもある。自分と同じように精神的な闘いに挑んでいる同時代の芸術家の敬意を得ることは、裕福なコレクターや慣習に縛られた評論家の評価に勝る、最大の讃辞ではないだろうか。

 芸術家同士による作品の交換は、理想的な形で実行されれば、互いの芸術的アイデンティティを認め合う行為であり、多くの場合は意識下にある、形のないアイデアを具体化する方法である。だからこそ、このような取引の物語を通じて、芸術家のインスピレーションや自己定義といった、とらえどころがなく謎めいた世界を垣間見ることができるのだ。だがそこでは精神的な力学が働いているため、物語はそう単純ではない。

 ピカソとマティスの競争心は、モダニズムの世界に画期的な変革をもたらした。マティスという先輩芸術家の影響がなければ、ピカソは《アビニヨンの娘たち》という重要な作品を生み出すことも、キュビスムに向かって発展することもなかったかもしれない。両者が新たな絵画様式を探求し、アフリカの彫像や仮面からインスピレーションを得ていた1907年、作品の交換が行われることになった。それぞれが相手のスタジオで好きな作品を選ぶ段になり、マティスはピカソの静物画《水差し、ボウルとレモン》(1907年)を選び、ピカソはマティスの13歳の愛娘マルグリットの小さな肖像画を選んだ──見たところ、ピカソはとても個人的な作品を選んだようだ。ピカソはこの絵をダーツの的にするよう友人たちをそそのかしたという話もある一方で、死ぬまでこれを自宅に飾っていたという事実もあり、ふたりの複雑な関係をうかがい知ることができる。

 美術史を振り返ると、作品の交換がひどくこじれたエピソードはたくさんある。最も悪名高いのは、エドゥアール・マネが、自分のためにエドガー・ドガが1860年に描いてくれた絵をナイフで切り裂いた話だ――それはマネと妻シュザンヌの肖像画だったが、夫婦の倦怠感をあまりにも正確に表現していたのかもしれない(ドガはその後、マネから贈られたプラムの静物画を返した)。1980年にデヴィッド・サーレとジュリアン・シュナーベルが取引を行うことになったとき、サーレはシュナーベルに二連祭壇画(ディプティック)を渡したが、シュナーベルはこれを持ち帰り、手を加えた。二枚のパネルを逆にして、不機嫌そうな表情のサーレの肖像を上から描いたのだ。そして、これで取引成立と言わんばかりに作品をサーレに返した。「私のおかげで、ふたりの名前は一緒に美術史に残る!」とシュナーベルは言ったと伝えられている。

 

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