BY MEGAN O'GRADY, TRANSLATED BY NHK GLOBAL MEDIA SERVICES
古代より人間は創作的な作品を贈り合ってきたのだろう――私の土器を君の水牛の像と交換しよう、という具合に。だが記録に残っている最も古い取引は、ルネサンス時代のものだ。1515年頃、ラファエロはアルブレヒト・デューラーに赤いチョークで描いた3人の立位の男性のデッサンを贈った。これは現在、ウィーンのアルベルティーナ美術館で展示され、作品の来歴を誇らしげに説明するデューラーの文が記されている。デューラーがラファエロに贈ったシルクの画布にグワッシュ絵の具で描いた自画像は、すでに失われている。また、ふたりの交遊がどの程度のものだったかは知られていない。だが尊敬するイタリア人画家に会いに行くことが多かったらしいデューラーのほうからアプローチしたのだろう。
ドイツ・ロマン主義の芸術家らは、このふたりの取引を長年続いてきたドイツとイタリアの芸術家の交流の重要な証しとして歓迎した。だがこれは、ある種の芸術家の性質を表しているようにも思える。外交的な性格で、同業者の動向に目を配り、ほかの作家の作品の中に身を置くことによって自らの創造的本能を育む芸術家だ(このようなタイプの現代の作家のひとりはソル・ルウィットで、2007年に死去した彼は、個人的に知らない芸術家を含め、大勢の人に取引を持ちかけた。そして、作品の分類や階層にこだわらない大規模なコレクションを築き上げた)。
もちろん、芸術家であってもあからさまな商取引をすることはあり、多くの芸術家はレストランの勘定をカンバスで払っている。その一例がピカソで、彼は足繁く通ったキャバレーの名前をとって1905年に《オ・ラパン・アジル》を描いた(この作品は1989年に4,000万ドルで売却された。私たち全員の一生分のアブサンの代金が払える額だ)。サルバドール・ダリは、個人小切手でさまざまな代金を支払ったが、換金される可能性が低くなると考え、小切手に落書きをしていた。また、皮膚科医の治療を受けた際には、感謝の印に数点の作品を贈った。大酒飲みとして知られるドイツ人芸術家のマルティン・キッペンベルガーは芸術作品と飲食の交換を大々的に行い、ベルリンのパリス・バーの壁を自分の作品で埋めつくしたのち44歳でアルコールによる肝臓がんで死亡した(芸術のために自分の肝臓を犠牲にすることは、あらゆる創作活動に共通するパターンだといえるかもしれない)。
インスタレーション・アートのパイオニアとして知られるエドワード・キーンホルツは、商品としてのアートという考え方を突き詰めた結果、1969年にロサンゼルスのユージニア・バトラー・ギャラリーで、のちに「バーター・ショー」と呼ばれるようになったイベントを開催し、水彩絵の具を塗った長方形の紙に、「毛皮のコート」「ネジ回し10本」「$109」など、それと交換できる品物や金額を記したスタンプを押した。そうすることによって、気まぐれに変動しているように思える芸術作品の評価額を定めたのだ。

ラッシード・ジョンソンの《宇宙に広がる愛》(2013年)
RASHID JOHNSON, “LOVE IN OUTER SPACE,” 2013, SPRAY ENAMEL ON CANVAS, COURTESY OF THE ARTIST

マシュー・デイ・ジャクソンの《35歳で死んだ私》(2009年)。ふたりはこのような作品を長年にわたって交換している
MATTHEW DAY JACKSON, “ME, DEAD AT 35,” 2009, C-PRINT, COURTESY OF THE ARTIST
だが最近では、同時代の芸術家による作品の交換は、作品を手に入れたいという純粋な欲求よりも、仲間意識から自然と発生することが多いようだ。90年代初めにキュレーターのセルマ・ゴールデンによって引き合わされたローナ・シンプソンとグレン・ライゴンはすぐに仲よくなり、作品を贈り物として交換するようになった。シンプソンの娘の1歳の誕生日には、ライゴンはオイルスティックと炭塵を使って描いた小さな絵を贈った。シンプソンはゾラ・ニール・ハーストンにちなんで娘の名前をつけたため、カンバスにはこの作家の言葉が記されていた。「私は自分が黒人になった日を覚えている」という言葉だ。
「グレンは信じられないほど気前のよい人です」とシンプソンは言う。「私たちが長年の間に贈り合ってきたものは、さまざまな出来事の記念になっています。『そうだ、何か交換しよう』ではなく、『これをあなたに持っていてほしいの』という感じです」

グレン・ライゴン、ローナ・シンプソンの娘のゾラ、1999年版の《無題(「私は自分が黒人になった日を覚えている)》
COURTESY OF THELMA GOLDEN

ライゴンはカンバスの裏にゾラへの献辞を書き記している
(BACK OF PAINTING) GLENN LIGON, “UNTITLED,” 1999, COURTESY OF ZORA SIMPSON CASEBERE
物書きとしては、こんな話を聞くとうらやましく思う。私たちがどれほどいい文章を書いても、シンプソンやクリス・オフィリのスタジオの設計を手伝った有名建築家のデイヴィッド・アジャイが、1,500ワードの鋭い評論記事と引き換えに私たちの新しいオフィスのデザインを提案してくれるとは思えない。美術作品には形があり、ただひとつしか存在しない卓越した作品として認められているからこそ、それを所有したいという欲求をかきたてられるのだ。作品を身近に置いて生活すれば、別の芸術家の精神空間に身を置いて驚くほど親密に感じることができる。
「美術作品を所有することによって、ほかとはどこか違う形でそれにアクセスすることが可能になるのです」と語るのは、彫刻家、インスタレーション・アーティストとして活動するジェシカ・ストックホルダーだ。彼女はベルナール・フリズによる《Suite à Onze No. 2》という絵画作品を10年前から自宅のリビングルームに飾っている。思わず引き込まれるような白いカンバスに描かれた一本の線が弧を描きながら規則的に色を変え、奥行きの錯覚を創り出す。「彼が作品を交換しようと提案してくれました。彼とは会ったことはなかったし、彼の作品は私のものとはまったく違ったので、とても意外でうれしいことでした」(ストックホルダーとフランス人画家のフリズはウィーンのギャラリー・ネクスト・ザンクト・シュテファンにて、フリズはニューヨークのペロタン・ギャラリーで作品を展示していた)。フリズのほうは、ストックホルダーの大きな彫刻作品を選んだ──黄色いクッションと青い防水布、赤い計量カップを組み合わせたものだ。通常とは逆に、この場合は作品の交換がきっかけで友情が生まれ、以来、ふたりは親しくつき合っている。
このように対話を続け、芸術の可能性について意見を交換し、野心をかき立てられることは、芸術家の夢だろう――“ひとりで世間と闘う孤独な芸術家”というロマンティックでステレオタイプなイメージは偽りであることがわかる。「スキー友達がいるのと似ています」とマシュー・デイ・ジャクソンは芸術家のラッシード・ジョンソンとの交遊について語る。「一緒にスキーをしながらお互いの安全を確認していますが、相手が何かすごいことをすると、『おお! それはすばらしい!』と言ったりします」。どちらの芸術家も、ポストミディアムの感性をもち、ジョンソンは黒い石鹸、ジャクソンは義肢と、珍しい材料を作品に用いている。10年ほど前にふたりともニューヨークのニコール・クラグズブラン・ギャラリーと契約したことがきっかけで、作品のやりとりが始まった。以来、作品の交換はますます真剣味を帯び、事前にサイズや材料などの条件を決めるようになった。
最近では、ふたりとも「火」と「木」を題材として探求し、大型の平面作品を制作した。ジョンソンは「安全な旅行」という円形の焼印を押した楕円形の木材を、ジャクソンがハンブルクの街を描いた《1945年8月6日》と題された作品と交換した。《1945年8月6日》は、焼け焦げた木と鉛でできた2.5×3メートルほどの迫力ある作品で、現在はジョンソンが同じく芸術家の妻シェリー・ホブセピアンと幼い息子とともに暮らすマンハッタンの家のエントランスに掲げられている。
「うちに来る人はみんな、『これはあなたが作ったの?』と聞きます」とジョンソンは言う。「毎回、自分の作品ではないと言うのは悔しいことです。あの作品に対して感じる、健全な嫉妬です。一緒に暮らしている大好きな作品です。たぶん、私はあの作品からアイデアを借りていると思います。抽象化、空間、歴史の再考といったアイデアです。すばらしい作品だし、自宅にあることを誇りに思います」
尊敬するアーティストと作品を交換するという行為は、「この作家の作品を身近に置き、同時代の芸術を探求できる空間に自分の意識を置きたいという強い願望から生まれる」とジョンソンは語る。創作活動は、ある種の信仰であり、未知の世界の探求である。そこで手を伸ばすことは、ほかの芸術家の作品だけでなく、常に革新を続け、新しい美の表現手段や意味を探し、私たちが「オリジナリティ」と呼ぶものを見つけるための人間の闘いに身を投じることを意味する。これについて、ジョンソンはさらに言う。「芸術家になるためには、芸術を心から愛さなくてはならない――そうでしょう?」