モンドリアンの絵画を
もっと身近に感じる展覧会が
ハーグで開催中

Want to Understand Mondrian’s Paintings? Try Dancing to Them
「モンドリアンは視覚芸術家ですらなかったと言えます」と、オランダ、ハーグで開催中の生誕150周年記念展のキュレーターは言う。「彼は作曲家でした」

BY NINA SIEGAL, TRANSLATED BY T JAPAN

画像: ピエト・モンドリアン《ヴィクトリー・ブギウギ》(1942-1944年) オランダのデン・ハーグ市美術館で開催中の展覧会「Mondrian Moves」より。 COURTESY OF KUNSTMUSEUM DEN HAAG

ピエト・モンドリアン《ヴィクトリー・ブギウギ》(1942-1944年)
オランダのデン・ハーグ市美術館で開催中の展覧会「Mondrian Moves」より。
COURTESY OF KUNSTMUSEUM DEN HAAG

 オランダのハーグで開催されているピエト・モンドリアン展のキュレーター、カロ・フェルベークは、モンドリアンの作品を理解する最良の方法は、彼の絵の前で踊ることだと言う。

 最近行われた展覧会のツアーでフェルベークは、モンドリアンの作品は多感覚的な「運動感覚」体験として最もよく理解できると述べた。もし、ギャラリーで踊るのが嫌なら、音楽を聴いたり、複雑な香りを嗅いだりしながら、彼の絵に見入るのもいいという。

 フェルベークは、黒づくめの服に鮮やかな緑の靴を履いて、モンドリアンの赤、黄、青の絵の一つであり、彼の最後の傑作である《ヴィクトリー・ブギウギ》の前で立ち止まり、足踏みと手拍子を始めた。

「2人の人間が対立して踊る」と、彼女は動きながら説明した。「それが、モンドリアンが興味を抱いたこと。線、方向、形、色の対立です」

 彼女はさらに数回軽快なステップを踏んでから、通りすがりの美術館関係者を誘って一緒に踊った。しかし、フェルべークは、ブギウギから連想されるようなスポーティなスウィングダンスではなく、より直線的なボックスステップを踊り、パートナーに右旋回を指示し、自分は左旋回をした。

 フェルべークが企画した展覧会「Mondrian Moves」(9月25日まで)は、この画家の作品についての新しい考え方を提供してくれるものだ。原色の限られたパレットを使った格子状の絵でよく知られるモンドリアンは、静的で硬質、奥行きがなく、感情的でないと見なされがちだ。

 しかし、彼女は、モンドリアンが目指していたのはその逆で、一種の精神的な爽快感をもたらすようなダイナミックな感覚だったと言う。

「モンドリアンは視覚芸術家ですらなかったと言えます」とフェルべークは、ツアー後に行ったインタビューで述べた。「彼は作曲家でした。均衡を求め、視覚芸術を使ったのです。しかし、それは絵画の背後にある目に見えない何かへの入り口としてだけだったのです」

 ピエト・モンドリアンが誕生して今年で150年。各国の美術館は、彼の作品全体と視覚文化に与えた影響を振り返る機会を得た。スイスのバーゼルにあるバイエラー財団では、デン・ハーグ市美術館から貸与された50点以上の作品を含む89点の作品を展示する「Mondrian Evolution」展を開催中だ。

 10月9日まで行われるこの展覧会では、モンドリアンの初期の風景画に焦点を当て、自然界への愛がどのように抽象表現へと発展していったのか、作家のスタイルの進化を強調している。

 展覧会のキュレーターであるウルフ・キュースターは、モンドリアンは非常に感情豊かな人物であり、初期の批評家の中には、原色を用いた過激な表現は狂気の沙汰と思い込んだ人もいたと述べる。「彼らは、『あの男は精神的に病んでいるに違いない』と言ったんです」

 モンドリアンに関する最近の研究によって、「彼はジャズの影響を強く受けていて、とてもワイルドなダンサーだった」ことが明らかになったと、キュースターは電話インタビューで語った。ニューヨークでモンドリアンと同時代に活躍した画家のリー・クラスナーが、「彼はいつも新しいステップを考案するので、一緒に踊るのは大変だ」と言っていました、と付け加える。

画像: ピエト・モンドリアン《No. VI / Composition No. II》 (1920年) ©Mondrian/Holtzman; Tate

ピエト・モンドリアン《No. VI / Composition No. II》 (1920年)
©Mondrian/Holtzman; Tate

 モンドリアンはアメリカのジャズが好きで、アトリエを訪れる人のために蓄音機でジャズを流していた、とキュースターは語った。また、パリで行われたジョセフィン・ベーカーのダンス公演にも足を運んだという。モンドリアンについての本を書いたJ・J・P・ウードによると、1928年にパリに住んでいた彼は、オランダ政府が「性的刺激を与える危険性」を理由にチャールストンを禁止したことを知ると、禁止が支持されれば「私がオランダに戻らない理由になる」と宣言する手紙を友人宛に出したという。

 フェルべークは、モンドリアンが電子音楽の初期の発展にも魅了されていたことも発見した。

 1921年、未来派の芸術家ルイジ・ルッソロがパリで世界初のノイズマシン「イントナルモリ」を実演したとき、モンドリアンは友人でダンサー、前衛音楽家でもあった芸術家のネリー・ファン・ドゥースブルフに、電子音楽装置を作りたいと手紙を出した。

 彼はその装置を、「Promenoir」(フランス語で、観客が出入りできる劇場の立見席の意味)の一部に用いることを計画していた。「Promenoir」は、初期のディスコのような、ノイズ、音楽、カラー・プロジェクションを取り入れた作品である。モンドリアンはこのプロジェクトについて記述しているが、実際に制作することはなかった。

 モンドリアンにインスピレーションを与えた初期のサウンドマシンのレプリカは、「Mondrian Moves」展に展示されている。フェルべークは、オランダのテクノアーティストたちに、モンドリアンの音楽に関するアイデアをもとにした新しい作品を依頼した。それは、産業機械の不協和音を思わせる、ガチャガチャギーギー鳴る抽象的な音の集まりだった。

 フェルべークによると、モンドリアンは、美術雑誌『デ・ステイル』と『バウハウス』にノイズマシンに関する記事を3回書いているが、1922年に発表した『ネオ・プラスティシズム。音楽と未来劇におけるその実現」というエッセイで、彼は音と色の直接的な相関関係を探っている。

 モンドリアンは、原色はそれぞれ音符を表し、キャンバス上の白、灰、黒の空間はある種のノイズを表すという理論を提唱した。このようにモンドリアンのグリッド・ペインティングを見ると、彼が色と戯れているのが「聞こえてくる」のだとフェルべークは言う。

 彼女が企画した展覧会では、こうした新しい視点からモンドリアンの絵画を鑑賞できるよう、他の感覚的な要素も盛り込まれている。彼女は調香師と共同で、パリ、ロンドン、ハーグ、ニューヨークにあったモンドリアンのアトリエの模型を見ながら香りを嗅げるスティック状の香水も製作した。パリの香りは炉の炭のようで、ニューヨークのスティックは少し甘く、男性用のデオドラントのような香りだ。

 バイエラー財団のキュースターは、フェルべークの新しい解釈とアプローチは「非常に新鮮」だと述べ、同財団の展覧会に彼女を招き、来場者と一緒に拍手するワークショップを行うよう依頼したと付け加えた。

画像: モンドリアン。自身のスタジオにて。1933年 ©Charles Karsten; RKD — Netherlands Institute for Art History

モンドリアン。自身のスタジオにて。1933年
©Charles Karsten; RKD — Netherlands Institute for Art History

 感覚的な体験を重視することは、モンドリアンが神智学を長期にわたって信奉していたこととも関係がある。神智学は、モンドリアンが言うように、自然を通して「宇宙の調和の神秘的な概念」を求める一種のオカルト運動であった。モンドリアンは「見る人と作品の間に精神的な空間を作りたかった」のだとキュースターは言う。彼は抽象画を「この神聖な真理に到達するための瞑想の一形態」と考えていた。

 モンドリアンの作品は興味深い解釈が可能である。それは、この画家が絶えず自己改革を行い、経験のさまざまな領域を探求していたからでもある、とキュースターは述べる。この停滞感や硬直感のなさが、彼を魅了し続ける理由なのだろう。

「私は今でも、彼はまさに視覚芸術家だと思います」とキュースターは言う。

「しかし、視覚芸術家とは何かを定義する必要がある」と付け加える。「彼の芸術を見るという経験は、視覚だけに限られるものではないのです」

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