BY KANA ENDO
故郷への郷愁や家族との思い出をみずみずしく描く──『ベルファスト』
バディはベルファストに住む9歳の少年。両親と兄、近所に住む祖父母とともに、毎日を楽しく過ごしていた。しかし1969年8月15日、突然暴動が勃発し、穏やかで平和だったバディの世界は瞬く間に荒れた世界へと変わってしまう。住民皆が顔なじみで、まるで一つの家族のようだったベルファストの街は、この日を堺に分断されていく。暴力と隣り合わせの日々を過ごすバディ一家の内部でもさまざまな事件が起き、故郷を離れるかどうかの決断を迫られることになる。
本作は、ベルファスト出身のケネス・ブラナーが制作・監督・脚本を手掛けた自叙伝的作品だ。彼の愛した街や愛した人たちのほとんどを、アイルランド出身の実力派俳優たちが演じ、ベルファスト出身のヴァン・モリソンの楽曲や1960年代のイギリスのポップソングが迫力ある演技に華を添える。バディの視線によって描かれるベルファストで生きる市井の人々の悲喜こもごもが、モノクロ映像ながら実に鮮やかで生き生きとしていることに驚かされる。色を廃した映像は光と影が強調され、その表情は力強くノスタルジックに観客に訴えかける。
暴動やアイルランドなどと聞くと、自分ごととは感じられないかもしれないが、本作はどんな立場や境遇の人にも寄り添ってくれる作品ではないかと思う。家族を危険な場所に残し、単身ロンドンで仕事をしなければならない父や、家族を守らなければならない母、孫のことが可愛くてしょうがない祖母、妻のことを出逢った頃のように愛する祖父など、ありふれたどこにでもある光景があまりにもみずみずしく、性別や年齢を超越して自分自身を彼らに投影させ、気づくとまるでバディ一家の一員になったかのように物語に没入してしまうのだ。紛争によって故郷を離れなければならなかった人たちの苦しみ、愛する家族や友人と離れ離れにならざるを得なかった者たちの悲しみが終盤にかけて描かれ、心が締め付けられる。そして今、世界中に同じような境遇の人々がたくさんいることを思い出すだろう。
愛と友情を超えた絆を美しく丁寧に描く──『Our Friend/アワー・フレンド』
ジャーナリストのマットと妻で舞台女優のニコルは、幼い二人の娘を育てながら賢明に毎日を暮らしていた。しかし、ニコルが末期がんの宣告を受け、妻の介護と慣れない子育ての重圧からマットは崩壊寸前に。家族の仲もぎすぎすしてしまう。そんなとき手を差し伸べたのが親友のデインだった。200キロ以上離れたニューオーリンズに住むデインは、住み込みで一家をサポートすることを引き受ける。
本作はマット(=マシュー・ティーグ)が2015年に発表し、「Esquire」誌に掲載され全米雑誌賞を受賞したエッセイ『友よ』を元にした実話である。デインはマット一家と血の繋がりはなく、法律上は家族ではない。しかし、デインを家族と呼ばず誰を家族と呼べるのだろう。自分の仕事や恋人を諦めることになっても、マット一家に24時間365日身を捧げるデインは、彼らにとって家族以外の何ものでもない。生物学的な繋がりや制度に縛られない愛の絆が存在することを本作が教えてくれる。
一体なぜデインはこれほどまでにマット一家を愛していたのか。その理由は物語の後半で描かれる。SNSで近況を知ることができ、簡単に連絡が取れる時代にいる私たちは、いつでも連絡できることを言い訳にして、何でもない日に連絡するのをつい躊躇ってしまうが、気軽に「元気?」や「どうしてる?」というメッセージを投げかけるだけで人は救われることがあるのだ。おせっかいと思わず、私はあなたのことを気にかけているよ、ということを伝えることがいかに大切かが描かれる。親友という言葉では語り尽くせない絆を感じることができる本作は、ティッシュボックスを脇において鑑賞するのがおすすめだ。
父娘の儚いひと夏の思い出から愛を見つけ出す──『aftersun/アフターサン』
11歳のソフィと離れて暮らす31歳の父親カラムは、一緒に夏休みを過ごすため、トルコのリゾートを二人で訪れる。眩しい太陽の下、カラムが持ってきたビデオカメラでお互いを撮影しながら、二人ははしゃいだり、時に口喧嘩をしたりしながら濃密なひと夏を過ごした。20年後、当時の父と同じ年齢になったソフィは、懐かしい映像の中に大好きだった父との記憶を手繰り寄せ、当時は知らなかった彼の一面に気づく。
本作は心温まる家族の話ではない。しかし、愛について描かれていることは間違いない。ソフィーの視点では、毎日が文字通り“夏休み”で楽しくキラキラしているが、父・カラムは、まるで毎日が夏休み最後の日のような寂しさをもっているように感じられる。ティーンへと成長していくソフィーと11歳の娘と離れて暮らす父親のカラム。親密でありながらどこか距離があり、現実の記憶とビデオ映像の記録といったさまざまな対比が、ストーリー上でも画面上でも見事なバランスで描かれ、本作が長編デビューという監督のシャーロット・ウェルズの手腕の高さに驚かされる。
余白の多い作品ゆえ、父と娘の夏休みの旅に想いを馳せることもできるし、一つ一つのシーンに意味があるかもしれないと深く考察することもできるが、ソフィーはカラムの全てを“お見通し”だったのではないだろうか。空を見ながら不意に「空を見ると、離れていてもパパと同じ太陽の下にいると思えてうれしい」と言ったり、誕生日をサプライズでお祝いしてくれたり、子供というのは親にとってその存在だけで愛なのだと気付かされる。私は、自分の親孝行は足りないのではないかと焦る気持ちが常にあるが、自分が愛されてきたのと同じくらい自分も親を愛してきたはずだと本作を観て思うことができた。特別なことをしなくとも、お互いを想い合うだけで愛を伝えられるのが家族なのだ。ソフィの無邪気な問いが救いとなる。「パパはママと別れたのになぜ電話を切るとき愛していると言うの」。それに対しカラムはこう答えるのだ。「だって家族だから」。