BY MARIKO ASABUKI
The Essay for 'TANK'
「ブルーの海」
ブルーシートを部屋の壁に貼っている。ブルーシートは、お花見のときに敷いたり、防水カバーとして使ったりする安価で丈夫な合成樹脂の布だ。私はあの水色がとても好きで、畳むこともできるし、持ち運びやすいので、昔から、小説を書く前の、メモを貼っておくシートとして持っている。鏡のむこうの世界に入るように、ぱりぱりした繊維のあらい布が光を浴びていると、その青さに誘われてしまう。垂直にたっているプールのようにみえたり、撫でていると、海のなかに潜ってゆくような気持ちになる。ブルーシートには、観に行った展覧会のチケット、本の引用、写真、映画の一コマのメモ、ひきやぶいた画集の断片など、適当に貼ってゆく。大事なものを貼る場所ではなくて、雑多に、とにかく気になったものを貼ってゆく。シートの平面が、ほかの紙で埋め尽くされるころには、貼るのにあきて、パソコンに向かって、書き始める。はさみで切ったり、紙をやぶったり、テープでメモをとめたりしてブルーシートに触れていることが、小説の海を泳ぐことにつながっている。
小説を書いているときの感覚は、子供のころ空想にふけっていたときの気分とほとんど同じだと思う。通学中、私の肩には、小さな龍が乗っていて、その龍と遊んでいた。友達に声をかけられたりすると、龍は消える。幻獣だとはんぶんはわかっていたし、同時に本当にいるとも思っていた。この半々の感覚が小説にもある。空想のなかにいる時間が長いときは、家族に呼ばれてごはんを食べている時間の方が、よっぽど架空に思えて、わからなくなったりした。
数年前、連載小説を書いていたとき、ちょうど結婚したばかりで、夫が住んでいた1LDKに転がり込んだまま、原稿を書いていた。夜遅くにリビングで小説を書いていると、夫が帰ってきた。気づいたけれど、いまひとつそれに反応できない。しばらく経つと、いいにおいがしてきて、夫がごはんを作ってくれていた。ごはんできたよ。ありがとう、とこたえて、隣に座った。私はスプーンを持って食べ物を口に入れる。ぼーっとしてしまって、夫がなにか話しているが、耳に入らない。スプーンで、ぱくぱく食べていた。夫が、おいしい? ときいてくる。すぐに、おいしい、と応える。おいしい、おいしいよ、このカレー。ほんの少し間があってから、夫が、これは、ハンバーグだと言った。お皿をみたら、たしかにハンバーグだった。いままでカレーだと思って食べていたけれど、ハンバーグだとわかると、どうみてもハンバーグなので、なぜカレーだと思っていたのかわからなかった。おかしくて一人で笑った。ハンバーグの話をしていたら、小説の時間が途切れて、体が、今の時間に戻ってきた感覚があった。
小説を書いている時間と、生活の時間は、行ったり来たり、そして混ざり合いながら進んでいくので、時差ぼけの感覚に似ている気がする。子供のころは、時差ぼけが気持ち悪くて、海外旅行が好きではなかった。飛行機に乗って、海のきれいな島に向かっているとき、うとうと眠っていると、母に起こされる。気圧の変化で耳が痛くなっていて、気怠い気持ちのまま、飛行機の揺れを感じながらぼーっとしていると、靴を履くように言われる。旅先に着くとき、母が、時計をその土地の時刻にあわせる所作をよくみていた。座席の液晶にうつる時刻をみながら、針をあわせる。いまの時間を探すようにくるくるまわる針をみていると、じぶんがいまどこにいるのか、とんでもなく遠いところに来てしまったのではないかと少しだけ不安に思う。母がねじまわしの青いリューズを回すと、ぴたっと針が止まり、その後、ふたたびゆっくり時が動き始める。じぶんが今存在していることを、針を回しながら確認しているのが、大人の仕草だと思ってみていた。
私は大人になっても、いまどこにいるのか、時間の感覚がいまひとつわからない。ブルーシートの向こうに海がみえると、すぐそっちに行ってしまう。小説の海には、時間も方角もない。とにかく潜っている。岸に上がると、くるくる腕時計の針を回すように、体がいまどこにいるのかを確認する。パソコンの前に向かっていて、小一時間くらい経ったかな、それにしては肩が痛い、と思うと、すっかり日が落ちていて、足先まで冷え切っていたりする。遠泳をしたようなだるさを感じながら、とりあえず、キッチンで、熱々のお茶を飲む。
朝吹真理子(MARIKO ASABUKI)
作家。1984年東京都生まれ。2009 年、「流跡」でデビュー(第20回Bunkamura ドゥマゴ賞受賞)。2011年、「きことわ」で第144回芥川賞受賞。近刊に小説『TIMELESS』(2019年、新潮社)、エッセイ集『だいちょうことばめぐり』(写真:花代。2021年、河出書房新社)
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