戦後十余年で海外へ。ハーブに導かれ、食文化研究家として活躍してきた北村光世。時代の波をくぐり、道なき道を切り拓いてきた北村に、この困難多き日々を生き抜く知恵を尋ねた

BY NAOKO ANDO, PHOTOGRAPHS BY MASANORI AKAO

 二年後、北村は青山学院大学でスペイン語の教職に就く。やがて米文学者と結婚。留学先で覚えた料理を作りたくても当時はフレッシュハーブが手に入らず、ベランダで少しずつ鉢植え栽培を始めた。1971年に息子が生まれると夫婦揃って日本語、英語、スペイン語のトライリンガルで育てた。鎌倉の一軒家に移ると、庭で40種類ものハーブとレモンや金柑を育て、日々の料理に活用した。

画像: 北村の蔵書より。右端はベティ・クロッカーのクックブック。クレイグ・クレイボーン、マルチェラ・ハザンの料理書など。夫も海外出張土産によく本を買ってきてくれたそう。右から二冊目は北村光世著『日本人のためのスペイン語』

北村の蔵書より。右端はベティ・クロッカーのクックブック。クレイグ・クレイボーン、マルチェラ・ハザンの料理書など。夫も海外出張土産によく本を買ってきてくれたそう。右から二冊目は北村光世著『日本人のためのスペイン語』

 休暇を利用してさまざまな国を旅し、なかでも土地ごとに素材や調理法に特徴をもつイタリアの食文化に魅了された。著作を愛読していた料理研究家マルチェラ・ハザンのコースを受講するためベネチアに滞在したり、彼女の紹介で、ボローニャに住むシミリ姉妹を訪ねてパン作りを習ったりと、頻繁にイタリアへ通うようになった。

 北村が通い始めた80年代前半、イタリアにもアメリカ式の大量生産や効率化の波が押し寄せ、オリーブオイルやワイン、チーズ、ハム、アンチョビなどの食材においても伝統的な製法を守る生産者が減少し始めた。北村は危機感を覚え、自分の言語習得を待ってはいられないと通訳を雇い、精力的に各地の生産者巡りを始めた。交流が深まり、彼らの生産品を日本に紹介する機会が増えた。自身も1989年に初の料理書を出版し、活動の場が広がった。’94年、定年を待たず、29年間教鞭を執り続けた大学を退職。ギアを上げてイタリア食文化研究に身を投じた。

 特に足繁く通ったのがパルミジャーノ・レッジャーノチーズと生ハムで有名なパルマだ。ポー川流域の気候風土を活かした伝統的な手法を守る食の生産者がまだ多く残っていた。北村がふと「ここに家があれば......」とつぶやいたのを通訳の女性は聞き逃さず、築230年の元牛小屋の石造りの家を確保。あっという間に二拠点生活が始まった。「イタリアの食文化の核となるオリーブもハーブも植物だから、四季を通じて見ないと理解できないものがある。そのためには住んでみないと」。教わるばかりではなくお返しもしたいと、この家を拠点に日伊文化交流センターを立ち上げ、日本の食文化を紹介するイベントなども開催した。

画像: 庭で育てたハーブは種を採り、枯れた茎もスモークチップ代わりに使用。左上はワカモレ用の石臼。メキシコから抱えて帰った。各国の民芸品や調理器具などはメモを取らない北村の“ノート代わり”として家中に並べられ、見るたびに記憶を喚起させる

庭で育てたハーブは種を採り、枯れた茎もスモークチップ代わりに使用。左上はワカモレ用の石臼。メキシコから抱えて帰った。各国の民芸品や調理器具などはメモを取らない北村の“ノート代わり”として家中に並べられ、見るたびに記憶を喚起させる

 2019年の夏も、到着するやいなや庭の伸び盛りのセージをオリーブオイルで揚げ、天ぷらを楽しんだ。翌日からは「ミツヨをもてなそう」と待ち構える顔なじみの生ハムの生産者やワイナリーを巡った。新たに見つけたバルサミコ酢の工房を目指し、モデナまで足を延ばした。以降はパンデミックの渦中、訪れる機会にいまだ恵まれていない。

 グローバルな活動、スローライフ提唱、ダブルジョブ、二拠点生活。現在82歳の北村の軌跡は、時代の先取りに見える。その北村の目は、コロナ禍を超えた先の日々をどのように見ているのか。

「今までのやり方はもう通用しないと思うわ」と北村は言う。「私たちは自然に生かされているのだということに気づき、自然の恵みに感謝する。何でも買おうとするのではなく、あるものを工夫して使うことも考えてみる。これからさまざまな危機の中で生きていくには、やはり健康は大切。"食"はその基本で、健やかさを作る土台です」

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