3 世紀の聖女をモチーフにしたおっぱい型ケーキがいま、脚光を浴びている。この世界的ブームの背景にあるものは?

BY TANYA BUSH, PHOTOGRAPHS BY SOPHIE KIRK, SET DESIGN BY LIZZY GILBERT, TRANSLATED BY YUMIKO UEHARA

画像: ロンドンの菓子工房「ヘーベ・コンディトリ」でサラ・ハーディが作るおっぱい型ケーキ。聖アガタの殉教に捧げるシチリア島カターニアの伝統菓子ミンネ・ディ・サンタガタが着想源。

ロンドンの菓子工房「ヘーベ・コンディトリ」でサラ・ハーディが作るおっぱい型ケーキ。聖アガタの殉教に捧げるシチリア島カターニアの伝統菓子ミンネ・ディ・サンタガタが着想源。

「聖アガタの殉教」は、残酷な話が多いキリスト教の逸話の中でも特にむごたらしいストーリーだ。紀元後250年頃、シチリアの乙女アガタは、異教徒であるローマ総督クインティアヌスの求婚をつっぱねた。総督は報復として彼女を売春宿に放り込み、のちに両乳房を切り落とした。聖ペトロに救われ傷は癒えたが、最終的に火あぶりにされて命を落とす。言い伝えによれば、1年後にエトナ山が噴火した際、ふもとの町カターニアの住民たちが、彼女が最期にまとっていた赤いベール(なぜか焼けずに残っていた)を祈禱に使ったところ、奇跡が起きて溶岩流が止まり町は救われた。

 それから約2000年間、毎年2月の「聖アガタの祝日」には大勢の巡礼者がシチリア島東海岸の古い港町カターニアを訪れ、この奇跡を称えている。パレードでは聖女の等身大の像が登場し、ミンネ・ディ・サンタガタという名の愛らしい――由来を考えればおぞましいが――小さな菓子がふるまわれる。白いお椀型のマシュマロにチェリーを添えて、聖女の切り落とされた乳房を表したケーキだ。この郷土菓子が最近広く注目され、パーティやインスタグラムでも披露されるようになった。

 ニューヨーク在住のアーティスト、ライラ・ゴハー(36歳)は、餅を使って同じ菓子を作る。ファッション・デザイナーのオランピア・ル・タンやシモーネ・ロシャのイベントで提供したほか、自身のテーブルウェア・ブランド「ゴハー・ワールド」から昨年立ち上げたウェディング・コレクションでも、この菓子をモチーフとした作品を披露した。インスタグラムの人気料理アカウント「cuhnja」で活躍するエストニアのシェフ、モニカ・ワルサワスカヤ(26歳)は少し奇抜なアレンジをきかせて、緑に着色した砂糖漬けチェリーを添えている。女性が自分の身体のことを自分で決める権利がおびやかされ、妊産婦の画像がソーシャルメディアの検閲対象となり、看板からも排除される昨今、この流行は女性のエンパワメント運動の一環といえるのかもしれない。ただし作り手本人たちは、政治的主張よりもオーディエンスを面白がらせることに関心があるようだ。「背景は怖いけど、すごく可愛げがあると思うんです」と、ロンドンの菓子工房ヘーベ・コンディトリを経営するサラ・ハーディ(31歳)は言う。彼女はイタリア旅行で初めてこの菓子に出会い、フィリングとしてルバーブのコンポートを入れたバージョンを考案した。「身体の一部を表したケーキって、どこかユーモラスですよね」

画像: PHOTO ASSISTANT: JOANNA WIERZBICKA. FOOD ASSISTANT: LOUISE WORRALL

PHOTO ASSISTANT: JOANNA WIERZBICKA. FOOD ASSISTANT: LOUISE WORRALL

 人体を模した製菓の歴史は古代ギリシャの時代にまでさかのぼる。女神デメテルとコレーを崇める秋のテスモフォリア祭では、女性器の形を表したハチミツとゴマのケーキがふるまわれていた。イタリアの伝統菓子カンノーロも、伝説によればシチリアがアラブ統治下にあった時代に首長の絶倫さを称えて男性器の形で作られたらしい。同じくイタリアの伝統菓子フェッデ・デル・カンチェッリエレは、ピスタチオを使った丸いクッキーで、「宰相のお尻」という意味だ。シチリアの食の歴史を考察した本『Pomp and Sustenance』(1989年)の著者メアリー・テイラー・シメティ(83歳)によると、ミンネ・ディ・サンタガタは当初はミンネ・ディ・ヴァージニという名で、ただのお椀型をした菓子だった。正確な起源をつきとめるのは困難だが、18世紀にパレルモの修道院で作られていたことは確認されている。未婚の娘を修道院に預けた貴族の家庭がこうした菓子を買って支える習慣があった。のちにカターニアの菓子職人が小さい砂糖漬けチェリーを加えて、聖女へのオマージュという位置づけにしたらしい。

 当時のレシピを再現するなら、パイ生地を丸くのばし、中央に砂糖漬けシトロン、羊乳のリコッタ、チョコレートを重ねて包み、焼き上げて粉糖でアイシングをする。現在ではカターニアの伝統菓子の代表として、祭りの時期だけでなく、年間を通じて提供されている。

 この菓子がシチリア島以外でも人気になったのは、宗教的背景とは関係がなく、二つの無関係なトレンドを反映しているようだ。2年ほど前から、室内装飾品に乳房のイメージが使われることが増えてきた。おっぱい柄をプリントした枕、おっぱいの浮き彫りを施したセラミックの花瓶やマグカップなどが有名だ。同時期に、つねに斬新な形を追求する菓子職人たちの間で、ドーム型のケーキが支持されるようになった。代表的な例がスウェーデンのプリンセスケーキだ。焼き菓子をカラフルなマジパンでくるんだ見た目は昔懐かしい趣がある。「この形がいいんですよ」とハーディは評する。「楽しいですよね」

 ニュージャージー州ジャージーシティの菓子職人パリス・スターン(30歳)は、数年前は大きいドーム型ケーキを作っていたが、バレンタインのディナーパーティ用の依頼を受けて、ひと皿ずつ小さなドーム型で供するバージョンを、聖アガタの菓子を参考に作り上げた。ピスタチオのシフォンで、中はラズベリーのジャムとフルーツのピュレ。仕上げに数種類のベリーを乳首に見立てて飾る。スターンはこの菓子を作りながら「なぜ聖アガタだけはデザートになり、たとえば洗礼者ヨハネはならないのか」と考えた。「ヨハネで作るなら頭部や眼球の形になる。乳房のほうが大きさとしてデザートに向いている」という実用的な理由もあるが、乳房は食べ物と結びつきやすいと彼女は語る。「おっぱいは、人に最初の栄養を与えてくれるものですから」

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