BY TAKAKO KABASAWA, PHOTOGRAPHS BY YUKO CHIBA
*記事内で紹介している内容や価格は、記事公開時点のものです。ご了承ください
海辺の食堂、慈しむ味
《EAT》「日々の料理」
いのちを育む、暮らしの滋味
【2025年12月配信記事】

美味しさの生まれる、清らかな窓辺。「日々の料理」にて

柾目の杉のお重に楚々と咲く、季節のちらし寿司。ハナダイは塩水で締め、カゴカキダイは軽く炙り、イサキは醤油ベースで味を含ませた
呼吸をすること、食べること、散歩をすること、眠ること。そんな当たりまえの生きる営みを、淡々と丁寧に続けるには小さな覚悟が必要だ。自分を慈しむことから心が離れるほど、慌ただしい時間を過ごしていたなか、「日々の料理」を訪れた。高台の住宅街、Googleマップを見ながら辿り着いた位置には、一見して料理店らしきものが見つからない。狭い路地の端に、さりげなく置かれた看板を頼りに奥へと進むと、居住まいを正した日本家屋の入り口で、店主の坂間洋平さんと料理人の上田碧さんに出迎えられる。
玄関いっぱいに吊り下げられたのは、フィンランドの伝統装飾であるヒンメリだ。そのおおらかな影を抜けると、堂々としたカウンターが空間を一文字に横切る。7席限りのアンティークの肘掛け椅子にはギャッベのクッションがあしらわれ、今も現役の古いアラジンのストーブや、天井で舞うヒンメリ、窓辺に並ぶ土鍋や野辺の枝木も視界を満たす舞台装置のようだ。

イーゼルに掲げたアイアンの看板が目印

そこかしこに吊り下げたヒンメリが、壁やカウンターに穏やかな影を映し出す
店主の坂間さんは結婚を機に整体を学び、夫婦で大磯に「さかま整体所」を開業。地元のコミュニティーに参加するなかで、2014年に旧い木造の電気部品工場を活用する機を得る。「“今”の暮らしに“古き”良き知恵を取り入れ、より豊かな“今”をうむ」という願いから建物を「今古今(こんここん)」と名付け、ギャラリーとして幕開ける。次第に、人が絶えず自然と集えるようにと料理を提供する「日日食堂」を内包するようになった。
「今古今と日日食堂」を運営しながら坂間さんは、大磯に存在しない要素を持ち込むことで街づくりの一手を担うことを考えていた。だが、あるとき「無理に特別なことを持ちこまなくても、大磯は十分に素敵なものに満ちている」と教えられる。それが、当時19歳で今や料理のパートナーとなった大磯生まれの上田 碧さんだ。「この言葉から、大磯の人々は自分の “箱庭”をそれぞれの速度で育むということが見えてきた。暮らしを軸に据えた優雅さこそが、この街の魅力だと気付かされた」(坂間)。“日々”に光を注ぎ9年の月日を経た「今古今と日日食堂」は、2023年に食べること慈しむ「日々の料理」として再スタートをきった。

店主の坂間洋平さん。京都ではバーを営み、貴船の料亭で料理の修行をした経験もある

「栗を扱うときには、栗の気持ちになって扱う」と語る上田 碧さん。料理の完成に至るまでの、イメージやプロセスも大切にしている
「日々の料理」で振る舞われる料理は、すべてがコース仕立て。「これまでのお客様の最高齢は101歳。全てを食べ切ってお帰りになりました」というエピソードを聞くだけで、どれほど尊い味わいかを思い描く。この日、オーダーしたのは季節のちらしコースだ。最初の一皿は「季節野菜のおひたし」。大根や葱、複雑な青味を含んだアブラナの交雑種を、昆布とかつおの出汁にたっぷりと浸す。透き通るような野山のエッセンスが、じんわりとお腹を潤す。定番の「ポタージュの茶碗蒸し」は、季節の白い野菜たちと米が混然一体となった“お米のポタージュ”が優しさを運ぶ。主菜となる「大山鶏と秋野菜のふきよせ」を味わいながら、目はちらしの具を愛おしそうに盛り付ける上田さんの手元を追いかける。美辞麗句で語り尽くせない美味しさの秘密を探るべく、素材について尋ねると、意外だったのは地産地消には固執していないということだった。「同じ産地の人参一本でも個体差がある。だからこそ大切なのは産地ではなく、じっくりと食材の個性と向き合い、その日その日の味を実直に表現すること」(坂間さん)。

ふくよかな出汁が香る「季節野菜のおひたし」

同店のシグネチャー「ボタージュの茶碗蒸し」
コースの最後にお願いしたのは、店を訪れる前から気になっていたコーヒーである。扱う豆は、写真家の蓮井幹生さんが自家焙煎した深煎りの豆。ネルドリップだと和食の余韻には強すぎるため、一晩かけて水出しで落としているという。ホットコーヒーでお願いすると、上田さんが手際よくラップフィルムと温度計を取り出す。コーヒーの香りがとばないように、適温で湯煎をするためだ。その一連の所作から、人目に触れない美味しさへの探究心が垣間見られた。
店をあとにすると、不思議と足取りが軽やかになっている。生きる底力を得て、地球の重力の海を軽やかにクロールしながら進むようだった。

コーヒー豆の品種は世界でも最高峰といわれるゲイシャ。挽いた豆に水が均一に沁み渡るよう、淹れ方にもさりげない含蓄が秘められていた
「日々の料理」
住所:神奈川県大磯町東町2-3-12
電話:0463-71-5474
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《EAT》「拙宅」
昼膳で味わう野菜のオーケストラ

オープンキッチンからは店内のすみずみまで見渡せ、絶妙のタイミングで料理が運ばれる
大磯の海と大地を存分に味わえる新進気鋭の店があると聞き、訪れたのは2024年にオープンした「拙宅」。店を切り盛りするのは、「湯河原惣湯」で若くして料理長をつとめた料理人の松村康基さんと、同じ職場でデザートを担当していた妻の綾子さんだ。店名の由来を尋ねると、「独立する前から、休日に自宅で食事会を開き、料理をふるまっていた。自分の店を持つなら自宅でもてなすような、ゆっくり寛いでいただける店にしたかった」と松村さん。
ふたりが渾身の野菜料理をふるまう所以は、大磯町の農園「uramachi FARM」との出会いにある。農薬や化学肥料を使わずに緑肥を用いた元気な土づくりから手掛けることで、安心して食べられることはもちろん、本来の個性が際立った野菜が何にも変え難い料理の礎となっている。

直接仕入れることで、旬の朝採れ野菜をはじめ珍しい野菜とも巡り合えるとか

とりどりの前菜は、あたかも野菜のオーケストラ
築60年を超える心地よい古民家で、さっそく昼膳コースをいただくことに。コースの序奏は、味わいも彩りも豊かな前菜。下味をしっかりと含ませ素揚げした里芋は、添えられた柚子胡椒が洒脱な変化をもたらす。冬瓜と蓮根のマリネ、ゴマの風味とひじきの余韻に包まれる金平のサラダ、白菜とお揚げの蒸し煮も味わい深い。クライマックスの主菜はエボダイのあられ揚げ。まわりを彩るのは、銀杏や柿のマリネ、紫大根のグリルなど。ご飯は蕪菜と干し椎茸に、菊が深まる季節の彩りを添える。妻・綾子さんが手がけるデザートは、生姜プリン。つるりとした食感とすりおろした生姜のさっぱり感、トッピングした小豆や落花生の塩けとシロップの甘味が織りなす、絶妙なハーモニーにハッとした。見慣れた野菜、知り尽くしたはずの野菜料理に、爽やかな風が吹いたような体験となった。

この日の主菜は「季節魚のあられ揚げと旬野菜」

白玉と茹で落花生、小豆をあしらった生姜のプリン

年月を重ねた静かな空気が流れる古民家
「拙宅」
住所:神奈川県大磯町大磯1622
電話:090-4835-3124
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和洋のスイーツに舌鼓
【2025年12月配信記事】
《BUY》「新杵菓子舗」
温故を受け継ぐ正統派の和菓子

スイーツ片手に海沿いをひと歩きしたい

看板商品の「西行まんじゅう」(左)と「虎子饅頭」(右)
大磯に別荘を構えた宰相としてよく知られるのが吉田茂だ。歯に衣着せぬ辛口発言で知られた人物が、相好を崩さずにはいられなかったという和菓子が、ここ「新杵」にある。創業は明治24(1981)年。現在4代目を受け継ぐのは齋藤昌成さん、毎朝3時から粒餡、こし餡、白餡の3種類を仕込んでいる。一方、朝8時30分のオープンから引きも切らない常連客との会話を弾ませるのは、店頭を切り盛りする女将の総子さんだ。
ようやく途切れた客足の合間を縫って、同店の2大名物と謳われている「虎子饅頭」について話を伺う。なんでも、吉田茂が虎子饅頭“1個”を自宅に届けさせたという逸話もあるほど、惚れ込んだ逸品だ。モチーフの虎は、大磯に縁のある鎌倉時代の遊女・虎御前の伝説が礎。もっちりとした薄皮の中にこし餡が凝縮した蒸し饅頭には、皮目に虎の後ろ姿の焼き印が押されている。客に牙を向けないという理由により、あえて後ろ姿をデザインしたエピソードからも、当時の店主の奥ゆかしい心配りが感じられる。

扁額の文字は幕末から明治に活躍した書家・巌谷一六によるもの。繊細な鎌倉彫で表現されている

カウンターの奥にある畳の小上がりには、大磯在住の書家・海老原露巌の作品が飾られて
もう一つの名物は「西行まんじゅう」。全国を吟遊していた西行法師が大磯で詠んだ「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」という和歌から想起し、西行法師へのオマージュとして同店の2代目が考案したという。しっとりと焼き上げられた皮は西行の笠をイメージし、波照間産の黒糖を練り込んだ優しい風味が鼻を抜ける。中は、「虎子饅頭」よりも少しコクを増したこし餡が満たしている。
「毎日食べても飽きのこない味を目指した」という「西行まんじゅう」は、女将曰く“和風カントリーマアム”のような感覚とか。この菓子をこよなく愛した島崎藤村にも教えたいほどだ。

麩焼き煎餅に柔らかな光が差し込んで

国道1号線に建つ古き良き店構え
「新杵菓子舗」
住所:神奈川県大磯町大磯1107
電話:0463-61-0461
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《CAFÉ&BUY》「ATELIER SANTi(アトリエ サンティ)」
大磯巡礼の小休止に味わうジェラート

ジェラートを盛り付けるのは、オーナーの松本愛子さん
「ローマで食べたジェラートの美味しさが忘れられなくて」――そう語るのは、この店のオーナーである松本愛子さん。結婚を機に会計士の仕事を離れ、約2年をかけて、世界50カ国を巡る旅の途上でのことだった。イタリアを離れ次の国へと移動しながらも、ジェラートの余韻が脳裏から離れない。募る好奇心に従い調べてみると、ジェラートの味の優劣には修行の年月に関わらず、水と素材の配分を完璧なレシピで構築することで誰にでも本場の味が再現できると知る。さらに、ボローニャでジェラートの伝統製法を学べるクラスがあると知り、募集時期に合わせて再びイタリアに戻る。
画して、ジェラート作りへの切符を手にした松本さん。帰国後、機が熟した頃を見計らい、2018年に鎌倉でテイクアウト専門の小さなジェラート店をオープン。店の名前は、「ATELIER SANTi」。世界を旅した際にお守りのように持ち歩いていた、パウロ・コエーリョの小説『アルケミスト 夢を旅した少年』に登場する主人公の少年サンチャゴの愛称を冠した。

少年サンチャゴが、さまざまな旅人との出会いを通し生きる知恵や夢を実現する教訓を学ぶ名著。(『アルケミスト 夢を旅した少年』 パウロ・コエーリョ著、角川文庫)

大磯に2号店を構えたのは2022年。改築した一軒家の奥にはコーヒーの自家焙煎所もある
イタリアで学んだ伝統の黄金比レシピをブラッシュアップするのは、作り手の顔の見える確かな素材だ。「イタリアを巡った時、どんな町にもジェラート店を見つけました。その日の気分で好きな味を選ぶ感覚は、日本でいうベーカリーのようなもの」と語る松本さん。だからこそ、季節ごとに手に入る、土地に密接した素材を探し求めた。特にジェラートの鉄板ともいえる牛乳は、飼育方法も見学し、健やかな牛から搾られる牛乳にこだわり、数カ所の牧場のものを使用。こうして集められた素材は、手塩にかけてジェラートの礎となる。取材に訪れた時期は暦の上でようやく冬を迎えた晩秋の頃。旬を迎えた栗は、一つ一つ渋皮をむくことから全てアトリエの厨房で行われていた。

一番人気のピスタチオは自家焙煎をすることで香りのインパクトが感じられる

「ATELIER SANTi」オリジナルの自家焙煎のブランド「FIG COFFEE」は、手土産としても人気が高い。商品名の由来も『アルケミスト 夢を旅した少年』の物語に由来するとか
今ではジェラートに加え、自家焙煎のコーヒーや天然酵母のパン、発酵バターを用いたクロワッサン、国産のイタリア小麦のカンパーニュなど、いつの間にか手技の光るラインナップが増えていた。小さなこだわりを積み重ねて、長く愛される味わいへと到達したものばかり。気取らない日常のなかで、ささやかな楽しみを得る気持ちでジェラートを選び、庭先にて、サンチャゴの旅に思いを馳せながら味わった。

庭と繋がる大きな窓が心地よい
「アトリエサンティ」
住所:神奈川県大磯町大磯457
公式インスタグラムはこちら
新旧の名建築を訪ねて
【2026年1月配信記事】
《SEE&EAT》「大磯迎賓舘」
瀟洒な空間美で食す湘南のイタリア料理

すりガラス越しのピクチャーウインドウが古き良き大磯の気配を映して(大磯迎賓舘)

白い外壁にライラックカラーのアクセントが美しい
大磯の駅舎を出て左に進み、徒歩でわずか数十秒。ふと右手に視線を移すと、わずかに小高い場所にノスタルジックな洋館を見上げる。地元の人々から“三角屋敷”の愛称で100余年もの間、この地で親しまれてきた洋館だと聞く。創建は大正元年(1912)、貿易商だった木下建平の別邸として建てられた。設計を依頼したのは、渡米経験のある建築家・小笹三郎と伝わる。当時アメリカではツーバイフォー工法(正式には木造枠組壁工法)の住宅が流行、その最先端の工法を木下邸にも採用されたという。建物の改修時に、骨組みを成す赤松材を検証したところ、明治期から使用されてきた丸鋸の痕跡が認められたことから、国産材が用いられていることが判明。現存する国内最古のツーバイフォー住宅として2012年に国の有形文化財に登録され、同年には景観重要建築物にも指定された。

台形に張り出したクラシカルな出窓「ベイウィンドウ」

白壁とダークブラウンの柱、赤い絨毯のコントラストは、どこを切り取っても絵になる
“三角屋敷”の愛称で親しまれた遠目にも印象的な屋根は、頂部から両側に傾斜をもつ「切妻造ストレート葺き」。その屋根を中心に、台形に張り出した出窓「ベイウィンドウ」を据えたサンルームを左右対称に配し、正面の玄関ポーチの上部には、上品なバルコニーを設えた。さらに、小さな屋根つきの突き出した「ドーマー窓」や南京下見板張の外壁など、随所にこだわりの洋館建築の面影が残る。
一方、館内にも見所がちりばめられている。わずかに残る大正時代からの照明をはじめ、換気口を兼ねた草花模様の天井のレリーフから、アカンサスの花模様が彫られた竣工当時からのドアノブまで。日常の何気ない瞬間に、どれほど目を楽しませたことだろう。建物に秘めた美的感性を宝探しのように見つけながら、ゆったりと優雅に流れる時間に心が満たされた。

大磯の間伐材を薪に用いて

地元の蜜柑とゴルゴンゾーラが溶け合う、季節限定のピザ
建物を堪能した後は、増築された新館のダイニングレストランへ。海を見下ろす全面ガラス窓の開放的な空間で、ひと際目を引いたのは、イタリアから海を渡ってきたというナポリ式の本格ピザ窯。季節のスープとピザ、デザートがセットになった「ピッツァランチセット」をオーダーした。地元の名産である蜜柑がたっぷりとあしらわれ、フレッシュな酸味がゴルゴンゾーラのコクと溶け合っていた。季節によっては庭の湘南ゴールドとリコッタチーズを合わせたメニューも登場するという。今、こうして原稿をしたためている瞬間にも、遠く光る漣の煌めきとフレッシュなピザが、寄せては返す波のように大磯の思い出の断片として蘇る。

海を見下ろす窓辺の特等席

切妻造のデザインが特徴的な“三角屋敷” *2025年11月撮影
住所:神奈川県大磯町大磯1007
電話:050-3385-0013
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《SEE&CAFE》 「TANKE home&gallery」
豊かさの本質を考え、探索する“五感の箱”

シンプルかつ普遍的な建物は、フランスを拠点とする建築家・田根 剛氏による設計
大磯の旅の最後を締め括るのは、江戸末期まで霊山として保護されていた高麗山(こまやま)の裾野に佇む「TANKE home&gallery」だ。緩やかな裾野に沿って“土のフロア”と“木のフロア”が積み木のように重ねられた躍動的な建物は、もとはギャラリーの代表・加瀬さやかさんの住まいであった。設計は、加瀬さんがスウェーデン留学時代に交友関係を築いた、建築家の田根 剛氏。「エストニア国立博物館」を発表し世界にセンセーションルなデビューを果たす1年前、田根氏が設計を手掛けた最初の建築として2015年に産声をあげた。

1階の土のフロア。庭に面した大きな窓は、山からの吹き下ろしの風が強いため開閉できないFIX窓に

木の温もりに包まれた2階は、祈りの空間を感じさせる
「100年先に続く家」という加瀬さんからのリクエストに応え、田根氏が心を注いだのは、高麗山の土地の生命力を宿すこと。客人を迎える機会の多かった加瀬家において、1階は人々が集う開放的な空間に、2階は幼い子どもたちが安心できるプライベートな場として構成された。1階の床と壁面は、建築時に採掘した敷地内の“太古の土”を用い、野趣溢れる土肌が左官職人の手によって現代的に昇華。基礎を深く掘り公道とのレベル(高低差)をズラすことでプライバシーと静けさを確保し、どの方面も最大限に窓を大きく設置した。明るさと重厚さが溶け合う土の間を抜けると、2階は一変して優しい光の巡る木の間が広がる。三角屋根のシルエットに沿った繊細な曲線をはじめ、ティアード状に重なる木の外壁構造は、大磯の宮大工職人による渾身の作。加瀬さんの言葉を借りるならば「半分開いて半分閉じた」見たこともない空間となった。
着想から3年半もの年月を費やした家は、田根氏によって“a house for Oiso”と名付けられた。土地の記憶と共に風景に溶け込みながら、7年ほど加瀬さん家族の暮らしを灯してきた。その後、段階を経てショップや喫茶ルーム、茶室やギャラリーが融合した「TANKE home&gallery」として2025年10月に再出発をきる。店名にはスウェーデン語で“思想”や“考え”を意味する“TANKE”に、漢字で“探家”(タンケ)という思いを重ね、世代を超えた人々が新たな思考や感性の扉を開く家へと生まれ変わった。

庭のハーブを摘み、オリジナルのブレンドティーを振る舞ってくれた加瀬さやかさん

この日のお茶は、有機ベルガモットと葵の花の香りが響き合う「ブルースター」
喫茶ルームで振る舞われるのは、加瀬さんが大磯でもう一軒営む茶舗「TE HANDEL(ティーハンデル)」のお茶である。有機茶葉にハーブやスパイス、植物から抽出した上質なアロマを用いたブレンドティーは、深い呼吸とともに静かに“只ここに在る”自分の姿を運ぶよう。そんなお茶の世界と加瀬さんが巡り合ったのは、16歳でのスウェーデン留学へと遡る。どこにいても自分らしくいられない居心地の悪さを抱えながら、“ここ”じゃない何処かを求め、トーベ・ヤンソンが綴る本の世界に遊んだ北欧へ、一人海を渡った。湖を見下ろす丘の上の古いホームステイ先、マンマが淹れてくれたのは、どこか懐かしく清々しいお茶だった。張り詰めた心を溶かした優しいお茶が原体験となり、2003年に個々を癒し社会との繋がりを育むプロジェクトとして、茶舗「TE HANDEL」をスタート。スウェーデンのティーブレンダーとともに、香り高いオリジナルのブレンドティーを作り上げた。

基本のブレンドは全20種類に及ぶ。「TANKE」 はもちろん、「TE HANDELオンラインショップ」(https://www.tehandel.com/online-shop)や大磯駅前の茶舗 「TE HANDEL platform」(住所:神奈川県大磯町大磯1009、電話:0463-61-1327)でも購入できる
物語のような加瀬さんの半生に耳を傾けながら、たっぷり注がれたポットのお茶がなくなるころ、窓の外には冬の闇が訪れていた。新たなお茶が注がれティーポットを温めるのは、敷地の土で作ったという、どっしりとしたキャンドルホルダーだ。取材が一区切りつき、ポットから洩れる小さな炎を見つめていたら、作家・梨木香歩のエッセイ『ぐるりのこと』(新潮社)に綴られた「飛行機は体だけ運んで魂のことを忘れている」という一節を思い出した。加速する情報とタスクに追われ、心が置き去りにされがちな日々。霊山の土が織りなす空間で、優しいお茶を味わいながら数時間を過ごしたことで、流れる時間にブレーキがかかり内なる声が聞こえてきた。喜びが連鎖することを仕事とする――この旅の連載は、まさにそんな仕事のひとつである。

健やかなお茶とともに、太古の土から成るキャンドルホルダーにも心を緩める魔法があるようだ
住所:神奈川県大磯町大磯131-1
電話:0463-61-1327
公式サイトはこちら
格調高い歴史を軸に本物が集う大磯の街には、古き良き湘南のノスタルジーが流れている。取材のいっときを過ごしただけでも、気持ちが穏やかに解けた。旅の途中でレコメンドされた、まだ見ぬ大磯の魅力を、また改めての機会に紹介したい。

樺澤貴子(かばさわ・たかこ)
クリエイティブディレクター。女性誌や書籍の執筆・編集を中心に、企業のコンセプトワークや、日本の手仕事を礎とした商品企画なども手掛ける。5年前にミラノの朝市で見つけた白シャツを今も愛用(写真)。旅先で美しいデザインや、美味しいモノを発見することに情熱を注ぐ。
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