メトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートの今年度の展覧会が開催中だ。これを見れば、「見せびらかす」「気取った態度をとる」といった意味の「キャンプ」の概念を理解できるとは限らない。だが、その歴史を辿るのは間違いなく面白い

BY VANESSA FRIEDMAN AND ROBERTA SMITH, PHOTOGRAPHS BY DOLLY FAIBYSHEV FOR THE NEW YORK TIMES, TRANSLATED BY CHIHARU ITAGAKI

最初の印象は?

ヴァネッサ・フリードマン(以下F) この展覧会が始まる前の数週間、キャンプの意味について、延々と友人や同僚たちと議論したのだけど、結局、結論は出なかった。だからこの展覧会で、もっとはっきりした答えーー少なくとも現代における意味くらいはわかるのではないかと、なかば盲目的に期待していたんだけど。

ロベルタ・スミス(以下S) 私もこの展覧会にはすごく期待していた。自分でも、何を求めているのかわからないままにね。そして、ソンタグのエッセイも再読した。そこで思ったのは、彼女の知性は冴えわたっているにも関わらず、最終的にキャンプはすごく大きな、何とでも捉えられる観念になってしまっていること。また、現代カルチャーの視点では、その観念は古臭くなってしまっているのでは? とも。

F 意見の相違や不一致のはなはだしいこの時代に、メットのような機関が、多様な解釈ができて誇張された美学をもつキャンプという概念を、展覧会で打ち出す意義はとても大きいと思う。キャンプは、社会から無視されてきた人々が自己表現を行い、文化について論じるための安全地帯としても機能するから。ただ私自身は、(展示されている)洋服を見たときにーー1月にランウェイショーで実物を見たヴィクター&ロルフの「ミームの元ネタ・チュールボム」シリーズのドレスでさえーー今の時代ならではの視覚表現だとは思わなかった。私は、歴史的、美術的伝統のもとにそれらの作品を解釈したのだけど。

画像: ベルトラン・ギュイヨンとスティーヴン・ジョーンズによる、スキャパレリのフラミンゴを模したヘッドピース

ベルトラン・ギュイヨンとスティーヴン・ジョーンズによる、スキャパレリのフラミンゴを模したヘッドピース

画像: 2019-’20年秋冬コレクションより。トモ・コイズミの服のディテール

2019-’20年秋冬コレクションより。トモ・コイズミの服のディテール

S 人々がキャンプにどっぷり浸かっているような今の時代にソンタグがいたら、“キャンプ的なもの”として何を挙げるだろう?『《キャンプ》についてのノート』を再読する前、贅沢だけど正直かさばる、この展覧会のカタログをパラパラめくっていたとき、私はすごくワクワクした。そして、今回の展覧会でも、美術的な視点に基づいた面白い発想を2つ、発見できた。

ひとつは、ギリシャ彫刻のコントラポスト・ポーズ(腰を左右どちらかに傾けて、腕を曲げて腰に手を当てるポーズ)の発明によって、キャンプは始まったという発想。古代ギリシャは男性間の恋愛を許容していたわけだから、これは適切だし見事な発想だと言える。もうひとつは、ラファエル前派をキャンプだとする見解。これはソンタグが言うところの、素朴で、意図的でないキャンプ。そう考えると、こういった芸術家たちが、その技術を過剰に、あからさまに見せつけたことにも共感できる。まあ、なぜ彼らがそうしたのかは理解できないけど。そういうわけで、私は、この展覧会に刺激を求めていたのかもしれない。しかし歴史的資料としての価値を抜きにすると、驚くほど意外性がなくて、あまり体系立っていない展示だった。

F 私がずば抜けて説得力があると思ったのも、まさにその前半部分だった。最初の展示室に、 1630年の小さなブロンズ像「ベルヴェデーレのアンティノウス」(ピエトロ・タッカの作とされている)の古典的な裸像とともに、1987年にロバート・メイプルソープが撮影した大理石のアンティノウス像の写真、ヴィヴィアン・ウエストウッドによる股の部分にリアルなオリーブの葉があしらわれたタイツ、そしてハル・フィッシャーによる1977年の『ゲイの記号論』の写真といったものが飾られていて、それはすごく興味深かった。そこにある男性の裸像はみな、片方のひじを曲げて腰に手を当てた、古典的で誇張された”キャンプ ポーズ"をとっていて、それは文化的に一貫した流れでキャンプを捉える強力な論拠だと私も感じた。

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